第1話 長谷見と藤 1
文字数 1,300文字
狭苦しく家々が立ち並ぶ何の変哲もない住宅街。その中にある2階建てアパート東側の角部屋に、藤は住んでいる。
この少し煤けた赤茶色の建物は俺の職場の徒歩圏内にあるので、気づけば外付けの鉄階段の下から6段目は昇ると大きく軋むということまで覚えてしまうくらいに通っていた。
俺が同じく会社の徒歩圏内にある自宅へ真っ直ぐ帰らないのは、無論この211号室の家主に会うのが目的だ。
211号室
第一話 長谷見と藤
「よっ、いらっしゃい。」
キイと情けない音をたてて開かれた薄い扉の内側から、藤はいつもの軽い調子で俺を見上げた。
細い黒髪の束が垂れかかった涼しげな眼が、かすかに細められて微笑む。中性的で整ったその顔立ちは、 30手前の成人男性にしてはかなり幼く見える。
「さ、上がった上がった。」
開いたドアを手で抑えながら、藤は体を壁に寄せ俺に道を空けた。
大人二人がようやく立っていられるくらいの面積しかない狭い玄関に足を踏み入れると、小窓から差し込む明かりだけが照らす薄暗い台所がすぐ左側にみえる。その古くさい模様のビニール素材の床が、この建物の歴史とインテリアなどにはまるでこだわりがない家主の生活感をそのまま現していた。
「上着かけるぞ。」
革靴を脱ぐ俺の背後から、扉に鍵をかけながら藤が言った。
俺はそれに短く返事を返し、促されるままコートと背広を脱いで軽く畳み藤に手渡す。
藤はそれらを左腕に抱えて、空いた方の手で俺の背中を押しながら台所と地続きの短い廊下を並んで歩いた。
廊下の先にある磨りガラスの格子戸を開けると、畳み張りの6畳間が広がる。真ん中に古ぼけた丸いちゃぶ台と窓の下の壁際に畳まれた布団、そして部屋の角に大量の本が積まれてあるだけの殺風景な光景は、毎日ほとんど変わらない。
藤がちゃぶ台の下に敷かれた座布団を一枚引っ張り出し、右手でその座面を軽く2回叩いて見せる。そして俺を見上げて「ん。」とだけ声を発した。
俺はまるで操作でもされているみたいに無言でその座布団に腰を下ろし、胡座をかく。自然と手が首もとに向かい、呼吸を邪魔していたシャツのボタンを外しネクタイの結び目を緩めていた。
そうしているうちに、藤は俺のコートと背広をハンガーにかけ終え、手に湯呑みを持って俺の向かい側に座布団を敷いて腰かける。
そして矢継ぎ早に俺の前に湯呑みを置き、ちゃぶ台に据え置いた電気ポットを持っておもむろに湯呑みにお湯を注いだ。見ると湯呑みにはお茶の粉末が敷いてあったので、透明なお湯があっという間に鮮やかな緑色に変わる。
「外、寒かったろ。まずはゆっくり暖まんな。」
そう言って、藤はポットを置いて頬杖をついた。
言われた通り熱い緑茶を啜ると、体の中からジワジワと温められ、冷えて強張った指先に血が巡っていく感覚。
半分程緑茶を飲み終えた頃にはすっかり体の力が抜けていて、これまで映画でも見ているような気分で眺めていた視界の映像に畳の匂いやエアコンの微かな風の感触が混じりだした。
「長谷見、おかえり。」
そして、耳の奥に響くような低く心地よい声が、俺の名前を呼ぶ。
「…ああ、ただいま。」
その瞬間、ようやく俺は慌ただしい一日の終わりを実感するのだ。
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