第3話 食後の一杯1
文字数 2,380文字
6畳の和室ワンルーム。
180センチの俺にはやや狭く感じる部屋も、俺より10センチは背の低い家主には丁度いいらしい。
もう5年は住んでいるというこの部屋には、大量の本以外は本当に物がなく、テレビすら置いていない。
俺が調理を担当すると藤はせめて片付けは自分でやるときかないので、俺はいつもそれを待つ間は所在なくこうして藤の部屋を眺めていた。
何度も飽きるほど見ているのに、藤がその場に居ないと何故だか知らない空間に居るようで妙な心地がする。
(この本、まだ新しいな。)
ふと畳に転がっていた文庫本に手を伸ばす。
適当にページをめくり中身を読むと、おそらく内容は恋愛小説だ。その手の作品はどうも合わないので、ろくに目も通さず俺はまた元の場所に本を置く。
藤は無類の本好きで、部屋の壁一面を覆うように積み上げられた本は、まるでジャンルがバラバラだ。
恋愛小説だろうがビジネス本だろうが、タイトルや装丁、はたまた作家のペンネームが気になるとかで衝動買いしては読んでいると言っていた。
藤の大雑把な性格は、こういう拘りの無さが所以なのかもしれない。
「すまん、待たせたな。終わったぞ。」
「ん?ああ、いや。」
ぼうっとしている所に話しかけられ、俺は少したじろぐ。
藤は居間の入り口の暖簾から顔だけ出した状態で、そんな俺を気に掛ける様子もなく悪戯っぽく笑った。
「今日も飲んでくか?」
そう言う藤の手には既に2本の缶ビールが握られており、大きな黒目が期待で光輝いている。
本と同じくらい、藤は酒が大好きなのだ。
「…わかった、付き合ってやる。」
「そう来なくちゃな。つまみは裂きイカでいいだろ。」
あからさまにウキウキとした声色で話す藤。
それは先程の食卓一杯に並んだ手料理達へのリアクションよりも眩いので正直やるせない気持ちだが、藤がそういう男だということはこの半年で十分理解している。
そんな俺の心情も知らず、ビールと裂きイカを持って藤は跳ねるようにして座布団に胡座をかいた。
「ほい、長谷見の分。」
「最初に言っとくが、今日はこの一本で終わるからな。」
「分かってるって。俺も明日は朝から仕事だし。それじゃ、乾杯。」
アルミ缶が鈍い音をたてぶつけられる。直後、藤は白い喉を仰け反らせてごくごくとビールを流し込み、大きくはぁーっと息をついた。
「あ"ーっ!最高!」
「お前…毎回毎回そのおっさん臭いのどうにかしろ。」
「いいだろ別に。若いのから見りゃもう十分おっさんなんだし。」
そういう問題じゃない。
そんな台詞を苦く薫る液体で飲み込みながら、内心は頭を抱える思いだ。
目の前の男は自分の見目がどういうものかまるで興味がないらしい。
真っ直ぐに伸びる上質な黒髪、血の色が透けるような白く滑らかな肌、まるで可憐な少女を思わせる愛らしさと年齢相応の艶やかさを併せ持った端正な顔立ち。
そんな稀有な容貌の男が、世の中に疲れきったおっさんのような酒の飲み方をしていれば、身内と言えども少なからずガッカリしてしまうのは仕様がない。
「勿体無い……」
「何が。」
「言っても無駄だ。」
「何だよ、つれねぇな。」
藤はつまらなそうに口を尖らせながら裂きイカを噛んだ。そんな粗野な仕草ですら目を奪われる程の美しさを放つので、俺の視線は無意識に藤の方へと引き寄せられてしまう。
「勿体無いと言うなら長谷見、お前の方だろ。」
「は?何がだ。」
すると、藪から棒に藤が言うので俺は思わず眉をひそめた。
藤は横顔のままビールを再び煽った後、語気を弱めて話し始めた。
「お前みたいなデキる男が、毎日のようにこんな所で一人暮らしの男相手に手料理振る舞って…これが勿体無い以外になんて表現するんだよ。」
藤は俺に向き直り、ちゃぶ台に頬杖をついて首を傾げた。さらさらと音がしそうな髪の毛が、その頬にかかる
微笑みながらもどこか寂しげに見える藤の表情。ふざけているのか本気なのか、その真意が読めず俺は戸惑った。
「…何を今さら。そもそもこれは、お前から言い出して始まった事だろう。」
「まあな。」
「何だ?まだ文句があるのか?」
「文句なんかないさ。ただ、こんないい男に好い人ができないのは何でなんだろう、って思ってな。」
「知るか、そんなこと。」
吐き捨てて、俺は思わず藤から視線を逸らしまたビールに口をつける。
何となく部屋に気まずい空気が漂っている気がして、俺はわけも分からず押し黙った。
「…ふっ、自分が“いい男”ってところは否定しねーのな。」
沈黙も束の間、突然藤が肩を小刻みに震わせ笑い出す。
そうして俺はようやく、最初からこの男にからかわれていた事に気づいた。
藤は無駄に場の空気を作るのが上手いので、俺はよくこうやって弄ばれてしまう。生来バカがつく程真面目な性格を自負する俺は、何度同じ目に合ってもこういう手合いに太刀打ちができない。
ケラケラと腹を抱えて笑う藤に対する苛立ちを抑え、なけなしのプライドを掛けて俺はフンと鼻を鳴らし、虚勢をはって見せた。
「俺がその辺の男の中でも能力、経済力共に優れていることなんか周知の事実だ。今更否定しても嫌味なだけだろう!」
「へー、長谷見の中の“いい男”ってのはそういう基準なのか。」
「他人にとっての俺の価値がそれ以外に何かあるか?」
何気なく俺が言うと、藤はピタリと笑うのを止めて目を丸くした。
予想外な反応に思わず俺が小首を傾げるのとほぼ同時に、何を思ったか藤は急に俺の頭を両手でなで回す。
「長谷見…お前は本当に可愛い奴だな。」
「何だ、おい。やめろ!何なんだ!」
乱暴に振り払う俺に構わず、藤は何かを噛み締めるようにしながら頭を撫で続けるので、最後は俺が根負けし仕方なく頭をこねくり回されてやる。
華奢な腕とはギャップのある力加減でやられるので結構痛い。
それでも思いの外暖かなその手のひらの感触が手離しがたくて、されるがままになっている俺はきっと、どうかしている。
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