第6話 始まり9
文字数 2,674文字
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帰る前にお茶でもどうかと藤は言ってくれたが、病み上がりの人間にこれ以上無理はさせられないと思った俺は、その誘いを断り帰ることにした。
居間に置いたままだった背広と鞄、余った食材の入ったビニール袋を持って玄関に立ち、俺は静静と革靴に足をいれる。
靴を履き終え振り返ると、藤は上がり框でズボンのポケットに両手を入れ、リラックスした様子で佇んでいた。
上がり気味の口角のせいで微笑んでいるようにも見える表情は、さっぱりとしていてまるで陰りがない。
一方で俺は、胸にわだかまりを残しており、どうも気持ちが晴れなかった。
この男の明日からの生活や体調が気にかかるのは、言わずもがなだ。これについては仕様がない。人情である。
しかし、それよりももっと根本的な思いが、このままこの部屋を出ていくことを拒んでいた。
"また、藤に会いたい。"
それだけの、シンプルな願望だ。
まだ今日で、藤と会うのは2回目。しかも初対面は俺が途中で泥酔しており、今回は藤が倒れていた。お互いまともな状態で会話を交わしたと言えるのは、合計して考えたとしても、2時間にも満たないだろう。
その事実だけを見れば、俺と藤はただの通りすがりの顔見知りに過ぎない。はっきり言えば、赤の他人である。
しかし、出会ってから先色々なことがありすぎて、俺はもはや藤のことをそう認識することができなくなっていた。
そんな素っ気ない、吐いて捨てるような間柄だとは、言いたくなかった。
ただそれは、あくまで俺個人の感覚でしかない。
二人で過ごした僅かな時間を藤がどう感じたのかは、本人のみぞ知るところである。
それを確認せずして、独りよがりな思い込みのままもう一度会いたいなどと、言い出す勇気はとてもじゃないが俺には無かった。
しかし、誰かに対してこんなことを思うのは生まれて初めてで、元々人付き合いも得意じゃない俺はそれを相手にどう伝えればいいのか、まるで見当がつかない。
頭の中が八方塞がりで困った俺は、無意識に眉間に皺を寄せ藤を見ながら無言で立ち尽くしていた。
それを変に思ったのか、藤が片眉を上げて首を傾げる。
「長谷見?どうした?忘れもんか?」
「あ、いえっ…すみません。その…何でもありません。では、帰ります。」
不意に尋ねられ、答えに窮した俺は気持ちとは裏腹に自ら終わりを宣言をしてしまう。
そのせいで本心を語る流れを作り出すこともままならなくなり、結局俺は何一つ言葉にしないまま、この場を立ち去ることを選ぶしかなかった。
下唇を軽く噛みながら、腰から上半身を折り深々と藤に頭を下げる。
「改めまして…この度はご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。以後、酒の飲み方には気をつけます。色々とお世話になり、大変、ありがとうございました。」
「おいおい、何だよいきなり他人行儀だなぁ。…しかしまあ、今日は俺もすっかり世話になっちまったからな。改めてちゃんと礼を言うよ。こちらこそ、本当にありがとうございました。」
お互い頭を下げ合った後、偶然同時に顔が上がったので、藤はまた目を細めて笑った。
俺もつられて笑ったが、顔の筋肉がうまく動かず、ぎこちなくなった。
いよいよこの部屋に居る口実を失った俺は、後ろ髪を引かれながらも踵を返す。
ドアノブに手を掛けドアを押し開けた所で、唐突に藤があ、と思い付いたように声を上げたので、俺は動きを止めて再び振り返った。
「そういえば、長谷見の休みは土日だよな?」
「そうですが…それが何か?」
脈絡のない質問に、その意図を図りかねて俺が目を瞬かせると、藤は下ろした両手を腰に置き直しながら、じゃあさ、と続けた。
「今度の金曜日の夜もし空いてたら、長谷見にもらった酒で一杯やらないか?俺も次の日、休みだからさ。」
「は?」
予想もしなかった藤からの気軽な誘いに、思わずすっとんきょうな声が出る。
「ん?金曜日はダメか?」
「いえ、そうじゃなくて…え?俺の持ってきた酒でって、この部屋で?」
「そうだけど。嫌か?」
「いや、だからそうじゃなくて!」
藤の極端な聞き方に対する苛立ちと、願ってもいない状況が突然成立したことへの驚きと喜びが入り雑じって、俺の思考はとっ散らかっていた。
己を落ち着かせる為に、額に手をやり少しの間目を閉じてから、もう一度藤の顔をちらと見る。
その清々しい表情はつい先ほど俺を見送ったものとほとんど変わらないのに、意味合いは全く違うように感じられた。
徐々に心が高揚していく。それでもまだ半信半疑な気持ちの俺は、ゆっくりと手を下ろし、藤を見据えた。
「…良いんですか?こんな、よく知りもしない人間と、家で酒なんて…。」
「あははっ、何だよさっきからツレねぇなぁ。知ってるとか知ってないとか関係なく、一緒に酒飲んで喋って、助け合ったりしてさ。もう俺たち立派な友達じゃねーか。」
藤は豪快に笑って、俺の左腕を勢いよく叩いた。
"友達"
そんな発想、自分の中からはまず、生まれてこない。
雲間から太陽の光が降り注いだかのように視界が眩しく輝きだし、胸が高鳴る。
己がどこかの青春物語の1ページに存在しているような気になり、俺は嬉しさを通り越して、恥ずかしくなってきた。
首から頭のてっぺんまで、火でも吹き出しそうな程熱くなってきた俺は、もはやまともに藤と目を合わせることができない。
「おい長谷見…顔赤くないか?もしかして、お前も熱中症か!?」
「違う!違うから、その、構わないでくれ…」
「本当に大丈夫か…?」
俺が力一杯首を捻って背けた顔を疑わしげに覗き込んでから、藤は冷蔵庫に入れたスポーツドリンクを取り出してきて、一応持って行け?と差し出す。
すでに抗う力など残っていない俺は、それを素直に受け取ることにした。
そして、よく冷えたペットボトルを見つめて少し逡巡してから、躊躇いがちに切り出す。
「…あの、それでしたら俺からも提案なんですが。」
「ん?何だ?」
「その日の食事はまた、俺に作らせてもらえませんか?」
「えっ、良いのか?」
「…今日みたいなことはもう、今後一切勘弁してほしいので。」
俺の申し出に、藤が前のめりになってぱっと咲くような笑顔を見せるので、つい、ひねくれた物言いになってしまう。
顔の火照りはまだ暫く、治まりそうにはなかった。
ーこうして"友達"となった俺と藤はそれから何度も約束を交わし、その後そう日を置かずに、いちいち約束するのも面倒になる程頻繁に会うような仲になっていく。
それがまさか、藤から"友達"と呼ばれることに違和感を感じるようになろうとは、この時の浮かれきった俺には到底想像し得なかったのであるーーー。
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