第11話 噂という魔物

文字数 1,940文字

居心地がとても良かったはずの会社を、いったん退職することになった。
この5年間、とても居心地よく勤務できていたはずだったのに。
じわじわと歯車が狂いだしていることを、察知するのが遅かった。
またしても、同じ轍を踏んでしまった。
女の妬みには注意していこうと心掛けていたつもりだったのに、今回もまた、私は女の妬みによって、居心地が良かったはずの職場を去ることになってしまった。
自分でもため息が出てしまう。
女が多い職場。
男は圧倒的に少ない。なので必然的に男が管理職に就くことが多い。
管理職のその男とはオープニングから一緒で、だから最初からよく会話をしていた。
好き嫌いの激しい人で、好きな人にはとことん甘く、嫌いな人には容赦なかった。
そんなあからさまな態度は、当然ながら周囲の反感を買っていたが、いかんせん相手は管理職だから、私たちがどうこうできる相手ではない。
せいぜい自分が嫌われないように自己防衛するしかない。
私は幸いなことに好かれていた。
もちろん働く上でのことで、好かれている理由は私の人柄だと自負していた。
ただ、好かれている度合いが最上位で、だから私に対しての態度は他の誰よりも優しかったのは事実だ。
それは、私が常に笑顔でいることと、業務ミスがほとんどない、ということに起因していること。
正当に評価されているからこその扱いだと今でも思っているが、周囲の目にはそうは映らなかったようだ。
特に、嫌われてキツくあたられている人たちからすれば、面白くなかったのだ。
「なぜあの人だけ?」
という思いが、私の知らない所で渦を巻いていった。
「何かあるよね?」
誰かがそう言ったが最後ダムの決壊が切れるように、一つの答えに向かって一気にみなの思考がそこに流れ込んでいったようだ。
「怪しいよね、あの2人」
そんな風に思われていることに、私と管理者だけが気が付いていなかった。
能力や人柄が評価されているからではなく、私はただ単にえこ贔屓されていると思われていたのだ。
えこ贔屓の理由。
それは私がその管理者の『愛人』だから、だそうだ。
いつ頃からそんな噂が広まっていたのか!
全く気が付かなった。
みんな、私にニコニコと接していたのに。たわいない雑談に毎日花を咲かせていたのに。
私に笑顔を見せておきながら、私のいない所で『愛人』呼ばわりしていたとは!
本当に、本当に、女は恐ろしい。
少なくともこの『愛人』の噂は、今年の1月の時点で水面下では広まっていたようだ。
今年1月から異動してきたもう一人の管理者が私に言ったのだ。
「ここに異動してきてすぐに、その話を聞いた」
と。
脱力するしかない。
一度広まってしまった噂はいくら必死に否定しても、もうけっして消せない、消えない。
それは過去の経験から、十二分に知っている。

今回、いったん退職になったのは、私が他部署へ異動したいと希望したことが発端だ。
業務の負担がどんどん重くなってきたのに、私1人に押し付けられるようになったのだ。
管理者に訴えて、管理者がチーフに応援要請をするものの、実際の人員配置はチーフの仕事で、そのチーフ2人がわざと全く応援人員を寄こさなかった。
チーフ2人は、どちらも女。
2人の口癖は、
「ズルいよね」
だ。
いやいや、どちらがズルいのか。
チーフという立場を利用してのあからさまな嫌がらせ。
これが半年ほど続き、私は体調を崩してしまった。
他部署にいる友人がみかねて、こちらに異動しておいでと声をかけてくれた。
本来なら、通るはずの異動希望。
これが、通らなかった。
希望部署への異動は認めないと、上位の管理部から返答された。
友人も、管理者も、もちろん私もこの決定に納得できなかった。
なぜなのか理由を求めても、異動不可の返答のみだった。
現在の部署での勤務は私の体調的に無理だったので、結果、退職することになった。
いざ退職手続きを行う時に、私はこの『愛人』の噂を聞かされた。
そして後日、仲良しだった人からLINEがきた。
どうもこの『愛人』の噂が管理部の耳に入っていたと。
それによって私の仕事面での評価も最低になっていたと。
だから異動希望が通らなかったと。
怒りに震え、同時に脱力した。
根も葉もない噂によって、私は希望を絶たれて退職に追い込まれた。
まだ『愛人』が事実なら、我慢もしよう。
全くのデタラメなのに!
そもそも噂された管理者と2人きりで会ったこともなければ、連絡先すら知らない。
なのに私は『愛人』なのだそうだ。
事実よりも、噂の方が真実味を帯びて人に伝わる。

『愛人』という噂を立てられるのは、これでもう何度目だろうか。
ただの一度も誰かの『愛人』であったことなどないのに。
こうならないように、女の妬みを警戒していたはずなのに。

またしても私は、噂という魔物の威力にのみ込まれてしまったのだ。






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