第20話 ため池のナマズ

文字数 1,534文字

十四年勤めた会社は、まるで澄んだため池のようだった。
荒波ひとつなく、錦鯉や小金やメダカが共存するように、社員もパートも学生バイトもみな、隔たり無く仲良く仕事ができていた。
私はそこに小金として入った。
錦鯉はじめ、みんな親切で、安住の地を見つけたと思った。
新参者でも仕事を振ってくれ、成果は正当に評価された。
澄んだ水の中で、私はのびのびと泳ぐことができた。
数年が過ぎ、私の位置付けが上がった。
責任を与られ、発言権を持つようになった。
錦鯉に進言し、メダカたちを教育するようになった。
そうしたら、ますます私の評価が上がり、昇給という美味しいエサをたくさん貰えたたことで、いつの間にか、小金だったはずの私は大きくなっていた。
錦鯉と並ぶ大きさになっていた。
気持ちが良かった。段々と私は悦に入るようになった。
周りもまた、そんな私を持ち上げた。
「凄いですね」
と。
「さすがだね」
と。
初めは謙遜していたのに、いつしか私はそれを当然と思うようになっていった。
それだけの働きをしているのだから、と。
さらに数年が過ぎた頃には、錦鯉ですら私の事を一目置くようになっていた。
みんなが私を敬い、かしずいた。
ため池の中で一番の存在となった私は、みんなの動きが気になり始めた。
メダカや小金はもちろん、錦鯉の動きでさえ気になった。
「そうじゃない。違うでしょ」
そんな風に思うようになった。
そう思えば思うほど、私の身体はさらに大きくなって重くなり、少しずつため池の底に沈んでいった。
底に沈んでしまうと、澄んでいたはずのため池の中が見えづらくなった。
見えづらいから、私は吠えた。不甲斐ないみんなに吠えた。
ひと声吠えると、みんな震えあがって言う事を聞いた。
吠える事が効果的であると知った私は、以来ため池の底からよく吠えた。
何年それを続けただろうか。
気が付けば、ため池はすっかり澱んで濁っていた。
底からは何も見えず、誰も近くに来なくなった。
だから、泳ぐ陰影に向って吠え続けた。
けれど水が濁っているせいで、何の反応もなかった。
身体が大きくなりすぎて、浮上もできずに悶々としていたら、新入りのメダカに小金が教える声が聞こえてきた。
「池の底には恐ろしいナマズがいるから、気を付けて」
そう言う声が、はっきり聞こえた。
一瞬、なにを言っているのか分からなかった。
この澄んだため池に、ナマズなんていなかったはずだ。
そう思って、やっと気がついた。
このため池の底に沈み、良かれと思って吠えていた私。
いつの間にか、錦鯉よりも大きくなった私は、ため池の底に住まうナマズになっていたのだ。
私の吠え声は、ナマズが起こす地震。
みんながそれを恐れ、疎んじている。
私が底に沈んでナマズになってしまったことで、澄んでいたため池を澱んだ沼地にしてしまったのだ。
浮上して、澄んだため池に戻そうとしても、大きくなり過ぎた身体はプライドという重りが邪魔をして、泳ぐことも、みんなに頭を下げることも難しくなっていた。
今さら頭を下げたところで、もう手遅れだとも思った。
それほどに水は濁り、ナマズは嫌われていたのだ。
私は浮上することを諦めて『転職』という穴を横に掘って、そこから出ることを選んだ。
出てみたら、そこは大海原だった。
ため池とは違い、絶えず波が襲ってきて流される。
辛くて苦しくて、泳ぐことはおろか、うまく息もできないほどだ。
世間という大海原は、経験という看板だけ背負い、プライドという自尊心ばかりが大きなナマズなど、求めてはいなかった。
「この度は誠に残念ながら」
「ご縁がなかったということで」
手元には、そんな返事ばかりが返ってきた。
これが現実。これが世間。
食いぶちを求めて泳ぎながら、溺れてしまいそうになる度に、あの澄んだため池を思い出して、恋しく思う。
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