第8話 隣の芝生に望む色

文字数 1,790文字

前の職場はとても居心地の良い所だった。
何のスキルも必要なく、ノルマもない。
シンプルな接客業。
そこで働いていた時は、業務内容に誇りを持っていたし、責任感もあったし『接客のプロ』という感覚でいた。
自分自身の働きのおかげで、高い顧客満足度を維持できていると思っていた。
不満があるとすれば、給料面くらい。
業務内容や追わされている責任に見合う対価が欲しい、正当に評価してほしいと思ってはいたけれど、
「給料も大事だけれど、働きやすさが一番よね」
と、変に自分を納得させていた。
「この環境は、お金に換えられるものではない」
などと、本気で思っていた。
10年間も。
なんと目出度いことか。
会社にとって、これ以上都合のいい奴はいないだろう。
正当な給料を支払わずとも、ほんの少しお世辞を言っておけばいいのだから。
お金より評価だけを欲するなら、いくらでも持ち上げようというものだ。
あの頃の私には、給料が労働の対価であるという発想がなかった。
いや、あの職場で長く働けていた者はみな、同じ感覚でいた。
だから、それがおかしいということに気がつかなった。
給料が安くても、人間関係が良いのが一番。
そんなぬるま湯に浸かっていられたのは、みんな同じ芝生の上にいると思えていたからだ。
芝生は一つで、みんな同じ色だと思えていたから、仲良くできていただけ。
芝生はここにしかないと思い込んでいただけ。
実は他にも芝生があることに気づいた者は、それを探すために旅立っていった。
私たちは彼らの背中を見送りながら、
「なんて無謀で、愚かなんだろう」
と、言い合った。
「ここ以外に芝生はないのにね」
そう言い合った。
ここに居る事が正解と思いながら、私は時々、見送った背中を思い出していた。
もしかして、本当に別の芝生があるのだろうか?
もしかして、ここより良い芝生なのか?
気になって、彼らの消息を尋ねたりした。
彼らの旅の失敗を願いながら。
見つけた芝生は、枯れ果てたものであればいい、と。
決して、青々としたものではないように、と。
伝え聞く話が悲惨であればあるほど、私はその話を嬉しい気持ちで聞いていた。
ここから出て行った彼らが幸せになるなんて、許せないとすら思っていた。
苦労して、後悔すればいいと思っていた。
期待通りの話が聞こえてくる度に、私は心の中でほくそ笑んでいた。
彼らの選択が間違いであったと確認できて、ホッとしていた。
隣の芝生が青いなんて、自分が居る芝生より青いなんて、あり得ない。
隣の芝生の色は、枯れ果てた茶色、もしくは黒であってほしいと思った。

そう願ったツケなのか、いつしか私の足元の芝生が徐々に枯れ始めてしまったのだ。
私の足元だけが、枯れていった。
それは私の力では止められず、足元の芝生が完全に枯れてしまったがために、不本意ながら私も他の芝生を求めて旅立たねばならなくなった。
ひっそりと。
一人ぼっちで。
私の背中を見送るみなの顔は、笑っていた。
「他に芝生などないのに」
と言って、笑っていた。
これまで私がそうしていたのと、同じように。

みなを見返したくて青い芝生を探したけれど、なかなか見つからなかった。
どこかに青い芝生があるはずと、さまよい歩いたけれど、結局たどり着けたのは、芝生ですらない、ひどい荒れ地だった。
もう、芝生を探す気力も体力もなかったから、私はその荒れ地に腰を下ろし、少しずつ耕すことにした。
固い土を掘り起こし、湧いて出る害虫を駆除し、水をやって耕した。
そうして5年。
やっと、芝生のようになってきた。
求めていた、青い色の芝生になりつつある。
この成果を聞きつけて、前の職場のみなが私をお茶に誘った。
成果を語りたくて、私は勇んで出かけた。
みな、口々に聞いてきた。
「青い芝生はあったの?」
と。
私は答えた。
「荒れ地を耕し、芝生にしたのよ」
と。
やっと青くなり始めた芝生の話を、しかし誰も聞いてはいなかった。
みなの目は、黒く濁っていた。
私の芝生が青いことを、誰も望んでいなかった。
そんな話を聞きたいわけではなかった。
私の芝生が黒かったら、みんなきっと嬉しそうな顔をしたのだろう。
枯れ果てた芝生しか手にできなかったという話を聞きたかったのだろう。
かつての私と同じように。
そうだ。
人はみな、自分の芝生だけ青ければいいのだ。
他者の芝生の色が青いなんて、許せないのだ。
荒れ地を耕した私の話を聞きながら、その目が物語っていた。
「枯れ果ててしまえ」
と。





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