第4話 鼻先の人参

文字数 2,498文字

今の会社に勤めて5年。今の部署に配属されて4年半。
業務にも人間関係にも慣れてきた。どちらも今のところ、良好といっていいだろう。ある部門を任されており、充実感を味わえてもいる。
こんな私を激励するように、上司が笑顔で話しかけてきた。
「頼りにしているよ」
と。
「ゆくゆくは、君を管理職にと考えているから」
そう言われた。
「ありがとうございます」
と、頭を下げながら、ふと、この部署に転属を告げられた4年半前のことを思い出した。
 
当時、不慣れな業務に四苦八苦しながら、やっと研修を終えたばかりの私は、突然管理者に呼ばれた。直属の上司のさらに上の方からの呼び出しで、もの凄く緊張した。
誰もいない会議室で、一対一での話だった。
「新部署に、業務応援に行ってほしい」
そう言われた。
「新規立上げで、社内で今後力を入れていく部署だから、信頼できる人材に応援に行ってもらいたい」
そうも言われた。
私の鼻の穴が膨らんだのは否定できない。かなりの褒め言葉に聞こえた。私を高く評価してくれている、そう思えた。
私の思考を察したように、管理者は続けた。
「期間は半年。その間にどんどん現地採用をして人員を増やしていくから、君はノウハウを教えていってほしい」
話が大きくなってきて、尻込みしそうになる私に、管理者は畳みかけてきた。
「むこうで半年間頑張ってくれれば、こちらに戻ってきた時には、然るべきポストを用意する」
そう言われた。
『然るべきポスト』とは、なんと魅力的な言葉だろう。まるで凱旋帰国するような感じか。ちょっとした英雄ではないか。
おそらく私の顔はにやけていたに違いない。そしてそれは、管理者の思う壺だったに違いない。
「分かりました」
という私の言質を確認してから、おもむろに新部署の詳細を提示されたのだ。
先にそれを聞かなかった私が愚かだったのか、後出しした管理者の戦略勝ちか。
新部署の所在地は僻地にあり、しかし通勤は電車と徒歩のみで車使用は不可だった。必然的に私の通勤時間は片道二時間かかることになる。
固まる私を説得するように、
「君しかいない。戻ってきた暁には、管理職への椅子を用意しているから」
と言って、笑顔を見せてきた。
片道二時間の通勤時間より『然るべきポスト』という言葉に、魅せられてしまった。
当時の私は、畑違いの職種に転職して、研修は何とか終えたけれど、すっかり自信を失くしていて、辞めようと考えていたところだった。
研修中から、自分の成績が悪いことを自覚していたし、覚えることが多すぎて、業務に付いていけていないことを実感していた。
こんな私を評価してくれたのだ。立上げ部署への業務応援なんて、まるで会社の代表のようではないか。さらに、戻ってきたら管理職の椅子が用意されているなんて。
承認欲求が巨大に膨らんでしまった私は『異動』と書かれた書類に署名してしまった。
そこについて管理者は、
「形式上のことだから」
そう言った。確かにそう言った。
他には誰もいない会議室で。一対一の空間で。
こうして私の異動は確定され、翌月からこの部署に配属された。配属されてから、すでに4年半が過ぎた。
応援と聞いていた半年が過ぎて、でも依然として私はこの僻地での勤務が続いていたから、現状の上司に、私はいつ戻るのかと問うたら、
「え? 君はもともと異動だけど?」
と、何の感情もない声で言われた。問うた私のことを不思議な目で見つめてきた。
話が違うと掛け合ってみたが、実際異動書類に署名しているのだから、おかしな事を言っているのは私の方ということになった。
あの時密室で言われた、
「形式上のことだから」
は、決して形式上のことではなかった。正規の手続きだったのだ。
管理者が言った言葉は空に消えて、書類だけが歴然と残っている。言われた言葉を証明する方法も、証人もいない。
初めから、私は異動させられたのだ。この僻地へ行かせる人間が、優秀な者のはずがない。落ちこぼれが人選されたのだ。
そうとは知らず、私はまんまと甘言にのせられてしまったのだ。
戻れるはずのない、片道切符。あの時管理者は確かに言った。
「戻ってきたら」
と。戻れなかったら、当然管理職の椅子の用意もない。戻らないと、戻れないと知っていて、口にしていたのだ。
「君はもともと異動だよ?」
そう、今の上司に言われて、やっと私は自分の愚かさに気が付いたが、すでに時、遅し。
騙した方が悪いのか、騙された私が悪いのか?
そもそも、直属の上司からの話ならまだしも、ほとんど面識のなかった管理者からの話を鵜呑みにしたことが間違いだったのだ。

今の私は、通勤時間が長いことを除けば、この部署でそれなりに働けている。荒れ地を耕して町にできたような感じか。
今年から部門の一つを任されて、充実感もある。
ただ、業務量が多く、残業せざるを得なかったり、皆が暇そうにしている中、私一人だけが忙しいといった状態が続く。任された業務ゆえ、誰かに手伝ってもらうわけにもいかない。
こんな私に、上司は頻繁に労いの言葉をかけてくれる。
「君を見込んで良かった」
とか、
「ゆくゆくは、チーフに考えているから」
などなど。
凝りもせず、その言葉に多少高揚してしまう。
「ゆくゆくは」
とは、なんと巧みな言葉なのか。
褒美をチラつかせ、ゴールを曖昧にする言葉。『ゆくゆく』とは、一体いつのことなのか? これ以上、何をどうすれば、具体的な褒美をもらえるのか?
そもそも、部門を一つまるまる任されているにも関わらず、私の時給は皆と一緒だ。立上げから居るのに。誰よりもこの部署に一番長く勤めているのに、昨日採用された人と同じ時給なのだ。
「君しかいない」
と、言われ、
「安心して任せられるから」
などと、上手いこと言われて、時給も地位も、一向に上がっていない。
私はまた、騙されているようだ。甘言を真に受けてしまっている。
「ゆくゆく」
も、
「いずれは」
も、おそらく永遠にやってこない。
それらはまさに、鼻先にぶら下げられた人参なのだ。どんなに顔を傾けても、顎を前に突き出しても届かない。どう頑張っても、口に入れることのできない代物。
それに気づかず食らいついてしまった私は、愚かな馬。

4年半前も、今も。
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