三二。

文字数 3,461文字


 岬悠人との〝最後の一日〟となった明治村遠足は、そのようにして終わった。
 復路(かえり)のバスの車中、担任の原國(はらぐに)先生が、岬に別れの挨拶を促したのをおぼろげに覚えている。
 学園に戻り、校庭での点呼の後に解散になって、報道倶楽部の面々は部室に機材を戻してミーティングを持ったはずだけど、そのときの岬のことはよく覚えていなかった。

 ミーティングが終わり、下校となったときには、もう岬の姿はなかった。
 だからハンカチを返すこともできていない。
 最後に言葉も、交わせなかった。
 ただ、自転車のカゴの中に、岬の筆跡で『10年後 たのしみに』とのメモが残されていて、それが岬の最後の言葉になった。

 最後の最後に黙って消えてしまった岬を、わたしは怒る気にはならなかった。
 もう連絡もつかないだろうこともわかっていた。


 だからわたしは、右手の人差し指に残る傷にそっと左の人差し指を当てると気持ちを整理し、十年後に届く写真を待つことにした──。



   ◆  ◆  ◇



 ──そうして、十年後……。
 いま、鈴華の手許には自分宛ての封書がある。


     *


 この週末に先立って、母からの電話で明治村から〝はあとふるレター〟が届いたことを知った。
 N市内の市立大学を卒業し小さな雑誌社に就職したわたしは、いまはN市内に住んでいる。
 雑誌社勤めの傍ら仕事で気の合った仲間と副業(事業)も始め、最近では執筆活動(物語を創ること)も再開した。
 学びに恋に仕事にと、忙しく過ごすうちに早や二十七歳…──。

 ……そっか、十年、経ったんだ。
 週末には実家に帰るという生活をしていたわたしは、その母からの電話で十年前の学校行事のことを思い出した。
 明治村…──あのハンカチは、包装(ラップ)(とか)れないまま、いまも実家の机の引き出しにある。

 わたしは、週の残り半分、十代の頃の思い出(記憶)を手繰ることが多くなり、金曜の仕事上りの時間を指折り数えて待ち侘びることになった。

 金曜日、十六時四十五分の定時に仕事を切上げると最寄り駅に向かった。
 実家の居間で母から封書を渡されたとき、わたしはあらためて実感した。……ああ、ほんとに配達されてくるんだ、と。
 母の視線はあきらかに興味津々というものだったが、義父(ちち)もいるその場で封を切るのは二十七歳となった身でもやはり恥ずかしく、その夜は封書を自室の机の引き出しに入れると、結局、いつもと同じように和子との長電話に興じて秋の夜長を過ごすこととなった。


 翌日──。
 午前中、義父(ちち)と一緒に細々(こまごま)とした家の修繕作業──例えば錆びて片方が開かなくなった門扉に油を射すことなど──をして過ごしたわたしは、昼食を済ませると散歩がてら、封書をポーチに放り込んで外に出た。
 何となく野外(そと)で封書を開くのもいいか、と、思ったのだ。
 それで高校時代に毎朝通った道を、自転車でなく徒歩で辿ってみた。
 半ばくらい行けば、毎日の下校で和子と別れた辻に出る……そこくらいまで歩いてみよう、そんな気持ちだった。

 あの時代(とき)と同じ田園風景のままの景色の中、秋風に吹かれて道を行く。
 畑を右手に見て左に入っていくT字路まで差し掛かったとき、あれ? と違和感を覚えた。
 大きな岩塊は記憶の通りだったが、なんだか違う。
 しばし立ち止まって、ようやくその理由がわかった。鎮座する岩の脇に、あの古ぼけた裸電球を吊った木柱がなかったのだ。
 記憶にあったその場所には、もう〝真新しい〟とは言えなくなった、コンクリート柱が立っていた。
 わたしは右手を上げて人差し指の傷痕を見ると、十年前にこの場所で起こったことを思い起こし、それからまた歩き始める。

 結局〝和子を見送った辻〟まで歩き切ってしまい、わたしは、もう少し歩いて川まで出ることにした。
 川べりの土手にただ一本、枝を広げたエノキの下に置かれたベンチに腰を落ち着ける。


 川を渡る涼風にしばし放心した後、わたしはポーチに手を伸ばした。
 そして〝十年という時間(とき)〟を越えて届いた封書を引っ張り出して目の前に翳した。

 明治村のシンボル、聖ザビエル天主堂の薔薇窓のステンドグラスを模した図柄が印刷された封筒…──。
 横書きで、十年前の岬悠人の書いた文字が連なっていた。
 男の字にしては細い、でもしっかりとした筆致の宛先と宛名……。
 そっか。こういう字を書くヤツだったんだ。

 わたしは、()()日──十年前の秋の明治村──の岬悠人を思い出そうとする。
 スッキリと鼻すじの通った、涼やかな目許の(イメージ)……そこまで浮かびかけて……でも細部はぼやけてはっきりとしなかった。
 それが悔しかった。

 ぽちゃん!
 川の流れのどこかで、魚が跳ねたのかしら。

 わたしは気を取り直すと、ポーチからペーパーナイフを取り出した。
 仕事柄いつも持ち歩いてるのだ。
 ベンチの上に封筒を置くと、封の隙間にペーパーナイフを差し込み、慎重に刃を当てながら折り目を切り裂いていく。
 ほどなく全開した封筒の中から、十年前の自分の肖像が現れた。

 十年前の岬の選んだ〝ベストの一枚〟…──。
 それは〝黒髪の流れる肩越しに黒い瞳を向ける、赤レンガ通りの上の女子高生〟だった。

 わたしは一瞬、はっとして、その後には、ああ、と納得する。

 同じ構図の画像がスマホの(ストレージ)にあった。
 下調べの事前ロケで岬に撮られた一枚……。
 大学を卒業するころにスマホが壊れ、データを取り出すことも出来なくなってしまったので、その画像は手許にない。
 いまはもう、ハッキリとは思い浮かべることもできなくなったそのスマホの画像を、当時からわたしは気に入らなかった。

 いま手許に届いた一枚は、同じ場所で同じような構図で撮られたものだったけれど、本当にぜんぜん違っている。
 スマホの画像の方のわたしは絵に描いたように〝つっけんどん〟で、可愛げがなかった。
 送られてきた〝ベストの一枚〟の方のわたしは〝少しはにかんだような柔らかい笑み〟を浮かべていて、表情だけで多くの想い(感情)を伝えてくる。



「──…上手く撮ってもらえたじゃないスか」

 いきなり耳許に声がした。
 記憶に()()()()()()()懐かしい声……。
 こころの奥の方で、さっと何かが広がったように感じた。

 わたしは声のする方を振り返る。
 ベンチの背もたれ越しに、いつからそこに居たのか、全身黒づくめの小柄な人影が(かが)んでいた。
 わたしの手許を覗き込んでいる。
 彼女をわたしは知っている。
 黒の帽子の鍔の下から覗くアッシュブロンドのショートボブも〝アーモンドなつり目〟も、つい今しがたに甦った記憶のまま…──。

 目が合うと彼女は黒帽子に軽く手をやり、それからベンチを回り込んできてわたしの横に立った。
「お久しぶりです……、鈴華さん」
 記憶に甦った〝あの日(十年前)と寸分たがわぬ顔〟が懐かしそうに笑った。
「ずいぶんキレイになりましたね。……険のとれたいい表情(かお)です」
 わたしは、自然に出てきた言葉を、(てら)いなく返すことができた。
「こういう表情(かお)ができるのを、アイツが教えてくれたから」
 そう言えたわたしの表情(かお)は、手の中の写真の少女の表情(かお)と同じものだったと思う。

 黒づくめの彼女は、当てられたような表情でわたしを見て、それから、確認しにきた答えを見つけられた、というような満足そうな表情になって頷いた。
 そして……。

 ──ああ……、
 わたしは理解する。
 この記憶(ものがたり)が結末を迎えたのだと……。


 彼女が、名残惜しそうな表情でアッシュブロンドの上の帽子に軽く手をやった。
「……それじゃ、アタシはこれで」
 笑顔で言って、それから左手で指を弾いて鳴らすと、始めからそこに居なかったというふうにそこから消えた。



 それからわたしは、もうしばらくそこに留まって、土手の上のベンチを離れた。
 十年を経て届いた自分の笑顔に満足しながら、秋晴れの午後のやわらかな陽射しの中を家路につく。


 川が流れている。
 水面を渡った風が、なにかを届けてくれたようだった。
 川向う、木立になっているところの繁みの影に、アイツが静かに立っている……そのように感じて視線をやった。

 ──…ああ、アイツだ
 小さく手を振ったわたしに、すべてを成し遂げたような曇り一つない表情で肯いた岬は、そうして秋の優しい光にとけるように消えた…──。

 わたしには、確かにそう思えた。


 最後にわたしは天を仰いで、今度こそハッキリと思い起こすことができた岬の(イメージ)に、〝ありがとう〟と、そう伝えた。

 秋の空が高い……。
 風が、なにごとかの返事を伝えてくれたように思えた。




                           ──終わり
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