〇三、

文字数 2,259文字


「ただいまー」
 家に着くと鈴華は、自転車を門柱の脇に続く小さな庭の隅へと押し入れながら、家の奥へと声を掛けた。
「おかえりー」 返事はすぐに返ってきた。
 居間の方から聴こえてきた母の声は若々しく、今日も元気さが先に立っている。鈴華はそんな母の声に自分も小さく笑顔になって、スクールバッグを掴むと玄関に回った。

 居間の母は、食卓の上──鈴華の家のそれはローテーブルだ──にノートPCと資料を広げて仕事をしていた。この一年、ウィルス感染防止で外出の自粛とテレワークが推進されて、母は家で仕事ができるようになった。
 いったん二階の部屋に上がって荷物を置いて下りてきた鈴華の気配に、母が〝いよいよ切羽詰まった声〟で応じた。
「──…ごはん、すぐ仕度するから待っててね」
 言葉と裏腹に、ノートPCの画面から母は顔を上げず、キーボードを叩く指の動きの熱量(テンポ)も増したようだった。
 鈴華は苦笑すると、腰を下ろさず台所へ向かう。
 冷蔵庫を開くと下ごしらえの済んだ材料がラップに包まって並んでいたので、鈴華は居間の方へと声を掛ける。
「温めるだけならわたしやるよ」
「そ……じゃ、お願い」 返事は、やっぱりすぐに返ってきた。
「はーい、はい」

 母の仕事の仕方は、娘の鈴華の目から見てもラディカル(極端)だ。
 夕食の仕度に取り掛かったものの、何かが頭に舞い戻ってきてノートPCを開いてしまったのだろう。
 テレワークの始まる前は一週間分の作り置きが冷蔵庫に並ぶのが常だったから、こんなことは奥村家の日常だ。
 鈴華はラップの掛かった皿を引っ張り出すと、電子レンジの中に収めた。


 鈴華の家は母子家庭だった。
 父の存在は物心のつく頃にはすでになく、親類縁者の類も記憶にない。
 鈴華はこのいつだって若々しい、元気な母の背を見て育った。
 母娘仲は良好で、気さく過ぎる母だったからその関係性は親子というよりは友人とか姉妹といった方が近かい距離感だったかも知れない。……一見、フランク(ざっくはらん)な関係だったが、鈴華はこの母をとても尊敬している。

 その母との距離感が、最近になって微妙なものとなっていた。
 きっかけは母に求婚する男性が現れたことで、そのことを母から直接打ち明けられたとき、鈴華は「いいんじゃない」と応えている。
 それに安堵したふうの母によれば、二歳年下のその男性とは仕事を始めた頃から見知った仲で、仕事上の同志、といった関係から始まったそうだ。
 鈴華は表向き賛意を示しながらも、心の中では、ちょっとだけ納得のいかない思いもあった。〝同志〟というなら、わたしだって同志だったんじゃないか、と……。

 その後何回か会ったその男性は、とてもいい人で、母が長い時間をかけて選んだのにも肯けたのだった。
 でも、それはそれとして、やはり他人と家族になるということはとても難しいことだということも、実感させられた。
 〝母との間に知らない()()が入ってくる〟ということには、慣れるということはないのではないか、そんなふうな思いが徐々に大きくなっていって、それがとても申し訳ない。

 母はそういう娘の機微を感じ取っているようで、話を進めるのは鈴華の高等部卒業と進学を待ってから、ということにしてくれており。相手の男性の方も理解をしてくれている。

 そのことにも、鈴華は申し訳ないと思っている。



 母と二人の夕食のあと、母に男性から電話があって、鈴華は風呂に入った。
 どちらかと言えば母に似てガサツなことを自覚している鈴華は、本当ならすぐにでも浴槽に浸かりたいところを、そう出来ない呪縛(のろい)に囚われている。
 鈴華は鏡の前に片方の膝をつくと、そそくさとその呪縛を一時的に解くための()()()儀式を始める。
 長い髪を(まと)めるのだ…──。
 鏡の前で鈴華は、この長い黒髪を軽く一巻きして後ろでまとめバンスクリップを被せて留めた。


 七年前にかけられた呪い……ストレートバングのセミロングヘアは、中学に上がる段になって母がそうすることを願ったものだった。
 このときは剣道をやっていた鈴華 (中学時代、県代表まで〝あと二つ〟というところまでいったこともある)は、中学生活は髪はショートにすると決めていたのだが、母の〝説得〟と〝(たっ)ての願い〟……「前髪を切り揃えられるのなんて学生時代だけよ。鈴華の髪は黒々としてて伸ばすときっと映えと思うの」「やってくれなきゃお母さん、泣いちゃうよ?」に、結局、折れたのだった。

 だいたい、顔の造りだって〝中の上〟くらいのわたしは〝長い黒髪の少女〟なんてガラじゃない。そんなふうに思って中学高校と過ごしてきた鈴華は、この長い髪が好きじゃない。
 具体的なことを言えば──、
 まずもって髪の量が多かった。
 そして色こそ黒いが髪質は太くハリもコシもあり過ぎるくらい。
 ……なので〝癖のない直毛〟になんてならず、大きく波打っている。

 そういう中途半端なところが自分の髪ながら嫌いだった。
 朝ともなれば毎度〝青春のバクハツ〟と格闘する羽目になる。雨の日なんか大変なことになるのが常……ともかく面倒なのだ。(もちろん、洗うのだって面倒くさい!)

 とは言え、湯船に髪を浸すような節度のない行いは自分で許せなかったし、それ以前に湿って重くなった髪が纏わりついてくる気持ち悪さは最悪だ。

 だから鈴華は、六年間この儀式を通していた。


 それから軽くシャワーで身体を洗い流して湯船に浸かっていると、鈴華の視線は自然と右手の人差し指の傷へと移り…──、

 あいつがこの髪のことを一度だけ話題にしたことを思い出していた…──。
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