三〇、、、
文字数 3,588文字
──あなたは、この結末を変えることができるわ……
耳許をくすぐる影の声に、鈴華はあらためて手の中のノートを見た。
そう……。
変えられる。
書き換えればいいのだ。
鈴華の傍らに寄り添う、もう一人の鈴華、影の鈴華がほくそ笑む。
──そのノートの中では、あなたの物語はあなたは想い通りになる
その言葉に聞き入るように固まって見える鈴華に、影の鈴華の顔がさらに近付く。
──そのノートの中では、
あなたはあなたにちょっとだけ都合の良い世界で
生きることができるの。 この先も、ずっと……
鈴華のノートを握る手に力がこもるのを見た影の鈴華は、鈴華の身の左の側から右の側へと躍るような
──そのノートがなくなってしまって良いの?
そのとき…──
「──…り……か……、鈴華……っ‼」
影の鈴華の、頭に直接入ってくる言葉とは違う、生の声が鼓膜を打った気がした。
それが和子の声だと気付いたとき、自分の気が遠退いていたのを鈴華は理解した。
そうしてなんとか意識を取り戻すと、自分の身が、いま
そうだ……。
そう思い至りながらも、気を張っていないとすぐに意識が遠退いていく。
辛うじて意識が繋ぎ止められているのは、和子の声が届くからだ。
鈴華は何とか意識を保って、声のする方へと腕を伸ばした…──。
◇ ◆ ◆
和子は、〝影の鈴華〟の似姿を描いている黒い染み見る間に増殖して渦を巻き、本物の鈴華を包み込んでいく
そのおどろおどろしい情景に思わず足が竦んだが、黒く渦まく染みの切れ間に、意識のない鈴華の生気を失った白い顔を見たときには、そのようなことには関係なく体が動いていた。
影の渦巻く舞台の中央へと駆けて行くと、鈴華の顔が引き込まれていった黒い染みの渦の中へと、鈴華の名を呼びながら腕を伸ばす。
鈴華の体を探して腕を回すと、指先が鈴華の指に触れた。
和子がその手首を掴むと、鈴華の手も和子の手首を掴んだ。そのまま力任せに引っ張ってみる。だが黒い染みの渦はしっかりと鈴華の体に纏わり付いて、和子の腕力ではびくともしなかった。
「……鈴華っ‼」
和子は必至になって鈴華の名を呼んで腕を引いた。が、逆に黒い澱みの中へと引っ張られる。
ざわざわと波立つような黒い染みが、和子の頬に触れんばかりにまで近付いてきた。
と、誰かの手が、鈴華の手首を握る和子の手の上に伸びてきて、しっかりと掴んだ。
鈴華の体の重みが、ふっと、軽くなった。
首を回す余裕の出来た和子が隣を向くと、やはりそこには岬悠人がいた。
「──…このまま引っ張り出す」
岬はそう言うとさらに力を込めて鈴華の腕を手繰る。
和子も力いっぱいに腕を引いた。
◆ ◇ ◆
水の中から水面に浮き上がるときのように、鈴華は黒い染みの渦の中から出てきた。
実際、引っ張り上げた岬の腕の中で、大きく息を吸っては吐く鈴華の様子は、水から出てきたように見える。
肩で大きく息をしていた鈴華が、ようやく落ち着いて岬の顔を上げた。
二人の目と目が合ったとき、黒い染みが渦を巻き始めた。
その気配に、鈴華と岬、和子、それにスーパーバイザーの目線が向く。
再び鈴華の似姿をとった影が、鈴華だけでなくこの場の全員の頭の中に、直接言葉を送り込んできた。
──残念……もう少しだったのに
影の鈴華は、長い髪──本物の鈴華よりもずっと長い蓬髪が周辺を
その影の鈴華の視線が左の手の中のノートへと動いたのを、鈴華は意識した。
影の鈴華の顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。
──ノートを渡して…… それで悠人も、
誰に迷惑が掛かっているわけじゃないでしょう?
鈴華はもう一度、岬の顔を見た。
肯いて応えた岬の
そんな鈴華に、岬は静かな声で言葉にした。
「それでいい…──本望だ」
それで鈴華は決心できた。
鈴華は影の鈴華を一瞥して距離とタイミングを
影の鈴華がその動きに反応する。そこに岬が距離を詰めた。影の鈴華の眼前で〝通せんぼ〟の形になる。
……が、影はそれに動じなかった。
影の鈴華は岬に嗤うと〝鈴華の似姿〟を解いた。
無数の黒い染みの線になって岬の両の脇を流れていき、鈴華の向かう先……スーパーバイザーとの間の空間に先回りする。
岬はそれを目で追って鈴華に叫んだ。
「──奥村っ!」
声の先……鈴華の眼前に集まって渦を巻く影が、そこでまた鈴華の似姿に戻ろうとしている。
鈴華は、影が完全に鈴華の姿になる前に足の運びを〝開き足〟に
完全に抜き去ることはできないかもしれない……。
でもそれでよかった。
「スーパーバイザーさんっ‼」
鈴華は、視界に捉えたアッシュブロンドの下の青い目に〝了解〟の意を見て取るや、手にしたノートを
ノートはくるくると回転しながらスーパーバイザーの方へと飛んでいく。
けれどそれは、影の鈴華も先刻承知の行動だったとみえる。影は、鈴華の似姿を完全に形造る前に次の行動に移った。
──あっ!
足下と右の腕から二本の黒い染みの
それを、触手に足を絡まれ舞台の上に突っ伏すこととなった鈴華は、面を上げて見た。
黒い触手の思いの外の速さに、ノートは影の手中に落ちるか……と思われたとき──、
ノートは、舞台の袖口から一気に跳躍してきて、触手のさらに上に滞空しているスーパーバイザーの手の中にあった。
左手でノートを掴み、右の手でアッシュブロンドの上に乗った
スーパーバイザーは、猫のようなしなやかさで音もなく舞台の上に降り立つと、先ず鈴華に肯き、それから──最後に手を伸ばしてきた──影の鈴華に微笑んで、手回し式の
影の鈴華の、声なき叫びが頭の中に響く。
──やめてえぇぇーーーっ‼
影の鈴華の絶叫に動ずることなく、スーパーバイザーはハンドルを回した……。
鈴華は、ゆっくりと瞼を閉じた。
鈴華は闇の中を落ちていた。
落ち続けながら、なぜ自分がここにいるのか考えようとしている。
「や……、助かりました~」
闇の中からスーパーバイザーが現れた。片手に握ったままの手回し式の
「なんとか解決、です」
微笑を浮かべたスーパーバイザーは、真面目な表情に戻して鈴華の目を覗き込む。
「辛かったっスね……」
「あいつが、
スーパーバイザーは頷いた。
すこし心を落ち着かせてから、鈴華は笑顔になって返した。
「この後は、どうなるの?」
スーパーバイザ―は軽く両手を上げてみせた。
「いろいろな部署に応援出してもらいました。 ……どうにかこうにか〝
言って、ちょっと言葉を選ぶようにしながら続ける。
「──…岬悠人さんとの
「…………」
鈴華の勝気な目が伏せられてしまう前に、スーパーバイザーはアッシュブロンドの頭の後ろをかりかり掻きながら、トーン高めのお道化た声で言った。
「…──まー、もともとアタシのポカっちゃポカっスから、
「え?」
スーパーバイザ―は、手を下ろすと小さなドヤ顔になって応じた。
「ちょっとだけ、期待の持てる結末……になるハズです」
その言葉とドヤ顔の意味に怪訝となりながらも鈴華が頷いて返すと、スーパーバイザーは握手を求めて手袋をはめた右手を差し出した。
「──それじゃ、アタシはこれで」
結局、言葉とドヤ顔の意味はよく解らなかったが、鈴華はスーパーバイザーの手を握った。
「ありがと。あなたが担当してくれて、よかった…──」
スーパーバイザーは軽く手を振ると、アッシュブロンドの上の帽子に軽く手をやり、それから、消えた……。