〇九、
文字数 3,645文字
一丁目に上るスロープに、岬悠人の姿も〝黒い影〟もなかった。
偉人坂と分岐するところまで来て、鈴華は判断を迫られる。
真っ直ぐ上がれば三重県庁舎、左の石段になっている偉人坂の先は森鴎外と夏目漱石が住んだという縁側のある日本家屋だ。
鈴華には迷ってる時間はなかった。
えいの、やっ! とばかりに偉人坂の方へと飛び込む。
スロープの先に人影はなかったし、いくらなんでも岬の足がそんなに速いとは思えなかった。
木立の中を縫うように蛇行する石畳の小道に人影はなかった。
あれ? ……選択
木々の合い間の先にも岬の姿を見つけられず、ときおり観光客や星南学園の制服姿と行違って、けっきょく鈴華は、森鴎外と夏目漱石の家まで来てしまった。
家の裏手からぐるりと時計の針と逆回りに半周して、縁側の面したお庭に出る。
縁側から中を窺っても岬の姿はなかった。
と、同じ庭先に面した玄関脇の応接兼書斎の小さい方の縁側の辺りで、見知った顔がこっちを向くのが見えた。
午前中ここを担当している撮影組三班の面々だ……。
怪訝な
どのみち
「
班長の白石が班を代表して訊いてきた。他の二人の取材の手を止められない。
「あー、ちょっと……」
鈴華は何だか言い訳がましい
「──…いまここに、岬のやつ、来なかった?」
「岬? いや、だってあいつ……」 いよいよ話が呑み込めなくなった白石が訊き返す。「なに、あいつ今日、来てんの?」
そうか……それじゃ
あ……っ、と鈴華が、さらに視線を右に動かすと、家の正面の垣根に沿って西郷從道邸の脇へと伸びる小道を急ぐ岬悠人の横顔を一瞬見た気がした。……すると影は、その岬を追っているのだろうか。
「姿みた…──」
そこまで応えかけていた鈴華は、いきなり現れた当の岬悠人の姿に挙げかかった声を呑み込むと、白石への言葉尻を代えた。
「ごめん白石……このまま撮影、続けといて」
そう言って白石ら
小道は左に弧を描き、緩い上り坂の先は突き当りのT字路になっていて、右に折れれば西郷邸の玄関口、左を行けば〝ぐっ〟と右に曲がって反対方向に向き直って、ベランダに面した芝生に出る。
緩い左曲がりのカーブは、両脇の木立で視界が遮られていた。その上、前方には
それでも駆けてしまっていた鈴華は、T字路に入った辺りで、いきなり面前に人の気配を感じた。
あっ、と
「ご、ごめんなさいっ!」
足を止め、慌てて振り見やった視線の先に黒い
鈴華の視界の中にいた黒服姿の彼女は、目が合うと〝自分にはお構いなく〟というふうに帽子に手を当てて、軽く会釈を返して済まそうとした。が、鈴華の視線が自分を追っていることに気が付くと、一瞬、〝しまったなぁ〟という感じに顔を
鈴華の方も〝……?〟というようになってしまうと、黒服の女性は思案顔になった。
それから、いきなり黒服の女性は鈴華の背後の方──T字路の左の小道の方を〝あっ‼〟と指差してみせた。
つられた鈴華が、指差された先──自分の後ろを振り見やる。
そうして、そこに何があるというわけでもない木立の中の小道を見て、慌てて黒服の女性に視線を戻す。
もう黒服の姿は消えてしまっていた。……大して時間が経っているわけでもないのに。
鈴華は、はっ、と駆け出すと、黒服の女性が消えた小道をぐるりと回り、西郷邸の正面、ベランダの面した芝生の脇へと出た。
木立を抜けると視界が開け、鈴華はそこで足を止める。
淡く光る空を背景に、正面に緑に輝く芝、右手にバルコニーを持つ空色の意匠の洋館。
鈴華は首を振って辺りを見る。
左手の木立の先には和食処の翡翠亭が見えたが、回り込んで繋がる舗装路の上や自動ドアのガラスの玄関口に、黒服の女性の姿も、黒い影も、岬悠人も見つることはできなかった。
秋の午前の透き通った陽射しの下で、涼やかな時間が流れているだけだ。
立ち尽くす鈴華は混乱した。
ええと、先ず何で岬悠人が
あの得体の知れない〝黒い影〟は何?
それから、
よくよく考えてみると、何だかどれも現実味がない。
〝白昼夢の中にいる〟ってこんな感じなのだろうか。
そんなふうに考えてしまった鈴華は、再び岬悠人の姿を見失った
和子たちのとこへ戻ろ……。
仕方なくそう思い直した鈴華は、芝生に沿った道を朝に入村した正門の方へと歩き出す。
ずいぶんと遠回りになるが、それでも、もと来た道を戻れば白石たちに出くわすわけで、いまとなればそれは避けたかった。
白石については
それは判っていたが、それでも説明はしなければならないし、周りの視線が面倒くさい。だから遠回りでも迂回することにしたのだ。
……それと、そうやって時間を使えば〝
鈴華は早歩きになって、聖ヨハネ教会堂へ続く道の手前を右に折れて、池に沿った方の道を急いだ。
それにしても…──。
さっきの
なんで一言もないわけ……? と。
その
今日、来てるんなら一言あって然るべきだ。
ハンカチ返さなくちゃって思ってるわたしの身にもなれ!
報道倶楽部の取材ポイントは知ってるわけだし、だいたい部長のわたしの連絡先だって知ってるはず…──。
鈴華はスクールバッグのポケットからスマホを抜き出すと、連絡先の中から『岬悠人』の文字を確認した。
バツの悪い
コール二回目で繋がった。……あっさりと。
──え⁉ ええぇ……
鈴華は内心で動揺しつつも、スマホを顔の横に持っていった。
すると…──。
『…──だーからっ……ダメなんですって! ストップ! ストーーーップ‼』
切羽詰まったアルトのトーンに耳を打たれた。
反射的にスマホを耳から遠ざけた鈴華は、小さく顔を顰めた顔でスマホの画面を覗き込む。
「…………」
通話は切れてしまっていた。
なぜ岬の番号に掛けて今日初めて会った(?)黒い
すると…──。
不思議なことに、『〝おかけになった電話番号は、現在使われておりません……〟』 と
──ちょ……っ、これって、いったいどーいうこと?
つい今さっき繋がったばかりの番号なのに……。
黙ってスマホの画面を見つめていた鈴華の
ふつうに考えたら〝ふつうじゃないこと〟が起こっているようだ。
これには〝岬〟と、あの〝影〟と、それから〝黒の
そうすると〝やっぱり岬はここにいるんだ〟…──。
そんな確信にも似た思いを、鈴華は得た。
なら岬悠人は〝捜せば会える〟。鈴華はそう信じることにした。
鈴華はスマホをスクールバッグのポケットに戻すと、再び早歩きに歩き出した。
行き先に当てがあるわけじゃなかったし、焦ったところでどうにもならない、できないわけで……。
けれど、なんとなく〝立ち止まっていてはダメだ〟という気はする。
だから鈴華は、何かしらの〝期待〟と〝確信〟をもって歩くことにした。
先ずは一丁目から出よう。
鈴華は村営バスの通りの起点になっている一丁目の広場へと急いだ。
バスのルートに沿って巡るのがいいだろう。
きっと向こうから現れる。……そんな気がし始めている。
◇ ◆ ◆
そんな鈴華を見て頭を抱えるモノがいた。
黒い
彼女は深く溜息を吐くとやれやれと頭を振る。
どうやら仕事に戻ることにしたようだった。