二二、

文字数 3,632文字


 西郷從道邸の夜の園遊会を通り過ぎた鈴華たち一行は、左手の生垣(いけがき)越しに森鴎外と夏目漱石が住んだという家の縁側を見ながら歩いている。
 鴎外・漱石宅は、西郷邸とはうって変わって静かだった。
 生垣の切れる丁字路を、庭と玄関のある左手に折れたときだった…──。


 丁度そこに立っていた街灯の光量が、すぅ、と落ちた。
 暗くなり、視界は、まるで〝(しゃ)が掛かった〟ような薄ぼんやりとしたものになった。
 鈴華は辺りを見回した。なんとなくねっとりする空気の中で目を(しばた)かせる。
 景色は変わっていて、彩度が低くなった映画のシーンのような視界の中には、もう鴎外・漱石宅は見つけられなかった。

 ──と、鈴華の傍らを誰かが追い抜いていった。
 消炭色の筒袖(つつそで)(たもと)の無い着物)に(にび)色の(くく)(ばかま)、腰には無骨な(こし)えの小太刀を手挟(たばさ)み、腕に白木の弓を抱えている。
 年の頃は鈴華とそれほどかわらない。

 実際に見たことはない人物のはずだったが、彼の名はわかっていた。
 〝弦丸(つるまる)〟だ。
 ……鈴華の生み出した物語の中に住まう人物。
 その背中が、やはり岬悠人に似ているのを確かめて、ああ、やっぱりそうなんだと、鈴華は思う。
 そんな鈴華の先で、岬と同じ声の弦丸が、顔も向けずに背中越しの声を投げ掛けてきた。
「急げよ……追手が迫ってる」

 次の瞬間の鈴華は、童子水干(どうじすいかん)姿に男装した〝二の姫〟だった。
 そうと認識したときには、鈴華であって鈴華ではない意識の中に、二の姫としての記憶が甦ってきた…──。

   ◇  ◆  ◆

 ──時は戦国……。
 世は麻の如く乱れて久しく、人は、土地や水場や身分といったものを奪い、奪われ、互いに角突き合わせて相争うことをしている。
 そういう時代に生れついた二の姫の出自とは、山間(やまあい)辺土(へんど)の山神を祭る大祝(おおほうり)を務める土豪の家柄だった。
 大祝とはいえ、ただ神を祭る神職の家ばかりというわけではもちろんなく、小なりとはいえ土地を治める領主の家…──やはり二の姫の暮らす世界もまた、争いと無縁ではいられようはずはなかった。
 その朝、主家の跡目争いに乗じ家督を狙う、叔父、朝野長方が父の館を攻めたのである。
 そろそろ秋風も立とうかという、良く晴れた日だった。

 父は不意の朝駆けにも少ない手勢をまとめ()く戦ったのだったが、善戦虚しく出城としていた山裾の(やしろ)を落とされ、陽の暮れる頃には館へと退いていた。もはや館が囲まれるのは時間の問題。父は館の門を固く閉ざさせると、奥座敷に(おもむ)き、妻と二人の娘の前に座した。
 館が落ちるを覚悟した父はそれを詫びると、二の姫にだけ童子(わらべ)水干(すいかん)装束を渡し、山神の(もり)に落ち延びるよういった。
 ──姉、大姫は生来病弱で山中の逃避行には耐えられない。父と母は姫を置いて去ることは忍びない。せめて二の姫は館を抜け、山中に逃げ延びてくれ、と……。


 二の姫は、そのときに泣いた。
 父と母が冥途へ逝かれるとき、なぜ姉だけを連れてゆくのだ。
 負け戦の(なら)いが不憫というのであれば、それは自分とてそうではないか。
 二の姫は涙ながら父母に言い募った。

 身体が弱く病がちの姉に、思えば父母は付ききりだった。
 もの心つく頃には姉の線の細さにその事情を察してはいたが、それでも姉が父母の愛をひとり占めしていると、理でないところではそう思っている自分を知っていた。それでも、二の姫はそれが良いと思わねばと、自分に言い聞かせてきた。
 それなのに……。
 その夕、武運命脈の尽きた父は、自分だけはこの戦国の世に残り、生きよといった。
 母も、自分が父のその言に従って館を出ることは正しいことだと信じた表情(かお)で、そっと肯いた。
 姉の大姫は、これまで父母の愛情を自分一人で(さら)ってきたことを詫びて、生き延びてくれることを願うと、そういって面を伏せた。

 それでも、ひとりでどうして逃げ落ちることができましょうと、そう言葉を継いだ二の姫に、父は山神の使いを()していると言って、庭先に控える一人の少年に目をやった。
弦丸(つるまる)殿だ」
 片膝を突いた姿勢でいた少年は黙って父を向き、それから二の姫に面を向けてきた…──。

 これが、ふたりの出会いだった。
 …──鈴華はいま、自分の書いた物語の中にいる。


 出会って早々、弦丸は山神の(もり)までの案内を約束したが、その際、二の姫に奇妙なことを約束させた。
 決して自分に触れてはくれるな、と……。
 その理由を(ただ)(ひま)なく、渡された水干に着替えさせられた二の姫は、少年に付いて館を抜け出た。父母と姉との別れはそれきりだった。
 首尾よく裏の山に上り戦の声に館を振り見やったときには、門も主殿も火の手が上がり、奥座敷からも煙が上がっていた。
 そのときには二の姫も、自分が生きて父母と姉の御霊を祀らねばならぬと思っていた。

 山狩りの手が繰り出される前の一時に、二の姫と弦丸は一息付くことができた。
 山中、互いによく知らぬ二人の間に言葉はなかったが、このときになって先に声を掛けたのは二の姫だった。

「……弦丸と言ったか?」
 弦丸が顔を向けると、二の姫は庭先でのことをようやく訊けた。
「そなた、先ほど〝触るな〟と言ったようだったが、それは一体どういうことか?」
 弦丸は、面倒そうな表情になって素っ気なく応じた。
「言葉通りだ。触れられれば、俺は消えてなくなる」

 そのぶっきらぼうな言い様は二の姫の癇に障った。
 (かしづ)けとはいわぬが、大祝(おおほうり)の家の娘に対する礼はあろうが……。
 それに、言うに事欠いて〝触れれば消えてしまう〟などとは。

「ほう……」
 二の姫は不快の念が表情に出るのも構わず、皮肉めいた言い様になって問い重ねた。
「ではそなた、物の怪(モノノケ)か何かか?」
 このとき二の姫は、山神の使いである弦丸に対する自分の振舞いのことは棚に上げていることに気付いていない。
 弦丸はそんな二の姫に忖度(そんたく)しなかった。そもそも自分の言った言葉に何らの(やま)しさも感じていない。彼は真実を言ったまでだった。
 だから弦丸は、言葉が足りなかったかと、さらに言継いだ。
「……そのようなモノではない。人だ。……いや、人だった」
 それは飽くまで、彼なりの誠意から、だ……。

 が、言われた二の姫の方はそうと取らなかった。
 一向に要領の得ぬ話に、女子(おなご)のゆえ(てい)よくあしらわれたと感じた二の姫は、まなじりを吊り上げて弦丸に迫った。
「そなたのはなし、その証はどのように立てられる?」
 弦丸の顔つきが少し変わった。

「なぜ俺を信じぬ?」
 二の姫はそんな弦丸を()め返した。
「きょう会ったばかりのそなたを一から十まで信じることなどできぬ。第一、言っていることに道理があると思えぬ」
「ではどうする?」
「触ってみる」
「それは構わないが、俺が消えてしまえばお前は山中にひとりとなる。お前ひとりで朝野の囲みを抜けられると思っているなら、そうすればいい」
 完全に逆上(のぼ)せてしまっている二の姫に対して、弦丸の方は飽くまで鷹揚(おうよう)自若(じじゃく)だった。
 ──試したければ試せばいい。俺は消えても構わない。
 そう(うそぶ)いた弦丸の顔に、二の姫は、年齢(とし)に似合わない何かを感じて気圧された。
 我を通そうというときの自分の顔を見るようで、二の姫は、ばつの悪い思いに目を逸らせてしまった。
 それでこの話は仕舞いとなった。

 あとになって弦丸の口から聞いたことには、弦丸は確かに人として生まれたが、人として育つことはなかった、とのことだった。
 赤子の頃に人身御供として山神に捧げられたらしい。
 本来そのとき、弦丸は命をは終えるはずだった……。
 けれど、それを憐れんだ山神が妖術で生かし続けてくれているのだと、彼は言った。
 妖術で保たれている身体はとても脆く、本物の人の肌に触れると術が解けて消えてしまう。
 そういうあやふやな存在なのだ、と。


   ◆  ◇  ◆


 …──二の姫のものだった感覚が、遠退いていった。
 気付くと感覚は鈴華に戻っており、数歩先で和子がこちらを振り見やって立ち止まっていた。その和子の表情(かお)が少し怪訝だった。
 どうやら立ち止まってしまっていたようだ。

 と、鈴華は傍らに誰かが追い付いたのを感じた。
「なにやってる」 ぶきらぼうな──…弦丸に似た…──気配の誰かが言った。「──急げよ」
 それが岬悠人のものであることを鈴華は知っている。
「うん……」
 鈴華は曖昧な感じに頷くと、意を決したように岬の隣に並んで歩みを進めた。

 和子がちょっとびっくりした表情になって、それから何か察したように、二人に道を譲る。
 岬が何ともいえない表情になったが、隣の鈴華の手前、何も言わずに譲られた道を、鈴華と連れ立って黙って歩く。
 それを見送った和子は、後から付いてきたスーパーバイザーと顔見合せると、声を発てずに笑い合った。


 一行は偉人坂を下ると二丁目の広場に辿り着いた。
 まだ先は長いのを知っている鈴華は、ときおり隣の岬の顔を盗み見るように見上げながら考えている。
 やはり二の姫と弦丸の物語は、自分と岬とを、無意識に重ね合わせて書いていたのだろうか、と。
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