三一、
文字数 3,763文字
目の前にいた相手が誰だったか思い出せずにもう一度その顔を見ようとして、鈴華は、ぼんやりとした目を
焦点を結んだ像は、自転車の後輪のリングロックだった。
「おはよー」
「……はよー」
C組の琴音のマスクにくぐもった声に半ば条件反射で返した鈴華は、体を起こして中庭の方に顔を向けた。
前庭の上の空は青く高い秋晴れで、前庭には
天気予報で晴れることは知っていたが、やっぱり晴れてくれたのは嬉しかった。
感染症の蔓延で修学旅行は延期だし、その他の学校行事もほとんどが中止や延期となってしまっている。せめてこの遠足は楽しい記憶として残したい。
鈴華は、前庭までの道すがら、目に付いた報道倶楽部の面子に声を掛けていった。
「ナミちゃん、台本、昨日差し代わってるから……」「……だいじょうぶ。夜のうちに和子から
「あ、馬原……、バッテリーの予備、準備できてる?」「──
その言葉尻に背中から声が重ねられた。
「──…俺が何だって?」
鈴華が振り見やると、いつからそこに居たのか、岬悠人が立っていた。
「ちょっ……いつから居たのよ?」
足を止め、どぎまぎしたような表情で岬を見返した鈴華は、馬原の視線にあらためて訊き直した。
「予備のバッテリー……」
岬は、ああ、とスクールバッグのファスナーを開いてみせた。そこそこ大きめのモバイルバッテリーが二つ納まっている。
次いで岬は、
「……それよりこれ、ちゃんと使えんのか?」
バッグから
「ああ、意外と効果あるよ」
応えられない鈴華に代わって馬原が応じると、岬は、ちょっと信じ難い、というふうな表情で訊き返す。
「光量、おもちゃみたいじゃん」
岬は、今日がこのクラスでの最後となる。
この春に転校してきたからクラスに
そんな岬が、今日を終えればもうクラスから居なくなってしまう。
実感のないまま鈴華は、飄々といつもと変わらない岬を見た。
そうだ、ハンカチ……、と指先を切った
「おっはよー!」
正門の方から、和子の元気な声が聞こえてきた。
それで皆が一斉に正門へと視線を向けたのに釣られ、鈴華もハンカチを返すタイミングを
そうして
だからあのハンカチは鈴華の手にあるままに返されず、バスは明治村に入った…──。
◆ ◆ ◇
入村した鈴華たち報道倶楽部の部員らは、三つの撮影班に分かれると、それぞれの持ち場へと散っていく。
鈴華と和子と高橋、それに岬、という第一班の面子も、
「ここでの撮影って、十時
高橋の隣に収まった和子が、鈴華を向いて訊いた。
「…………」
その〝行間〟にあるものの意味に思い至らずに鈴華は思案顔をつくりかけた。
……ああ、と、そんな〝
「おーけーおーけー、わかった!
そうして和子は、高橋の腕を取って引っ張っていく。
「──あたしら灯台の方、回ってくるね。……じゃ、五分前になったら交換局の前で!」
その芝居がかった様子で、ようやく鈴華にも、これが和子の気遣いなのが
和子は高橋を引っ張るようしながら、上体だけ鈴華と岬を振り見やって笑顔をつくり、小さく手を振ってきた。そして足早に三丁目の方へ歩いていく。
隣の高橋から何事か言われ、そちらに向いた和子の横顔は、いつにも増して輝いていたのと比べ、二人を見送る鈴華の顔は、穴が合ったら入りたい、というふうだった。
「奥村……」
隣で、そんな和子に引かれる高橋を気拙そうに見送った岬が、言い難そうに小さく言った。
「おまえさ、こういうときもうちょっと〝雰囲気〟とか〝空気〟とか、読めるようになった方がいいと思うぞ」
「……うん」
鈴華も、さすがに何も言い返せはしなかった。
もーれつな自己嫌悪と戦っているだろう鈴華を刺激しないよう、岬はそっと息を一つ吸うと、意を決したように声をあらためて鈴華に言った。
「それじゃ……俺たちも、一緒に、歩かないか?」
鈴華がゆっくり顔を向けてくるのを待って、岬は、赤レンガ通りに誘うように目線を動かして言った。
「──俺、今日が最後だから……時間ないんだ」
そうだった。
今日で岬は居なくなる……。
鈴華は、弾かれたように岬の隣へと足を運んだ。そして、そのままおとなしく岬の側らに収まった。
そんな鈴華の反応に岬が少し驚いたふうになって、それに不満気な
「──なに?」
「いや……」
わずかに目を
「…──カメラ、持ってきたんだ。……写真、撮らせてくれないか?」
鈴華は素直に「いいよ」と頷いて返して、それができた自分に、自分が一番驚いている。
でも、それで何かが変わったのがわかった。
鈴華は自然に綻ぶ顔を岬に向けて訊いた。
「それで、どこ巡るの?」
「あしの向くまま……かな」
そう応えた岬の顔は、明らかに鈴華に見惚れていた。
◇ ◆ ◆
鈴華と岬は、午前中の撮影までと午後の撮影の後の時間を一緒に歩いた。
撮影でも同じ班だったから、岬の最後の一日をずっと一緒に過ごせたことになる。……
そうして一緒に歩く間、岬の手にはカメラがあったが、それがいつもの〝むずかしそうなカメラ〟(……デジタル一眼というやつ)でなかったことに気付いたのは、赤レンガ通りの下見のときと同じ場所で、最初の一枚を撮り終えたときだった。
どんなふうに撮れたか見せてもらおうと寄っていくと、なんだかラベルプリンターのような音を立ててカメラからカードが繰り出されてきたのだ。
その場で
これには鈴華も、あれ? という表情となった。
デジタルが苦手な鈴華でさえ、画像はデータの方が扱いやすいと思う。
そんな鈴華に、岬は「ちょっと考えがあるんだ」とだけ言うと、カードの表面に像が浮き上がってくる前に、余白の部分にメモ書きを入れてバッグに放り込んでしまった。
「見せてくれないの⁉」
「そ。あとのお楽しみ」
軽く抗議の声を上げかけた鈴華に、岬は笑って応えた。「──こういうアナログな感覚が、写真
結局その場は、楽しそうにそんなことを言った岬に納得させられ、鈴華が写真の出来映えを確認したのは昼食の後のタイミングだった。
二十枚ほどのプリントを和子たち報道倶楽部の目を盗むように確認し、それらがどれも〝憶えておいて欲しい表情〟に撮れていたことに満足し、ホッとしたのだった。
そしてこの後、二人の時間が終わろうという段になって、なぜ彼がインスタントのカメラにこだわったのか、その
◆ ◇ ◆
午後の撮影を終えた鈴華は、宇治山田郵便局舎のドームの下で、レトロな風合いを感じさせるスタンドテーブルの上の『申込み書』にペンを走らせる岬を見やっていた。
申込書には『はあとふるレター』とある。
鈴華は、申込み書の記載事項を書き終え、鈴華に見えないように写真を入れた封筒に封をしている岬に、マスクでくぐもる声をさらに潜めて言った。
「なるほど……こういうこと、考えてたんだ」
明治村で、預かった手紙を十年後に投函してくれるサービスがあるのは知っていた。それが岬と結びつかなかったのが、我ながら意外だった。
岬は、そんな鈴華にちらっと目をやった。
「思いつき。 …──十年経ったら〝俺の選んだベストの一枚〟が届く……ってのは面白いんじゃないかな、ってさ」
「んー、でも十年だよ」
そのタイムスケールの設定が大げさだ、と口を尖らす鈴華に、岬は笑って返す。
「十年経っても色褪せない一枚だよ」
歯の浮くような言葉。
それをさらりと口にして、言われた当の鈴華の
その背中について行きながら、鈴華は心中でもう一度呟く。
──十年、だよ……
それは余りに遠い年月。
そう感じたのを憶えている。
あのときに鈴華は、ハンカチを返すのはやめようと、そう決めた…──。