〇七、

文字数 3,664文字


 鈴華が足を止めたのは、駄菓子屋八雲の店先から数人の星南学園高等部の生徒が出てくるタイミングだった。先に到着していたグループの男子だ。
 それぞれにラムネや駄菓子……けん玉⁉ といったお土産を手に、同じ並びに軒を連ねる本郷喜之床──石川啄木がここの二階を間借りしていたという…──の面前に置かれた腰掛け周りの休憩場所へ移動していく。

 普段の鈴華ならここで彼らに近付いて取材というのも一興だったが、このときはそうせずに、男子らと入れ替わるように駄菓子屋へと入っていった。

 軒下に並んだアナログなおもちゃの類──けん玉もあった──を目に留めながら、店の奥へと歩を進める。中に入れば駄菓子がびっしり並んでいる。鈴華は思い出した。
 そういえば岬のやつも昂奮してたな。

 なんだろう。男子の方がこういうアナログ感に魅かれるのだろうか。
 そんなことを思いながら、鈴華は、岬が買おうかどうか真剣に悩んでいた輪ゴム鉄砲に手を伸ばす。
 優形(やさがた)で、どちらかというと寡黙な雰囲気を作っていたくせに、こういうものに意識がいく岬のことが可笑(おか)しくて、知らず、ふっふふ、っと笑ってしまっていた。

 それから、あの日の岬がしたように輪ゴム鉄砲を元の場所に戻すと、店の奥の方に並べられた瓶入の金平糖に手を伸ばす。──岬のご相伴に預かった金平糖は、淡いさくら色がとてもかわいらしく、その色のイメージ通り、すっきりとした甘さがよかった。

 ひょっとしてあの色は、あいつなりにわたしの好みの色を選んだつもりだったのかな?

 そんなことを考えながら、今日の鈴華は緑色の鮮やかな瓶を選んだ。……なんていうか、岬が自分()のために選ぶのだったら、この色が一番似合うんじゃないかな、と思った。


 金平糖を買うと駄菓子屋を出た鈴華は、五丁目の入口に立つ聖ザビエル天主堂には向かわずに、いま来た道を戻り始める。
 どうせ五丁目は午後の撮影場所──帝国ホテル中央玄関前の池の周辺──として割り当たっているのだから、いま回らなくてもよかった。
 なのでもう少し四丁目を回って、それから二丁目に戻ることにした。

 とりあえず来た道を、宇治山田郵便局舎を乗せた小さな台地の下まで来ると、郵便局の下見板張りの壁のやわらかな黄色い色味に惹かれるように、鈴華はスロープを上っていく。

 そういえば、と、この道で学生カップルと行違ったことを思い出した──。

 帰り際だったからもう夕刻で、西の傾いだ日差しを照り返す時分のこの場所は、白い漆喰塗りと黄色い板張りの色調がほのぼのと落ち着いた雰囲気を(かも)していて、その中を照れながら手を繋いで歩く学生のカップルを浮き上がらせるようだった。
 そんなカップルに内心でドギマギしながら、ちらちらと目をやっていた鈴華だったが、あのとき隣で、
「──…悪かったな。隣にいるのが俺なんかでさ」
 と言った岬の表情(かお)を見たかったな、といまになって思った。……さすがにあのときは見れなかった。

 鈴華は、なぜだか今日は、気付けば岬悠人(あいつ)のことを思い浮かべている自分に猛烈な自己嫌悪を感じ、顔を(しか)めて歩調を速めた。さっさと岬悠人の影など忘れてしまえとばかりに、品川硝子製造所のショップへと飛び込むことにする。
 そうだ。今日こそは母にプレゼントを買って帰るんだ。


 硝子ショップをたっぷり時間を掛けて見て回った鈴華が買ったものは、母と自分の分の箸置き二つ(聖ザビエル天主堂のバラ窓(ステンドグラス)がモチーフのもので、鮮やかな色味が万華鏡みたいで綺麗だった)だった。
 物書きの母にと、ガラスペンやランプなんかも考えたのだが、現実主義者の母に使ってもらえるかどうかわからなくて、結局、見送った。

 ま、現実なんてこんなものね。


 鈴華は店を出ると鉄道寮新橋工場だった機械館の前へと階段を下りた。
 秋空に映える白い板張りの壁と空色の切妻屋根がすっきり涼やかな外観の機械館の前の道を歩いていくと、あずき色の、ボンネットを残すレトロな外観を模した村営バス(シャトルバス)がやって来た。
 道を端に寄った鈴華が車窓を見上げると、星南学園高等部の濃紺ダブルのブレザー制服を着た生徒の姿も何人かあった。

 バスと行き違った先で道を突き当ると、高台の上に建つ歩兵第六聯隊兵舎の裏手になる。この建物の正面の階段の辺りも撮影場所だったから、下見のロケで通った場所だ。兵舎とはいえ漆喰壁の白さが明るい印象の建物で、なんだか寄宿学校を連想させないこともない。
 鈴華は石積みの階段を上って兵舎の脇に出た。真っ直ぐいって左が建物の正面になる。

 ──…ん?
 視界の端を黒い影が過ぎて行った。
 鈴華は立ち止って、影を追って視線を振ったものの、兵舎の裏手の道の先に、何も捉えることはできなかった。

 ……(なん)だろ?
 いったんは小首を傾げた鈴華だったが、結局そのことはそのままにして、裏手側の入口から兵舎の内部(なか)へと入っていった。

 兵舎の中には和雑貨を扱う店があり、玄関の小ホールから売り場になっている部屋の方を覗くと、小物を手に取る星南学園のブレザー制服姿の女子グループがいた。
 男子生徒の姿がないのは、たぶん二階の「射的」と「矢場」に引っ掛かっているのだろう。
 鈴華はそのまま階段下となっている小ホールを過ぎ、廊下を正面側の出入り口へと進み、外に出た。


 そうしてそのまま四丁目のカフェ前の広場につづく階段坂に進んだ。
 階段坂の途中、踊り場になった場所の左手に日本赤十字社中央病院病棟の玄関を見る。
 岬がここの廊下の光──南に向いた窓ガラスからの午後の日差し──をすごく気に入っていたのを思い出した。窓越しの〝秋の和らいだ陽射し〟に伸びる桟の影に「光がよく回ってる」と見入っていた岬……。
 鈴華が「こういうのが好きなんだ?」と訊くと、「俺、写真部なんだけどな」と苦笑を返した岬の表情が鮮やかに甦ってきた。


 せっかく柔らかい表情になった鈴華だったが、躍場まで降りたとき〝できれば避けたい顔〟に()()()()()B組の大場優菜と出会(でくわ)すことになって、顔を顰めることになる。
 なぜ大場優菜が〝避けたい顔〟になったかと言えば、これにもやはり岬悠人が関係していた。

 その顛末とはこうだ…──。
 夏休みの最中、活動休止となった新聞部の後始末で登校していた鈴華の元に、いきなり大場優菜は現れた。彼女とはクラスも一緒になったことはなく、ほとんど接点らしい接点はなかったのだが、顔は知っていた。……というより、大場優菜という女生徒は学年でよく知られた存在だった。
 長い黒髪に男好きのする顔、発育の良いスラリとした身体つき…──そういう彼女は学年男子の視線を集める存在で、まあ、セックスシンボル的なアイドルだった。
 彼女自身、自分がどう見られているかよく理解して(わかって)いる子で、人気のある男子を〝振り向かせたがる〟という性格の持ち主でもあった。

 そんな大場優菜が、その日、鈴華を真っ直ぐ向いてこう宣言したのだ。「あたし、岬悠人と付き合うことにしたから」と……。
 このとき鈴華は、大場優菜のそういう面倒臭さに、心底の嫌悪を覚えた。

 周囲の新聞部女子が「宣戦布告?」などと無責任な期待にざわつく中、鈴華は真っ直ぐ大場優菜を見返して言った。
「どうぞ」
 ただひと言返したあとは黙って見返すだけの鈴華に、大場優菜は笑って頷くと、新聞部の部室を退出して(でて)行った。


 その大場優菜が、E組の長尾──容姿だけが学年上位の薄っぺらなヤツと鈴華は思っている…──に腕を絡めて階段坂を上がってくる。付き合った男子生徒には全員に見せているだろう輝かんばかりの笑顔が長尾の顔を見上げていた。岬がその顔を見たかどうかは知らないが、いま隣にいるのが長尾ということに鈴華の心がザラついた中で、その顔が前へと向き直る。
 やはり目が合ってしまった。
 一瞬だけバツが悪い視線を交わすことになって、それから大場優菜はこれ見よがしに、長尾の腕を抱えるようにして腕を絡め直してみせた。鈴華の方は歩調を緩め、背筋を伸ばして努めて平静を装っている。

 二人とすれ違うときの鈴華は、大場優菜の隣にいるのが岬悠人でないことにホッとするよりも、いま自分の隣に岬がいないことの方を腹立たしく思う自分に気付かないでいた。

 そんな鈴華が気付いたのは、大場優菜の後から階段坂を上がってきた風変わりな風体の存在と視線である。
 どのくらいの風変わりかというと、まだ秋だというのに黒のレザージャケット、同じく黒のボーラーハット(山高帽)に黒のスリムタイという黒づくめ。帽子の鍔の下から覗く髪はアッシュブロンドのショートボブで、小柄なことからもおそらく女性だろう。

 そんな怪しい出で立ちの人物の〝アーモンドなつり目〟の青い瞳が自分に向けられていた。そのことに気付いた鈴華が見返すと、黒服の女は驚いたように視線を外し、帽子に手を当てるのもそこそこに、小さく会釈して逃げるように階段坂を上がっていった。

 鈴華はそんな黒服の女を追って視界を巡らせたが、階段を見上げたときには、視界の中に黒い服装を見つけることはできなかった。
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