二五、

文字数 2,557文字


 それから一行は逍遥の小道を抜け、月明りの下の階段を上って小さな駅舎の前に出た。
 開けて展望台になっているそこを夜風に吹かれながら、北側から東に曲がって下る坂道に入り、品川硝子製造所の脇から呉服座(くれはざ)の前へと抜ける。
 そこからは()のしっとりとした幻想的な光に包まれることになった。

 秋祭のような縁日なのだろうか(……明治村の中に神社はないが)、呉服座(くれはざ)の向こう隣にはぎっしりと露店が出ていて、雑踏と喧騒の中を行く鈴華たち一行の装いは、いつのまにやら秋着物という塩梅(あんばい)だ。露店の並びと人の波が導く先に目をやれば、高台の上に、月明りを浴びた聖ザビエル天主堂が白く輝いていた。

 高台に上り天主堂前の広場に出ると、そこも露店で囲まれており、和装、洋装 (──明治・大正期のクラシカルな)取り合わさった人の出で溢れ、賑わっていた。
 一行は、そんな不思議な露店の並びを愉しんだ。
 途中に一度、露店から少女が飛び出してきて小栗饅頭(こぐりまんじゅう)の小皿を和子の前に差し出してきた。
 思わず手を伸ばした和子のその手の動きを、横合いからスーパーバイザーが止めた。
 困ったような表情(かお)して少女を追い払ったスーパーバイザーが(とり上げた饅頭を頬張りながら)言うに、人が〝常世〟のものを口にしたら、もう〝現世〟には戻れなくなってしまう、とのことで、和子は神妙になって、周囲の露天の美味しそうなものの誘惑に負けまいと表情を引き締めたのだった。

 そうして聖ザビエル天主堂を後に、一行はスロープを下って金沢監獄正門から見える天童眼鏡橋へと歩みを進める。
 ここまで来れば、やはりというか、もう〝目指す場所〟は理解できて(わかって)いる。

 ──旧帝国ホテル中央玄関だ。


   ◆  ◇  ◆


 鈴華は、今日何度目かの帝国ホテル玄関への道すがら、今日起こったことと、ここ〝常世〟の中で重なった二の姫としての記憶とを思い返している。
 なぜ二の姫の記憶──それはつまり、鈴華の執筆する〝二の姫と弦丸の物語〟だ…──が、この常世の道程で自分に降りて来るのだろう。
 答えは、明らかなように思える。
 ()()を鈴華が望み、自らの物語の中に、弦丸として登場させた。
 そして弦丸は常世の鈴華の空想の世界から端境(はざかい)を越え、岬悠人として、現世の鈴華の許に出現して(でて)きてしまった。

 …──そういうことなんだろう。


 月明りの下を並んで歩きながら、鈴華はそっと岬の横顔を窺った。
 スッキリと鼻すじの通った、涼やかな目許……あまり表情を面に出さない。
 あらためて岬の顔を見れば、それは確かに弦丸のイメージで……実際、二の姫の記憶の中に現れた弦丸は、岬と同じ顔をしていた。

 それじゃ、二の姫はやっぱり、わたし?
 ……なんて思ってしまった自分に、鈴華は目を伏せた。さすがにそれはあつかましいと思う。自分が〝お姫さま〟なんて。
 でも、二の姫の弦丸との接し方や、こころの中で求めているものなんかは、確かに身に覚えがあった。

 わたしにとって、〝物語〟にとって、都合のいい存在。
 鈴華は、物語を創るときには、ただのご都合主義が連なるお話は書きたくないと思っていたし、そういうふうには書いてこなかったつもりだけれど……。
 〝二の姫と弦丸の物語〟の結末は、じつはもう、十四冊目『創作ノート』の中に書き終えている。
 弦丸は、岬は、どう思っているだろうか?


 ──…と、そのタイミングで岬の声が降ってきた。

「なぁ、奥村……」
 鈴華が下ろした目線を戻すと岬は夜空を見上げていて、べつにたいしたことを言うのじゃないように言った。
「月が……綺麗だな」
 鈴華は、もう一度岬の横顔に目線を戻した。岬の視線の先を追えば、そこに青く満ちた月影がある。
 鈴華は同じ月に目をやって言った。
「うん……」

 〝月が綺麗ですね〟…──英語教師をしていた夏目漱石は〝I love you〟をこう訳したという。
 本当に漱石がそう表現したかどうかは疑わしい。……でも、鈴華はそう言っていて欲しいと思っていた。

「ずっと前から、月は綺麗だった」
 本当は、心臓が早鐘を打つように鳴っていたけれど、鈴華はそれをおくびにも見せないで、何とかそう言うことができた。

 ──ずっと前から好きでした。

「そうだな」
 やはりたいしたことじゃないように、月を見上げたままの岬が、そう返してきた。
 でも、それで通じたことはわかる。
 通じたと、思う。

 鈴華は、そっと息を吐いた。
 この先の〝目指す場所〟に着いて、端境(はざかい)に開いた〝穴〟を塞げば──それが岬悠人の〝願い〟でもある…──、ここでの記憶は消されてしまう。
 いまの会話も、なかったことになる。

 こういうときには、やっぱり泣きたくなるんだ……。
 と、鈴華は月を見上げた。


   ◆  ◆  ◇


 眼鏡橋の先を道なりに行き、三叉路を左へ…──。
 緩い傾斜で上る石畳の先に、上品で落ち着きのある光に包まれて、旧帝国ホテル中央玄関(〝ライト館〟)とその前池は姿を現した。
 正面の壁面に並んだ、縦に細長くとられたガラス面から漏れる内部(なか)の明りと、F.L.ライトが意図的にそう造らせたという低い玄関車寄せの(ひさし)を支える〝光の籠柱〟──内部に照明の入った柱の意匠──の明りが、滲むように周囲へと広がっている。
 燐光、とでもいっていいだろうか……その不思議な光は、抑えられた光量ながら建物が夜闇に溶けて沈み込んでしまわぬ必要にして十分な明るさで周囲を直に包み、その光の中で、壁を彩る「黄色い煉瓦」がよく映えていた。
 夜空を背景に、それ自身が柔らかく光っているかのようなライト館だった。

 周囲に人影はなかった。
 一行は、光の中に揺蕩(たゆた)う前池の水面の傍らを行き、車寄せの(ひさし)(くぐ)ると、三つ並んだエントランスドアの前で歩みを止めた。
 大きなガラスの嵌ったエントランスドアを透かして、ホワイエの光が、一行の顔を淡く照らした。
「……多分、ココです」
 スーパーバイザーに横目に言われ、鈴華は頷いた。
 理由は説明できないけれど、やはりここが〝目指す場所〟だということに間違いはないように思える。
 岬が中央のドアの前まで歩みを進め、押し板に手を当て鈴華を向いて訊く。
「じゃ、行くか?」
 鈴華はもう一度大きく息を吸った。
 それから、「うん」と、頷いて返す。

 鈴華がそう応えたので、岬は観音開きのガラス扉を押し開けた。
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