〇二、
文字数 3,571文字
正門の脇の通用門から自転車を出すと、
広めの歩道の上を二つのライトの明りが、淡くアスファルトの上を流れていった。
周囲は稲田の広がる田園風景。
すでに陽は落ちかけていたけれど、まだ西の空に棚引く雲は朱く輝いている。
しばらくは前後になって並ぶのを避けて自転車を走らせる二人だったが、高架下の信号機のいつものところで自転車を降りた。信号を渡り高架を越えると、道は交通量の少ない生活道路になる。
鈴華と和子は、いつもの通りに自転車を並んで押して歩き始めた。
こうして下校途中の道すがら、まったりと自転車を押してあれこれと喋るのは、和子と鈴華の決め事だ。
日本中に感染症が拡がって、緊急事態宣言で休校や隔日登校、リモート授業というのが
今日の話題は自然、明日の
川を渡った先の辻までにいくつか確認事を交わすと、寝る前に電話するからと手を振って(……長電話のお誘いだ)、和子はペダルに足をかけた。
あんまり元気に足を上げるものだから、パンツが見えそうだ。
「じゃ、お疲れー」
「お疲れー」
そうして和子は三つ辻を右に折れていった。和子の家は市の北側だ。
和子の背中を十メートルほど見送って、鈴華も自転車に跨った。
鈴華の家は市の西の端で、和子と別れる三つ辻から更に二キロメートルくらい
普段はしゃかりきになってペダルを漕ぐのだが、今日の鈴華はそういう気にならないでいた。
どうせ今日は帰っても、明日に備え、お風呂に入って寝るだけだ。
そう思うと鈴華は自転車を降り、ハンドルを抱えて押して帰ることにした。
陽は落ちていた。
宅地の並ぶ区画を過ぎて、また田畑の目立つ田園風景となる。
薄明が辺りを包むばかりで、刈り入れが終わって〝色の無くなった〟田んぼや、黒光りするソーラーパネルの載った台座などが、そろそろ青い薄闇の中に溶け込もうとしている。
──黄昏は〝
古典の原國先生が教えてくれたことが、すんなりと頭に浮かんだ。
確かにこんな暗さじゃ、傍に立たれても誰なのか判らないから訊くしかないよね。
そんなことを思っていると道は突き当りに達し、古ぼけた裸電球を吊った木柱の前に出た。
傍らに大きな岩が鎮座している。
鈴華は足を止めた。
すると頭上で音がして、路面を柔らかい光が照らし始めた。
鈴華はびっくりするでもなく、古びた街灯の電球を見上げた。
それから右の手の人差し指の傷に視線を落とす。
そうだった。
ここで、わたしの前に
突然に。
◇ ◆ ◆
その日のわたしはツイてなくて、自分の迂闊さに幻滅するのと〝世の中全てが気に入らない〟と身勝手な思いに身を焦がす、ということを同時に経験する羽目に陥っていた。
そもそものことの起りは、二年生の夏休みを前にして新聞部の活動が休止となってしまったことだ。
顧問をしてくれていた黒崎先生が感染症に伴う家庭の事情で退職することになって、(不本意ながら)活動が停滞気味だった新聞はこれを機に活動を見直されるということになった。
確かに生徒の〝活字離れ〟は進んでいて、かつては月二回の発行を誇る名物部活だったという我が新聞部も、
情報の入手も発信もSNSの動画中心の昨今、これは致し方のない面もあったろう……。
でも、このときのわたしは納得できなかったのだ。
せめて二年生の終わりまでは活動を続けさせて欲しいと、有志を募って職員室に
それであの日、わたしたちは学校との話し合いに臨んだのだったが、いろいろな想いはものの見事に打ち砕かれることになる。
美術室での話し合いは、始まって二十分で早々に切り上げられてしまった。
学校側の言い分は、政府の発出した緊急事態宣言で教職員一同、感染症対策に追われており、黒崎先生も退職となればこれ以上課外活動に人員を割くのは難しい、とのことだった。
先生方の雰囲気から察するに新聞部の活動休止の方針は
あきらかに時間を気にしていた先生方は、きっかり二十分で話し合いの席から腰を浮かせると、後は学年氏名を記名の上、意見は書面にして提出して欲しいと下達して、それで話し合いは終わったのだった。
わたしにしたところで、本当のところ、それほど期待してたわけじゃなかったけれど……。
大人のやり口を見てしまった気がした。
それで…──
放課後、失意のうちに帰途についたわたしは、この場所──古ぼけた裸電球の木柱の立つT字路に来て〝自転車のチェーンが外れる〟という、ささやかな、さらなる
わたしは、まだ裸電球が灯っていない木柱の下でチェーンを直さねばならなくなった。
自転車を降り、往来の邪魔にならないよう木柱の側──…木柱と並ぶ大きな岩の反対側──に寄せてスタンドを立てた。
のろのろとしゃがんで歯車を覗き込んだものの、どうやれば直せるのか、イメージを持てない自分に気付く。
それでも、先ずは外れたチェーンに指を伸ばした。
そうしたら、チェーンに纏わり付いた黒い油の感触に、なぜだか急に自分が惨めに思えてきて泣きたくなった。
嗚呼、この世界はこんなにも不条理に満ち満ちている。根拠なんてないんだ。
ううん、違うわ。
これは〝不条理〟なんていうものじゃない。そう、〝悪意〟よ!
……と、何かを〝感じた〟気がした。
「奥村か? どうした?」
その聞き覚えのない男子の声に、わたしは〝世を儚む女〟の思考から引き戻され、はっ、と声のした方を向いた。
陽はもう落ちていて、辺りはすっかり暗くなっている。
学校から来る方の道に誰かが
「誰?」
わたしがそう訊いたとき、頭上で音がして電球が灯った。柔らかい光に星南学園高等部の制服を着た男子生徒が浮かび上がる。見覚えはあった。
「俺だよ。岬悠人。 ──…なんだチェーン、外れたのか」
そう言って近付いてきたのは同じクラスの岬悠人だった。春に転校して来て同じクラスになったが、これまでそんなに話したりしたことはない。
鼻すじの通ったスッキリとした顔立ちだったから、クラスの内外を問わず女子生徒に人気があるようだったけど、わたしはこいつの制服の着崩し方とか好きじゃなかった。なんていうか、〝チャラい〟のだ。……そのルックスならネクタイはしっかり絞めろ。
……それにしても、わたしの名前、知ってたんだ。
岬はわたしの隣までくると膝を突いた。
顔、近い、と思ったとき、
「奥村? おまえ、泣いてる?」
不思議そうな
するとさっきまでの惨めな想いが甦ってきて、気恥ずかしさとない
「うるさい! ……あんたに関係ない!」
乱暴な気持ちがそのまま指を動かした。手許の注意も疎かになったことが重なると、もうろくなことはない。
「痛っ」
わたしは指を切っていた。
よほど深く切ったのか、血が次々と溢れてきた。どうしていいかわからない。
「──指っ、出してっ」
そんな指を押さえることも出来ないでいたわたしの手を取って、岬はハンカチは巻いてくれた。あっという間にわたしの血で染まっていく。
それから岬は、ハンカチをできる限りにきつく縛ってくれると、手早くチェーンを掛け直してわたしの自転車に跨って言った。荷台を指し示して言った。
「病院行くぞ。後ろ、乗って」
「え……」
二人乗りが交通ルール違反なのもあったが、回した手の指先に
「馬鹿! そんなのはいいから早く乗れっ。──その傷、深そうだぞ」
それでわたしは意を決して荷台に横座りしてあいつの背中から腕を回し、岬はあたしに〝左手で怪我した右手の手首を握らせ〟て自転車を漕ぎ出した。
◆ ◇ ◆
そうだ。
ここでそんなことがあった。
鈴華は、力強い漕ぎ出しなんだ、と思ったのを覚えてる……。
その岬悠人は、二学期も半ばを過ぎた十一月になって、突然、退学した。
周囲の誰にも、何も言わずに。