ニ七、

文字数 3,649文字


 鈴華は、オーディトリウム(余興場)の舞台の中央で、なぜか()()にあった〝自分の机〟(ライティングビューロー)の前に立っている。その手には、引き出しから取り出した〝創作ノート〟……。
 そして、そんな鈴華と下手(しもて)の側の舞台袖から顔を見合せているスーパーバイザーは、何の脈絡もなしにポケットから引っ張り出した手回し式のシュレッダー(破砕機)を手に、さて、どうしましょう? といった表情だ。
 鈴華はスーパーバイザーの隣に立つ岬に目をやった。
 岬は小さく、だがはっきりと肯く。

 創作ノートとシュレッダー、この二つの意味することが何なのか、鈴華と岬には判っている。
 ノートの中に鈴華の創造した世界があり、それこそが鈴華の精神世界の源だ。
 シュレッダーは、それを裁断することで常世(とこよ)現世(うつしよ)とを繋ぐ想いを断ち切るということの象徴、すなわちアイコンだ。
 それをすることで鈴華は自らの書いた物語との結びつき(関係)()()()()解き、〝物語〟(鈴華の中の常世)からの働きかけが伝わってこないようにする。
 そういうことだ。

 ──でも、それをしたら……。

 鈴華は、まっすぐに自分を見ている岬を見た。
 物語の中から端境(はざかい)を越えて鈴華の許へとやってきた岬は、常世からの働きかけがなければ存在できない。
 それは最初からわかっていたことだったけれど、いざ()()()()がきたとなって、鈴華はようやく、頭だけでなく心でも理解した。

 岬悠人は、いなくなってしまう……。

 岬は、すべてを理解して(わかって)いるというふうな表情(かお)で、ただ鈴華を向いている。
 鈴華は、ただ胸が苦しくなった。


 そのとき、おかしな具合に風が吹いて、舞台を照らす照明が急に(くら)くなった。
「──…な、なに?」
 昏くなった視界の中のどこかで、和子の不安げな声がした。
 それから、バンッ! と音がして、舞台中央の鈴華と、上手(かみて)の側の袖口の辺りを、二つのスポットライトの光条が照らす。
「ひぇっ⁉」
 怖気(おじけ)ておかしな声を上げる和子と違い、鈴華は注意深く舞台の上を見回した。
 薄暗い舞台のあちこちから、スゥ……、スゥ…──と、黒い染みが浮かび上がってくるのを見た。
 知らず肌が泡立っている。

 そうだった。
 ここには、あの〝影〟が待ち受けてるんだった。

 鈴華は、舞台だけでなく劇場のあちこちから立ち昇る黒い染みが流れていく先…──上手(かみて)の袖を照らすスポットライトの円弧を、あらためて見た。
 その光の中に、集まってきた染みが渦を巻き始める。それはやがて〝揺らぐ影〟となって、それからさらに、()()似姿(にすがた)を取り始めた。

「ウソ……」 影をはじめて見る和子が、小さくなって口許を押さえる。その指の間から、狼狽し震えた声が漏れた。「何なの、コレ…──鈴華?」
 鈴華の方は、その影の取った似姿を見て、嗚呼(ああ)……それはやっぱりそうね、とすべてを得心している。

 影の取ったその〝似姿〟とは、他ならぬ奥村鈴華の姿だった。

   ◇  ◆  ◆

 黒い染みが小魚のように群れて創り出した〝鈴華〟は、繊細な線描によるデッサンか、またはそういうふうに造られたコンピューターグラフィックのようだった。
 一条一条が小刻みに揺蕩(たゆた)う黒い染みの集合体には(モノトーンながら)濃淡があり、それが陰影をつくって、立体的な像となって鈴華たちの前に(たたず)んでいる。

 鈴華は影を睨んだ。
 すると〝線描の鈴華()〟と目が合った。
 セミロングのボリュームのある髪……その切り揃えた前髪(ストレートバング)の下の目が、笑ったように思えた。……いや、確かに笑った。
 鈴華は慄然とした。
 表情がある。
 昏い、色のない自分の顔の中の勝気な瞳の中には、確かに生き生きとした光が宿っていた。
 言いようのない気持ちの悪さを感じた。
 色がないことを除けば生き写し……。
 そんなことは認められないと思うと同時に、()()が自分の分身であることを本能的に理解した。

 と、影の鈴華が、鈴華から視線を外した。
 その視線は鈴華の背後、舞台の反対側に立つ岬悠人へと移動する。
 そうして岬と目が合ったのか、影の鈴華は、甘えるような嬉しそうな表情(かお)に悪戯っぽい微笑を口許に浮かべた。
 それは鈴華にはできないような素直な表情で、鈴華はそのことにハッとさせられた。
 何よりも、それが自分の顔で……その顔で岬に〝色目〟を使ったことに気が遠くなった。
 そんな微笑を向けられた岬の表情はどんなだろう。鈴華は後ろを振り見やって確かめたい衝動に駆られる。

 その答え合わせ──…振り返ること──ができないでいる鈴華に、影の鈴華がふたたび視線を戻してきた。
 再び目が合うと、鈴華が身構えるよりも先に影の鈴華の言葉が、声を通さずに直接頭に入ってきた。
 ──()()を、どうするの?

 それ……って何よ、と表情で返した鈴華は、岬へ向けた顔つきに少し頭に血が昇っていて、その質問が声でなされたものではなかったことに気付けていない。
 ()()鈴華は、今度はそんな鈴華の手許に視線をやった。それで鈴華も、手にしている創作ノートの存在を思い出す。

 そうだった。
 これをシュレッダーにかけてしまえば…──。

 すると影の鈴華が小首を傾げてみせた。その口許が嗤っている。

 何なの、こいつ……。
 鈴華は、今度こそ生理的な嫌悪に耳朶(じだ)が熱くなるのを感じた。
 明らかに自分は、この〝自分の分身〟に腹を立てている。
 それは例えば、B組の大場優菜に対する感情に似ていたけれど、それよりもずっと大きくて、もっと深いところからきているように思える。
 そんな感情を持て余した鈴華は、すぐにでもノートをシュレッダーにかけて、この不愉快な存在を衝動的に消してしまいたくなった。
 鈴華はもう一人の自分……影の鈴華に一睨みをくれると、両の手でノートをしっかりと握って、後ろの袖口にいるはずのスーパーバイザーを振り返った。

 そのとき……、
 影の言葉が頭に入ってきた。
 ──わたしが消えるときは悠人も消えるとき……。それもいいかしら

 それで鈴華の動きが止まった。

 舞台の中央、二つのスポットライトの当たる机の前で、鈴華は動けなくなった。
 なんとなくねっとりとする空気の中、鈴華の顔のすぐ隣には、いつのまに距離を詰めたのか、影の鈴華の顔がある。
 スポットライトの円弧の外は漆黒の(とばり)が降りていて、下手(しもて)の袖口も何も見えない。
 すぐ隣……息遣いが感じられる距離で、影の鈴華が声なく囁く。
 ──ずいぶんと嫌われたものね
    それに、直情径行も過ぎる。……()()()らしくない

 鈴華は横目だけを隣に向ける。
 やはりその横顔の口許は微笑んで(わらって)いた。
「…………」
 鈴華は口を噤んで目を伏せた。
 今度は反対の側に移った影の鈴華の横顔が訊く。
 ──わたしが嫌い?

 鈴華は、いっそう口許を引き結ぶ。
 影の鈴華はさして残念でもなさそうな表情になって、鈴華の横顔を正面から捉えて小首を傾げてみせる。
 ──そう、嫌いよね。
    でも……

 影の鈴華は、口を引き結んでいる鈴華の耳許に寄って、そっと囁く。
 ──わたしは、あなたから生まれたのよ

 強情を通そうという鈴華の横顔に、影の鈴華がもう一度、かんで含めるように言う。
 ──()()()()()()()()()()()()()()

 それには鈴華も観念させられた。
 ……そう、たしかにこの〝影〟はわたしの一部。もう一人の自分。
 満足したふうに影は笑って、言葉を続ける。
 ──そして悠人……
    彼もあなたが生み出したのよ。そのノートの中から……

 鈴華は、自分の手の中のノートを意識する。
 影が、それにほくそ笑むように囁いた。
 ──〝秘めた想い。でもそれは誰よりも強く〟……だったかしら?

 すべてが筒抜けなことに、鈴華は身を固くした。
 それはノートの中にある言葉だ。……〝二の姫と弦丸の物語〟の中で、姫の弦丸への想いをそう書いた。
 ()()()()()()()()()()()()()()()()()二人の結末の章で。


 鈴華がいっそう口を引き結ぶのを見て、影の鈴華は、鈴華から身体を離した。
 そしてスポットライトの輪の外へと出る。
 その背を追って、いま一つのスポットライトの輪が動く。
 数歩先に影の鈴華は止まり、ゆっくりと鈴華を振り見やった。
 そしてあの鈴華にはできないような素直な表情になって微笑んだかと思うと、つぎの瞬間にはその顔形が〝二の姫〟へと変わって言った。
 ──弦丸が好き
     でも……

 その顔が、また鈴華のものへと変わる。
 そうして影の鈴華は右の手を自分の顔の前にもってくると、その人差し指の傷痕にうっとりとした視線を注いで言った。
 ──…悠人はもっと好き

 その明け透けさに息を呑んだ鈴華を横目に捉え、影の鈴華は、探し物を見つけた、というふうな表情を向け直し、断言する。
 ──〝二の姫〟という仮面でない()()()が、本当に好きなのは岬悠人……そうでしょ


 そのとき鈴華は、そういうもう一人の自分を羨ましいと思っている自分に気付いた。
 スポットライトの光の外……何も見えない中に岬の姿を捜す。
 いまこそ鈴華は、岬の顔を見たいと思う。


 そうすると、また二の姫が鈴華の身体の中に降りてきたのだった…──。
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