10.美貉
文字数 2,255文字
「だぁと思ったのよ。タカと待ち合わせでしょ? 黙ってあんなところでつっ立ってるなんておかしいもの。こっちよ。こっち」
唖然とする私の手を取って、軽やかに歩き出す。
「あ、あの! どちら様、でしょう!?」
「んー?」
オレンジから赤へのキラキラしたグラデーションのネイルを口元に当てて、彼女は少しだけ首を傾げた。
「あらやだ。そうだった。初対面よね。ジーナって呼んで。タカのスーツを用意した店のオーナーよ」
きゃらきゃらと笑いながら、彼女は人の波をすいすいと歩いていく。十センチ以上ありそうな細いヒールで、危なげが全くない。
「ジーナ、さん?!」
「んふふ。ごめんなさいね。気になって色々調べてたら、知ってる気になっちゃった☆」
「え? あの、調べたって……」
「と言ったって、ほとんど何も出てこなかったんだけど。『TerraSS 』での映像を何度見返したか……あれは絶対安藤ちゃんが手を回してたに違いないわ! 安藤ちゃんと言えば……」
不満を声に滲ませたかと思うと急にくるりと振り向いて、彼女は綺麗に上を向いたまつげの下の瞳を潤ませた。
「あれは酷いと思うの! タカにはどれだけ文句を言っても言い足りない! 紫陽ちゃんは目の前で見たんでしょ? 可哀想に!」
突然がばりと抱擁されて、その柔らかい胸に頬が当たる。ふわりといい匂いがした。
なんだかテンションについていけないのだけど、そういえば、仕事はどうしたのだろう? 父さんは招集がかかったって言ってたのに。
「……何やってやがる!!」
今度はべりっと引き離されて、足がたたらを踏んだ。腕を掴んだのは、ツバメ?
紺のシャツの袖をまくっていて、茶の綿パンを穿いていた。
「嫌な予感がしたんだよ。ベタベタすんな!」
言いながら背中を払われ、ジャケットの襟の裏や裾を確認された。
ジーナさんがぶーっとむくれる。
「ひどぉい。発信機も盗聴器も付けてないわよ。さすがに手持ちがないもの。ここに来たのは本当に偶然だってば。帰るとこだったし」
「じゃあ、さっさと帰れ」
「やぁだ。疲れた。喉がかーわーいーたー。変なオトコに声かけられる前に、紫陽ちゃん連れてきてあげたデショ?」
こてん、と首を傾げてシナを作る。
ツバメと並ぶと、ヒールの分だけ彼女の方が背が高い。見下ろされるのが不快なように、ツバメの眉間の皺は深くなった。
「途中で抱きついてた分だけ、お前の方がタチ悪ぃんだよ」
「タカみたいにガサツじゃないから、安藤ちゃんのことで傷心してる痛みを慰めてただけじゃない。どんだけ近距離で撃ったのよ? データが飛ぶくらいって……あ。思い出した。ゆうべ忙しいって知っててアタックかけたでしょ! 安藤ちゃんが壊れちゃったからか、一部のシステム止まってて冷や汗かいたんだから!」
「気づけてよかったな」
へっとツバメは嫌味に笑った。
「やー! もーぅ、腹立つわね! こうしてやるわ!」
ずいと距離を縮めて、警戒して一歩引いたツバメの頭を押さえこむと、勢いのまま彼女はツバメにキスをした。じたばたともがくツバメだけど、なかなか離れられないようで、通りすがる人が奇異の目で見てきて恥ずかしい。
人の集まるところはマスクをしている人も多いし、往来でのキスシーンなどドラマでも見なくなったもの。
ちょっと呆然と動けなくなっていたら、ジーナさんがキスをした時と同じように突然ツバメから離れて、こちらを睨みつけるように見ると私の手を引いた。
「紫陽ちゃん、荷物、気をつけなさい」
「え?」
一歩、二歩、前に出てから振り返ると、帽子を目深にかぶった男が、そそくさと身をひるがえすところだった。
「人の多いところは嫌 んなるわね」
ジーナさんは完全に見下した目で男の背中を追うと、唇をぺろりと舌でなぞった。赤かった唇はすっかり色が剥げてしまっていたけれど、それでも艶やかでちょっと艶めかしい。
ツバメはと言えば、肩で息をしながらごしごしと手の甲で唇を拭っていた。赤い色が広がって、なんだか逆効果のような。
ティッシュを差し出すと、ちらりと見てからあー、だか、うー、だか言って受け取って、背中を向けられてしまった。
「ファーストキスを奪われた小娘じゃあるまいし。応えるくらいの気概が欲しいわねぇ」
「うる……うる、せ! 俺は、アイツとは違うんだよ!」
「当り前じゃない。だからいいのよ。安藤ちゃんは結構キス上手だったのよねー。あーん。やっぱりもったいないー!」
「……え?」
目の前で見た光景より衝撃だった。
ジーナさんって、安藤がアンドロイドだって知ってたのよね?
「あ、あの、安藤と、付き合ってたん、ですか?」
「だったら良かったんだけど。それはお断りされちゃった。あそこまで精巧に作られてて、
「
「ムジナ!」
どの「その」だろう。キスのこと? それとも……
瞳に弱いものをいたぶる時のような嗜虐的な光をたたえて、私に顔を寄せようとしたジーナさんに、ツバメの一喝と拳骨が落ちてきた。
「いったーい! なによっ! その名で呼ばないで!!」
「往来でお嬢さんに何を吹き込もうとしてんだよ! お前の性癖なんてどうでもいい! 帰れ!」
「やぁだって。紫陽ちゃんの、大事そうに抱えてる鞄の中身、気になるんだモン」
ツバメの剣幕に全く動じる様子もなく、ジーナさんはうふふと笑いながらアンドゥの入ったキャリーバッグを指差した。
微かに、本当に微かに、安藤が息を吐いた音が聞こえたような気がした。
唖然とする私の手を取って、軽やかに歩き出す。
「あ、あの! どちら様、でしょう!?」
「んー?」
オレンジから赤へのキラキラしたグラデーションのネイルを口元に当てて、彼女は少しだけ首を傾げた。
「あらやだ。そうだった。初対面よね。ジーナって呼んで。タカのスーツを用意した店のオーナーよ」
きゃらきゃらと笑いながら、彼女は人の波をすいすいと歩いていく。十センチ以上ありそうな細いヒールで、危なげが全くない。
「ジーナ、さん?!」
「んふふ。ごめんなさいね。気になって色々調べてたら、知ってる気になっちゃった☆」
「え? あの、調べたって……」
「と言ったって、ほとんど何も出てこなかったんだけど。『
不満を声に滲ませたかと思うと急にくるりと振り向いて、彼女は綺麗に上を向いたまつげの下の瞳を潤ませた。
「あれは酷いと思うの! タカにはどれだけ文句を言っても言い足りない! 紫陽ちゃんは目の前で見たんでしょ? 可哀想に!」
突然がばりと抱擁されて、その柔らかい胸に頬が当たる。ふわりといい匂いがした。
なんだかテンションについていけないのだけど、そういえば、仕事はどうしたのだろう? 父さんは招集がかかったって言ってたのに。
「……何やってやがる!!」
今度はべりっと引き離されて、足がたたらを踏んだ。腕を掴んだのは、ツバメ?
紺のシャツの袖をまくっていて、茶の綿パンを穿いていた。
「嫌な予感がしたんだよ。ベタベタすんな!」
言いながら背中を払われ、ジャケットの襟の裏や裾を確認された。
ジーナさんがぶーっとむくれる。
「ひどぉい。発信機も盗聴器も付けてないわよ。さすがに手持ちがないもの。ここに来たのは本当に偶然だってば。帰るとこだったし」
「じゃあ、さっさと帰れ」
「やぁだ。疲れた。喉がかーわーいーたー。変なオトコに声かけられる前に、紫陽ちゃん連れてきてあげたデショ?」
こてん、と首を傾げてシナを作る。
ツバメと並ぶと、ヒールの分だけ彼女の方が背が高い。見下ろされるのが不快なように、ツバメの眉間の皺は深くなった。
「途中で抱きついてた分だけ、お前の方がタチ悪ぃんだよ」
「タカみたいにガサツじゃないから、安藤ちゃんのことで傷心してる痛みを慰めてただけじゃない。どんだけ近距離で撃ったのよ? データが飛ぶくらいって……あ。思い出した。ゆうべ忙しいって知っててアタックかけたでしょ! 安藤ちゃんが壊れちゃったからか、一部のシステム止まってて冷や汗かいたんだから!」
「気づけてよかったな」
へっとツバメは嫌味に笑った。
「やー! もーぅ、腹立つわね! こうしてやるわ!」
ずいと距離を縮めて、警戒して一歩引いたツバメの頭を押さえこむと、勢いのまま彼女はツバメにキスをした。じたばたともがくツバメだけど、なかなか離れられないようで、通りすがる人が奇異の目で見てきて恥ずかしい。
人の集まるところはマスクをしている人も多いし、往来でのキスシーンなどドラマでも見なくなったもの。
ちょっと呆然と動けなくなっていたら、ジーナさんがキスをした時と同じように突然ツバメから離れて、こちらを睨みつけるように見ると私の手を引いた。
「紫陽ちゃん、荷物、気をつけなさい」
「え?」
一歩、二歩、前に出てから振り返ると、帽子を目深にかぶった男が、そそくさと身をひるがえすところだった。
「人の多いところは
ジーナさんは完全に見下した目で男の背中を追うと、唇をぺろりと舌でなぞった。赤かった唇はすっかり色が剥げてしまっていたけれど、それでも艶やかでちょっと艶めかしい。
ツバメはと言えば、肩で息をしながらごしごしと手の甲で唇を拭っていた。赤い色が広がって、なんだか逆効果のような。
ティッシュを差し出すと、ちらりと見てからあー、だか、うー、だか言って受け取って、背中を向けられてしまった。
「ファーストキスを奪われた小娘じゃあるまいし。応えるくらいの気概が欲しいわねぇ」
「うる……うる、せ! 俺は、アイツとは違うんだよ!」
「当り前じゃない。だからいいのよ。安藤ちゃんは結構キス上手だったのよねー。あーん。やっぱりもったいないー!」
「……え?」
目の前で見た光景より衝撃だった。
ジーナさんって、安藤がアンドロイドだって知ってたのよね?
「あ、あの、安藤と、付き合ってたん、ですか?」
「だったら良かったんだけど。それはお断りされちゃった。あそこまで精巧に作られてて、
その
機能までついてんのよ? 製作者のアホっぷりが分かると思わない?」「
その
……?」「ムジナ!」
どの「その」だろう。キスのこと? それとも……
瞳に弱いものをいたぶる時のような嗜虐的な光をたたえて、私に顔を寄せようとしたジーナさんに、ツバメの一喝と拳骨が落ちてきた。
「いったーい! なによっ! その名で呼ばないで!!」
「往来でお嬢さんに何を吹き込もうとしてんだよ! お前の性癖なんてどうでもいい! 帰れ!」
「やぁだって。紫陽ちゃんの、大事そうに抱えてる鞄の中身、気になるんだモン」
ツバメの剣幕に全く動じる様子もなく、ジーナさんはうふふと笑いながらアンドゥの入ったキャリーバッグを指差した。
微かに、本当に微かに、安藤が息を吐いた音が聞こえたような気がした。