35.週末
文字数 2,213文字
家に帰ると、冷房の効いた部屋の玄関でアンドゥは転がっていた。大理石がひんやりとするから、放熱させているのだろうか。
「踏んじゃうよ?」
苦笑して声をかければ、ちらりと片目だけ開けてこちらを窺うけれど、動こうとはしなかった。仕方なくまたいで部屋に入る。
「桧さんに会ってね。新しい安藤と「別れのワルツ」を踊ってきたよ」
ピクリと、耳だけがこちらを向いた。
『……どうでした?』
ツバメと同じことを訊く。
「やっぱり、なんか違う。双子の片割れを見てるみたい、かな。よくできてはいたけど。横山さん、頑張ったんだね」
『執念ですねぇ。それにしても、「別れのワルツ」ですか。洒落てますね』
「ちょっと、嫌味。私が安藤に失恋したみたい」
『そうですか? 以前の『安藤』とはお別れですので、間違っていないかと。ラストダンスは上手く踊れましたか』
「ラストも何も、安藤と踊ったことないじゃない。安藤こそ踊れたの?」
『踊れましたよ? ユリ様とは何度か』
「……そうなんだ……じゃあ、比べてみたかったな」
『あんまり変わらないんじゃないですかね。機械的にステップを踏むのは一緒ですし』
きっと違う。安藤はエスコートも、もう少し優しい。欲目なのかな。
『横山様には、確認されなかったのですか?』
「え?」
『お披露目の場には、当然いらっしゃったと思うのですが……お会いしませんでしたか?』
「そう、いえば。気づかなかった。安藤ばかり気になってて……ツバメは見てるかな……」
『まあ、カスミ様の前ですから、遠慮したのかもですね。そのうち訊かれると思いますよ』
「あは。残念ながら、答えられないや。アンドゥは、もう彼のこと許したの?」
『もう訊かないと言ったようですし、許すというのではなく諦めですかね。そういうお人なので。あまり悪い方には走っていないようなので、要観察という感じです。紫苑様のレッドリストにも載ったでしょうから、しばらく派手なことはできませんよ』
「ああ……父さんといえば……連絡しなくちゃ」
忘れないうちにと端末を取り出す。時差がどのくらいのところにいるのかわからないので、チャット型SNSを立ち上げた。
『他にも何かございましたか?』
「え……と、母さんに会う日が決まったの。アンドゥも行くんだよね?」
今まで動かなかったアンドゥが、起き上がってやってきた。青い目に見上げられる。
「次の土曜日だって」
『彼女が、よく……承知されましたね……』
「うん……よくわかんない。ツバメが……ツバメに、一度、一緒に星に帰ろうかって言ったら、なんだか思いついたみたいで。あ。ボディガードのことも聞かなくちゃ」
『それは、ちゃんと進められていますよ』
「え? そうなの?」
私は思わず手を止めてアンドゥを見下ろした。どうして安藤が知ってるのだろう。
でも、最近そういうことに慣れつつある。ツバメも安藤も、必要なことはだいたい知っているのだ。
『紫苑様は……次の土曜ですと間に合いそうもありませんね。早くても月曜でしょう』
「そっか……とりあえず、連絡だけは」
送信を押しても、すぐには既読はつかなかった。
☆
父さんからの「母さんによろしく」という短い返事は、どの感情に振れているのかよく分からなかった。敢えてそうしたのかもしれない。
そわそわと日々が過ぎ、当日は緊張のあまり息苦しく感じていた。着るものさえ上手く決まらない。何度も着替えて、結局ジーナさんのとこでもらったセーラーカラーのシャツとキュロット姿になったところで、ツバメの忍耐が切れた。ノックで催促される。
前髪に母さんからの贈り物だと思われる蝶モチーフのピンを留めて、慌てて飛び出した。
「ね、ねえ。おかしくない?」
「あん?」
ツバメはアンドゥの入ったキャリーケースを奪うように持って行くと、ろくにこちらを見もしないで「いんじゃね」と言った。
「子供っぽいかな。もう少しかっちりした方が……」
「面接に行くんじゃねーし。俺と違って、お嬢さんの服はいつもそれなりにちゃんとしてるだろう? 今日は新人アルバイトの顔合わせって体 で行くから、なんならジャージでもいいぞ」
「それって、面接じゃない!? やっぱり、ジャケットくらい持って……」
引き返そうとした私の腕をツバメは掴んだ。
「大丈夫だって。めんどくせえ。そのくらいの方が目立たねーから。あっちの気が変わらねーうちに行きたいんだよっ」
言っているうちに鳴り出した端末に舌打ちすると、ツバメは電源自体を落としてしまった。
「何度も、ウルセー!」
イライラと急かすのは、私だけが原因ではないのか。
「ツバメ……? あの。向こうが嫌なら、私……」
ギロリと睨まれる。
「却下だ。一度決まったことを覆す気はねぇ!」
そのままの勢いでエレベーターに連れ込まれて、こういう時に限って乗り合わせている人に目を剥かれる。黒の開襟シャツに暗いグレーのスーツのツバメは黙っていてもちょっと怪しいわけで。それがイライラと顔つきも険しくなっていれば、通報されてもおかしくはない。
「わ、わかったから。そんな、怒ってると誤解されちゃう」
苦笑しながらツバメの腕に手のひらを当てれば、ツバメは私の腕を放してぷいと前を向いてしまった。
ごめんなさいと会釈すると、乗り合わせた人もそっと視線を逸らした。
ひどい誤解をされていないことを祈るのみだ。
車寄せで待っていたタクシーは、郊外の小さな造園会社まで私たちを乗せて行ってくれた。
「踏んじゃうよ?」
苦笑して声をかければ、ちらりと片目だけ開けてこちらを窺うけれど、動こうとはしなかった。仕方なくまたいで部屋に入る。
「桧さんに会ってね。新しい安藤と「別れのワルツ」を踊ってきたよ」
ピクリと、耳だけがこちらを向いた。
『……どうでした?』
ツバメと同じことを訊く。
「やっぱり、なんか違う。双子の片割れを見てるみたい、かな。よくできてはいたけど。横山さん、頑張ったんだね」
『執念ですねぇ。それにしても、「別れのワルツ」ですか。洒落てますね』
「ちょっと、嫌味。私が安藤に失恋したみたい」
『そうですか? 以前の『安藤』とはお別れですので、間違っていないかと。ラストダンスは上手く踊れましたか』
「ラストも何も、安藤と踊ったことないじゃない。安藤こそ踊れたの?」
『踊れましたよ? ユリ様とは何度か』
「……そうなんだ……じゃあ、比べてみたかったな」
『あんまり変わらないんじゃないですかね。機械的にステップを踏むのは一緒ですし』
きっと違う。安藤はエスコートも、もう少し優しい。欲目なのかな。
『横山様には、確認されなかったのですか?』
「え?」
『お披露目の場には、当然いらっしゃったと思うのですが……お会いしませんでしたか?』
「そう、いえば。気づかなかった。安藤ばかり気になってて……ツバメは見てるかな……」
『まあ、カスミ様の前ですから、遠慮したのかもですね。そのうち訊かれると思いますよ』
「あは。残念ながら、答えられないや。アンドゥは、もう彼のこと許したの?」
『もう訊かないと言ったようですし、許すというのではなく諦めですかね。そういうお人なので。あまり悪い方には走っていないようなので、要観察という感じです。紫苑様のレッドリストにも載ったでしょうから、しばらく派手なことはできませんよ』
「ああ……父さんといえば……連絡しなくちゃ」
忘れないうちにと端末を取り出す。時差がどのくらいのところにいるのかわからないので、チャット型SNSを立ち上げた。
『他にも何かございましたか?』
「え……と、母さんに会う日が決まったの。アンドゥも行くんだよね?」
今まで動かなかったアンドゥが、起き上がってやってきた。青い目に見上げられる。
「次の土曜日だって」
『彼女が、よく……承知されましたね……』
「うん……よくわかんない。ツバメが……ツバメに、一度、一緒に星に帰ろうかって言ったら、なんだか思いついたみたいで。あ。ボディガードのことも聞かなくちゃ」
『それは、ちゃんと進められていますよ』
「え? そうなの?」
私は思わず手を止めてアンドゥを見下ろした。どうして安藤が知ってるのだろう。
でも、最近そういうことに慣れつつある。ツバメも安藤も、必要なことはだいたい知っているのだ。
『紫苑様は……次の土曜ですと間に合いそうもありませんね。早くても月曜でしょう』
「そっか……とりあえず、連絡だけは」
送信を押しても、すぐには既読はつかなかった。
☆
父さんからの「母さんによろしく」という短い返事は、どの感情に振れているのかよく分からなかった。敢えてそうしたのかもしれない。
そわそわと日々が過ぎ、当日は緊張のあまり息苦しく感じていた。着るものさえ上手く決まらない。何度も着替えて、結局ジーナさんのとこでもらったセーラーカラーのシャツとキュロット姿になったところで、ツバメの忍耐が切れた。ノックで催促される。
前髪に母さんからの贈り物だと思われる蝶モチーフのピンを留めて、慌てて飛び出した。
「ね、ねえ。おかしくない?」
「あん?」
ツバメはアンドゥの入ったキャリーケースを奪うように持って行くと、ろくにこちらを見もしないで「いんじゃね」と言った。
「子供っぽいかな。もう少しかっちりした方が……」
「面接に行くんじゃねーし。俺と違って、お嬢さんの服はいつもそれなりにちゃんとしてるだろう? 今日は新人アルバイトの顔合わせって
「それって、面接じゃない!? やっぱり、ジャケットくらい持って……」
引き返そうとした私の腕をツバメは掴んだ。
「大丈夫だって。めんどくせえ。そのくらいの方が目立たねーから。あっちの気が変わらねーうちに行きたいんだよっ」
言っているうちに鳴り出した端末に舌打ちすると、ツバメは電源自体を落としてしまった。
「何度も、ウルセー!」
イライラと急かすのは、私だけが原因ではないのか。
「ツバメ……? あの。向こうが嫌なら、私……」
ギロリと睨まれる。
「却下だ。一度決まったことを覆す気はねぇ!」
そのままの勢いでエレベーターに連れ込まれて、こういう時に限って乗り合わせている人に目を剥かれる。黒の開襟シャツに暗いグレーのスーツのツバメは黙っていてもちょっと怪しいわけで。それがイライラと顔つきも険しくなっていれば、通報されてもおかしくはない。
「わ、わかったから。そんな、怒ってると誤解されちゃう」
苦笑しながらツバメの腕に手のひらを当てれば、ツバメは私の腕を放してぷいと前を向いてしまった。
ごめんなさいと会釈すると、乗り合わせた人もそっと視線を逸らした。
ひどい誤解をされていないことを祈るのみだ。
車寄せで待っていたタクシーは、郊外の小さな造園会社まで私たちを乗せて行ってくれた。