21.復習
文字数 2,328文字
「その人も「さん」なの? 安藤も知ってる人ってこと?」
訊きたかったのは、そういうことではなかったはずなのに、どうしてかそんなことを口走っていた。
もやもやとした気持ちがあって、それも確かにもやのひとつなのだけど。
安藤はツバメを笑う時のようにくすくすと笑った。
『それは、ツバメがそう呼ぶので言葉をお借りしたまでですよ。実際に会うなら、ちゃんと「様」付けで呼びます』
「ツバメが?」
もやが増えた気がした。
誰に対しても、あれとかそれとかあまり個人名が出てこないのに、その人のことは名前で、さん付けで呼ぶんだ。
気になるけど、これ以上聞きたくない気もする。
『気になりますか?』
「……べつに。私の倍くらい生きてるんだから、浮いた話の一つや二つあってもおかしくないもの」
どうせ本人に聞けと言われるのだろうからと、私は端末を取り出して無人タクシーを呼んだ。
☆
部屋に戻ると買い物をするつもりでパソコンを立ち上げた。
この部屋のベッドは少し大きいので、スッキリとしたシンプルなものが欲しかった。暮らすのに必要最低限の物と、アンドゥに付けるリードをカートに入れて、ふと、蝶が飛んでるような猫のおもちゃに目が留まる。
そのまま「芸能人」「アゲハ」で検索をかけた。
サイケな衣装で左頬に蝶のペイントのある女性。確かに一時期広告などにも起用されていたかもしれない。もう少し調べていくと、一曲だけ私でも知っている流行った曲があった。
それで、聞いたことのある名前だったのかな?
まだ何かもやついている気もするけど、この人をこれ以上調べても、ツバメの知り合いはこの人じゃない。続けて名前だけで検索してみたけれど、ヒットする数が多すぎてどうにもならなかった。
いつの間に机に上ったのか、アンドゥがパソコンを覗き込んできた。いったん離れると、イヤホンを咥えて戻ってきて手をつつかれる。
私は仕方なくイヤホンを嵌めた。
『言ってくだされば、お手伝いしますのに』
「……いいの。ちょっと思いついただけだから。買い物の途中だし」
タブを閉じて元のページに戻ると、買い物を終わらせる。それをじっと見守っていたアンドゥは、耳をぴっと動かしてから私に向き直った。
『キリもいいようですし、分かってるとは思いますが、ツバメの言うようにおさらいしておきますよ?』
「おさらい?」
『同じマンションを利用するとはいえ、紫苑様は留守がちですから、一人暮らしの心構えです』
ああ、と私は椅子をちょっと引いて視線を逸らした。
多少、浮かれた気持ちが無いわけではないので、なんとなく後ろめたい。
『寝食については問題はないでしょう。面倒ならデリバリーもコンビニもあります。生活面も、大丈夫だと私は思っていたのですが』
「大丈夫よ? 落ち着いたら、パジャマパーティしてみたい気持ちはあるけど、しばらくはちゃんと自重するから」
『女性だからと言って安全とは言えない、ということは、ここで言うことではないですかね』
「え?」
『まあ、いいです。それはおいおい。ツバメが心配していたのは、一度信用してしまうとどこまでも許してしまいそうな危うさについてですよ。私が止めると、どこかで思っていましたか?』
思っていなかったわけではないけれど……
「アンドゥが止めようとしても、ツバメが本気なら、アンドゥを停止させられるんじゃない?」
『そうです。ちゃんと判ってらっしゃるようで一安心です。では、紫陽 さんはツバメにある程度の好意を持っているから、拒否しなかった、ということでよろしいのですね?』
私は、頬に手を当てて考える。
「どうかな……ツバメとは一度、してるでしょ? 彼は人工呼吸だと言ったけど……やることや心配事が多すぎて、快も不快もうやむやなんだもの。桐人さんのは、悔しかったから多分、不快の範疇だと思うの。だから、もう一度してみたらわかるかなって……」
ふと見ると、アンドゥは毛づくろいのために舌を出して、目を閉じたままフリーズしていた。
「……アンドゥ?」
呼びかけにも反応しないので、焦る。そっと触れてみると、ようやく瞳を開けた。
『すみません。私の学習不足のようです。ええっと……紫陽さんは、ツバメがキスの先まで想定していたと気づいていましたか?』
「え? な、なんとなく?」
『それでもいいと、思ったのですよね?』
うっ、と私は首をすくめた。実はあまり考えていなかったから。
『経験の有無が交際や結婚に影響のある時代ではありませんが、私は紫陽さんに、その程度で誰かに身体を許して欲しくはないのですが』
ピシリと久しぶりに厳しい安藤に、思わず膝を合わせて背筋を伸ばす。
「あ、でも、キスが嫌じゃなきゃ、きっと、嫌じゃないんじゃないかな……」
『その時点で嫌だと言っても、聞いてもらえないのが普通だと思ってください』
そうか、と肩を落とす。
「……でも、ね。帰ってきて特に思うけど、私は多分崋山院の誰かか、崋山院の利になる人に嫁ぐことになると思うの。ずっとぼんやりとそう思って生きてきたから、そうなったら結局好きでもない人の子供を産むのでしょう? だとしたら、誰とシても、同じじゃないのかなって……」
性教育も家で淡々と受けているから、理想も幻想もない。お婆ちゃんほどの才能もないだろう自分には、有体な未来だと思っている。
そういう意味では、私は少し麻痺しているのかもしれない。
『でも、桐人様のお話はあんなにはっきりと断ったではないですか』
「うん。だって、あんなに勝手に進められるのは気に食わなかったんだもの。それに、できれば伯母様のところは勘弁してほしいし……」
安藤の、天を仰いで吐き出したようなため息に、なんとなく申し訳なくなってしまった。
訊きたかったのは、そういうことではなかったはずなのに、どうしてかそんなことを口走っていた。
もやもやとした気持ちがあって、それも確かにもやのひとつなのだけど。
安藤はツバメを笑う時のようにくすくすと笑った。
『それは、ツバメがそう呼ぶので言葉をお借りしたまでですよ。実際に会うなら、ちゃんと「様」付けで呼びます』
「ツバメが?」
もやが増えた気がした。
誰に対しても、あれとかそれとかあまり個人名が出てこないのに、その人のことは名前で、さん付けで呼ぶんだ。
気になるけど、これ以上聞きたくない気もする。
『気になりますか?』
「……べつに。私の倍くらい生きてるんだから、浮いた話の一つや二つあってもおかしくないもの」
どうせ本人に聞けと言われるのだろうからと、私は端末を取り出して無人タクシーを呼んだ。
☆
部屋に戻ると買い物をするつもりでパソコンを立ち上げた。
この部屋のベッドは少し大きいので、スッキリとしたシンプルなものが欲しかった。暮らすのに必要最低限の物と、アンドゥに付けるリードをカートに入れて、ふと、蝶が飛んでるような猫のおもちゃに目が留まる。
そのまま「芸能人」「アゲハ」で検索をかけた。
サイケな衣装で左頬に蝶のペイントのある女性。確かに一時期広告などにも起用されていたかもしれない。もう少し調べていくと、一曲だけ私でも知っている流行った曲があった。
それで、聞いたことのある名前だったのかな?
まだ何かもやついている気もするけど、この人をこれ以上調べても、ツバメの知り合いはこの人じゃない。続けて名前だけで検索してみたけれど、ヒットする数が多すぎてどうにもならなかった。
いつの間に机に上ったのか、アンドゥがパソコンを覗き込んできた。いったん離れると、イヤホンを咥えて戻ってきて手をつつかれる。
私は仕方なくイヤホンを嵌めた。
『言ってくだされば、お手伝いしますのに』
「……いいの。ちょっと思いついただけだから。買い物の途中だし」
タブを閉じて元のページに戻ると、買い物を終わらせる。それをじっと見守っていたアンドゥは、耳をぴっと動かしてから私に向き直った。
『キリもいいようですし、分かってるとは思いますが、ツバメの言うようにおさらいしておきますよ?』
「おさらい?」
『同じマンションを利用するとはいえ、紫苑様は留守がちですから、一人暮らしの心構えです』
ああ、と私は椅子をちょっと引いて視線を逸らした。
多少、浮かれた気持ちが無いわけではないので、なんとなく後ろめたい。
『寝食については問題はないでしょう。面倒ならデリバリーもコンビニもあります。生活面も、大丈夫だと私は思っていたのですが』
「大丈夫よ? 落ち着いたら、パジャマパーティしてみたい気持ちはあるけど、しばらくはちゃんと自重するから」
『女性だからと言って安全とは言えない、ということは、ここで言うことではないですかね』
「え?」
『まあ、いいです。それはおいおい。ツバメが心配していたのは、一度信用してしまうとどこまでも許してしまいそうな危うさについてですよ。私が止めると、どこかで思っていましたか?』
思っていなかったわけではないけれど……
「アンドゥが止めようとしても、ツバメが本気なら、アンドゥを停止させられるんじゃない?」
『そうです。ちゃんと判ってらっしゃるようで一安心です。では、
私は、頬に手を当てて考える。
「どうかな……ツバメとは一度、してるでしょ? 彼は人工呼吸だと言ったけど……やることや心配事が多すぎて、快も不快もうやむやなんだもの。桐人さんのは、悔しかったから多分、不快の範疇だと思うの。だから、もう一度してみたらわかるかなって……」
ふと見ると、アンドゥは毛づくろいのために舌を出して、目を閉じたままフリーズしていた。
「……アンドゥ?」
呼びかけにも反応しないので、焦る。そっと触れてみると、ようやく瞳を開けた。
『すみません。私の学習不足のようです。ええっと……紫陽さんは、ツバメがキスの先まで想定していたと気づいていましたか?』
「え? な、なんとなく?」
『それでもいいと、思ったのですよね?』
うっ、と私は首をすくめた。実はあまり考えていなかったから。
『経験の有無が交際や結婚に影響のある時代ではありませんが、私は紫陽さんに、その程度で誰かに身体を許して欲しくはないのですが』
ピシリと久しぶりに厳しい安藤に、思わず膝を合わせて背筋を伸ばす。
「あ、でも、キスが嫌じゃなきゃ、きっと、嫌じゃないんじゃないかな……」
『その時点で嫌だと言っても、聞いてもらえないのが普通だと思ってください』
そうか、と肩を落とす。
「……でも、ね。帰ってきて特に思うけど、私は多分崋山院の誰かか、崋山院の利になる人に嫁ぐことになると思うの。ずっとぼんやりとそう思って生きてきたから、そうなったら結局好きでもない人の子供を産むのでしょう? だとしたら、誰とシても、同じじゃないのかなって……」
性教育も家で淡々と受けているから、理想も幻想もない。お婆ちゃんほどの才能もないだろう自分には、有体な未来だと思っている。
そういう意味では、私は少し麻痺しているのかもしれない。
『でも、桐人様のお話はあんなにはっきりと断ったではないですか』
「うん。だって、あんなに勝手に進められるのは気に食わなかったんだもの。それに、できれば伯母様のところは勘弁してほしいし……」
安藤の、天を仰いで吐き出したようなため息に、なんとなく申し訳なくなってしまった。