37.事件

文字数 2,621文字

 横を向いたまま、ツバメは少し投げやりに話し出した。

「確か、あん時は事故かなんかで渋滞が起きてて……」

 バスから地下鉄へ乗り継ごうとしていたツバメは、システム障害で止まっている地下鉄に悪態をつきながら地上へと戻ったようだ。
 いつになく人の数も多くて、ちょっと一服しようと脇に避けたらしい。
 少し離れた場所に、疲れた顔をしたおじさんが脇に抱えた鞄の中に手を突っ込んだまま佇んでいて、煙が流れたらいちゃもんでもつけられそうだと、気にしていたということだった。

 そうしたら、渋滞で動かない車の列からお婆ちゃんと揚羽さんが降りてきた。大きいお腹で、一目で妊婦だってわかったそうだ。
 さっきの男が、それを見て顔をひきつらせた。

「婆さんが崋山院ユリだって知ってたのか、婆さんと妊婦なら襲いやすいと思ったのかは、知らねぇ」

 息を荒くして、人波を怪訝な顔をされながらゆっくりと横切っていくそいつは、明らかに怪しくて。
 ツバメはその時もついたであろうため息を吐き出した。
 
「めんどくせぇって思いながら、黙って立ち去るのも寝覚めが悪くなる気がして、少し離れてついて行ったんだよ」

 人の多さに見失いそうになりながら、追いついたのは本当にギリギリだったらしい。その男が鞄から刃物を持った手を抜き取ったのを見て、ツバメはとっさに妊婦さんの方を突き飛ばすようにしてかばったのだと。

「助けるなら、老い先短い老人より、二つの命を抱えた妊婦だろ?」

 彼女もろとも倒れて、すぐに起き上がろうとしたツバメの手元に、男の持っていた刃物が落ちてきた。真新しい包丁で、思わず拾ってしまおうと手を伸ばしたら、先に女の手がそれを掴んで、そのまま横に振りぬいたという。

 ツバメは自分の顔の傷を親指でシュッとなぞった。

「血が飛び散ったことで、遠巻きにしてた周囲も騒然となっちまって。何より、刃物持った奴が一番パニック起こしてた。俺は止めに来ただけだっていくら言っても聞きゃしねえ。目を瞑って刃物を振り回すから、見渡してみれば、焦るでもなくぼんやりと突っ立ってる秘書らしき男がいる。そいつに「連れだろ、落ち着かせろよ」って言ったんだ」

 ツバメの隣で揚羽さんが唇を噛んで下を向く。

「そいつは少し首を傾げてから、刃物を振り回してる彼女にすたすたと近づいて、自分の腿で刃物を受け止めた。深々と刺さる包丁にも頓着せず、柔らかいトーンで話しかける秘書はちょっと異常だった。彼女は落ち着いたというか、呆然としていて、ともかく動きが止まったからか、秘書は包丁を抜こうとしたんだよ。慌ててやめさせようと近寄った時は遅くて。その手から包丁をもぎ取ったけど、思ったほどの血も出てないし、見えた傷の深い場所も肉色ではなくて……ようやく、人間じゃねぇって気づいたんだ」

 ツバメはちらりとアンドゥに視線を向けた。

「刃物を手にしたからか、直後にその刃物を奪われて取り押さえられそうになったんだが、婆さんがボディガードの制止を振り切ってやってきて、すごい剣幕で「見たか」って聞くから、見たって答えたら、「言わないで」って必死に囁くから……顔の血を拭った手でそいつの足の傷を押さえてやったんだよ。後から来た警察にはともかく話を聞かせろって犯人の仲間扱いされるわ、貧乏くじ引いたなと思ってたら、その秘書と婆さんが警察に口をきいてくれた。怪我もしてたし、婆さんの息のかかった病院に入れられて、あとは、前に話した」

 肩をすくめたツバメの後を、揚羽さんが引き継ぐ。

「私は、突然突き飛ばされたことに動転してて、顔を上げる頃には目つきの悪い人がナイフを拾い上げようとしてたから、悪い奴なんだと思い込んでしまって……先に拾い上げたナイフを勢いで振ったら、血が飛び出して……それでも倒れない鷹斗君が怖くて……あとは目をつぶってたから、何かに当たったのが安藤君だとは最初気付かなかった」

 揚羽さんは、目頭を押さえながら、細く息を吐き出した。

「その後は転んだからか、緊張からか、お腹が張り出しちゃって、そのまま検診に向かうはずだった病院に入院したの。その日は紫苑さんがいなかったから、予定の空いていたお義母様が、たまたまついて来てくれていたのよ」
『犯人はその場で捕まって、ツバメの疑いも晴れましたが、崋山院ユリを狙った通り魔は、しばらく世間の話題でした。あることないこと面白く書き立てられ、ツバメと私を切りつけた揚羽様のことも、実家のことを持ち出して、裏で糸を引いていたのだと、もっともらしく書かれたりしました』
「あの、実家って、やっぱり?」

 ツバメの顔の傷をつけたのが母だと知って、少し動揺しつつも、おずおずと口を挟んだ私に揚羽さんは力なく笑ってくれた。

「そう。当時の久我の会長の従兄弟の次女。兄さんもいたし、私は跡目争いとは無縁だったのだけどね。紫苑さんと出会ったのは、本当に偶然で。私が彼が崋山院の人間だと知ったのは、もう自分でも引けないところまで好きになってしまってからだった。紫苑さんは最初からずっと知ってたのに。ちょっと、ずるいわよね。結婚までいろいろあったけど、紫陽(しはる)が産まれて、女の子で、少しは周りの当たりも弱くなるかと思ったけど……」
『崋山院は完全に実力主義ですから。男児も女児も分け隔てなく育てられます』
「久我は表面はあれだけど、内にはまだ男児優先なところがあって……女児はいかに政略的に嫁げるかが評価になったりするの。崋山院の跡取り候補に嫁いだわけだから、実家も一瞬は浮足立ったけど、紫苑さんはあっさり降りてしまったから。私たちはどちらの利にも関わらない。そう、決めたのに、紫陽は、崋山院の子だからって……」
『カスミ様は揚羽様を信用なさっていませんでした。いつもきつく当たられるので、ユリ様もお口添えするのですが、それもまた気に入らなかったのかもしれませんね。「お母様は紫苑には甘い」とよく口にしておられました。実際には、紫苑様はユリ様が何を言うより前に行動してしまうので、言いようがないというだけだったのですが』
「実家からの横やりもうんざりだし、崋山院でも神経が休まらなくて、お乳の出も悪かったのか、授乳で何度も起こされ、寝不足も重なってた。紫苑さんは仕事で一週間ほど戻らない。本家なら手も多いし、お義母様の傍に居ろと言われてやってきて、玄関前で出てきたカスミさんとばったり鉢合わせたの」

 もう、それだけで私も嫌な予感がした。
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