09.幸鳥
文字数 2,008文字
今度は何?!
リビングを突っ切って、もどかしそうに窓を開けると、ツバメはそのまま裸足で駆け出した。
あっけにとられる私のことなど、すっかり頭から消えているに違いない。
目を覚ます気配のない安藤の脇を抜けて開いたままの窓に近寄る。走って行ったツバメがぴたりと足を止めて、今度は紫陽花を回り込むように戻り始めた。
しばらく庭を右へ左へ走り回っていたけれど、そのうち肩で息をしながら足取りも重く帰ってきた。
「何か追いかけてたみたいだったけど……」
窓のところで座り込んだツバメに水を渡す。
一息に飲み込むと、まだ息を弾ませながら彼は頷いた。
「……逃げられた。くそ。壊れてると思ってたのに」
「何? 何かいるの? 猫の声みたいだったけど……」
「猫だよ。猫型ロボット」
青い狸みたいなやつ?
何度もリメイクされてる、今も人気の古いアニメを思い出した。
「違うぞ。セラピーなんかに使われる、リアルっぽいやつ。少し前に婆さんから送られてきてたんだ。スイッチ入れてもうんともすんとも言わねーから放置してたんだが……なんで、急に……蜂の巣箱にいたずらされる前に捕まえねーと」
ツバメがコップを置いて立ち上がったので、私は慌てて袖を引いた。
「あん?」
「手伝います。あと、靴、履いた方が」
自分の足を見下ろすと、ツバメはバツが悪そうに「お、おぅ」と唸るような声を出した。
安藤が起きた時のために、机の上にメモを残して外に出る。
ツバメは安藤を一人家に残すことを少し渋ったけれど、家からあまり遠ざからないことを条件に頷いてくれた。
「お嬢さんが言うんだからな」
「え? 私……?」
崋山院の命令とか、そういうとられ方をするのは心外だ。
「ん? お嬢さんが、ここに来て初めて示した意思だろう?」
「え?」
そう、だっただろうか。
「相続にしても、あいつのことにしても、お嬢さんがどうしたいのか、俺はまだ聞いてねぇな」
「だって、どうしていいかわからない。もらったものをどうすればいいの? 私にはお金もないし、伯母様の方が上手くこの星を活かせるのかもしれない」
「ふぅん。あの女なら俺を追い出して、アジサイは潰して、もっと蜜の取れるシステムに変えるな」
「そうなると、津波黒さんは困るんでしょう?」
「はぁ? 違う違う。俺のことはどうでもいいんだ」
「どうでもよくなんか……ずっと、ここの管理をしてるって。誰もいない。何もない宇宙の片隅で……」
ガリガリと乱暴に頭を掻きむしって、ツバメは少し足を速めた。
「それは、俺が選んだことだ。お嬢さんには関係ない。お嬢さんが真っ先に考えるべきなのは、ここに着いて、ここを見て、どう思ったのかってことだ」
ここに着いた時……
エアロックを抜けた時、お婆ちゃんに起こされた時、鮮やかに飛び込んできた景色。
顔も知らぬ母からの大きな花束のような――
「このままがいい……次に来た時も――来られるなら……同じ景色が見たい」
肩越しに少しだけ振り返って、ツバメは得意そうにニヤリと笑った。
「おぅ。それなら、俺は手伝える。今までと変わらない生活でいいんだからな。賛成だ」
「本当に? 管理費、払えなくなっても? 維持費はどう賄うの?」
「お嬢さん。それはそうなった時に考えるべきことだ。ハチミツの売り上げだけでも、しばらくは何とかなる。それに、そういうことをどうにかする二年なんじゃないのか?」
不思議なことに、何の保証もないのだけれど、やれるのかもしれないという気持ちが湧いてきた。薄く重なる不安を一枚剥がされたような。少なくとも、ツバメは協力してくれるらしい。
「……ツバクロ、だから、ツバメなのね」
「……はぁ?」
「燕の別名でしょ? 燕は幸運を運んでくる鳥なんだって。巣を見つけたらそっとしておきなさいって、お婆ちゃんが」
ツバメは鼻で笑う。
「だけど、よくよく考えてみれば燕は運ぶだけ。それを受け取れるかどうかは、その人次第なのよね。だから……だから、お婆ちゃんは、幸せを運ぶその名前にも幸運が運ばれてくるように、あなたを「ツバメ」と呼んだんじゃないかな。……私も、ツバメって呼んでいい?」
少し前を行く背中は特に反応はなく、ぱたぱたとポケットを探っていたけれど、目当てのものがなかったのか、その手は諦めたように頭をかいた。
「急に口数が増えたと思ったら……あの女と同じこと言いやがって……」
恨みのこもった低い囁きのようだったけど、耳のふちが赤く染まったのを見て怖くは無くなった。
「私、安藤も信じたい。安藤もお婆ちゃんを好きだったもの」
「そうかい」
「さっきだって、私に何かに気をつけろって……」
勢いよく振り向いたツバメの後ろ、紫陽花の茂みから淡いグレーの猫が飛び出してきた。
「あ! いた!」
「は? あっ」
もう一度振り返って、慌てて猫を追いかけるツバメ。
二人で挟み撃ちにしてみたりしたけれど、捕まえられたのは一時間を優に越えてからだった。
リビングを突っ切って、もどかしそうに窓を開けると、ツバメはそのまま裸足で駆け出した。
あっけにとられる私のことなど、すっかり頭から消えているに違いない。
目を覚ます気配のない安藤の脇を抜けて開いたままの窓に近寄る。走って行ったツバメがぴたりと足を止めて、今度は紫陽花を回り込むように戻り始めた。
しばらく庭を右へ左へ走り回っていたけれど、そのうち肩で息をしながら足取りも重く帰ってきた。
「何か追いかけてたみたいだったけど……」
窓のところで座り込んだツバメに水を渡す。
一息に飲み込むと、まだ息を弾ませながら彼は頷いた。
「……逃げられた。くそ。壊れてると思ってたのに」
「何? 何かいるの? 猫の声みたいだったけど……」
「猫だよ。猫型ロボット」
青い狸みたいなやつ?
何度もリメイクされてる、今も人気の古いアニメを思い出した。
「違うぞ。セラピーなんかに使われる、リアルっぽいやつ。少し前に婆さんから送られてきてたんだ。スイッチ入れてもうんともすんとも言わねーから放置してたんだが……なんで、急に……蜂の巣箱にいたずらされる前に捕まえねーと」
ツバメがコップを置いて立ち上がったので、私は慌てて袖を引いた。
「あん?」
「手伝います。あと、靴、履いた方が」
自分の足を見下ろすと、ツバメはバツが悪そうに「お、おぅ」と唸るような声を出した。
安藤が起きた時のために、机の上にメモを残して外に出る。
ツバメは安藤を一人家に残すことを少し渋ったけれど、家からあまり遠ざからないことを条件に頷いてくれた。
「お嬢さんが言うんだからな」
「え? 私……?」
崋山院の命令とか、そういうとられ方をするのは心外だ。
「ん? お嬢さんが、ここに来て初めて示した意思だろう?」
「え?」
そう、だっただろうか。
「相続にしても、あいつのことにしても、お嬢さんがどうしたいのか、俺はまだ聞いてねぇな」
「だって、どうしていいかわからない。もらったものをどうすればいいの? 私にはお金もないし、伯母様の方が上手くこの星を活かせるのかもしれない」
「ふぅん。あの女なら俺を追い出して、アジサイは潰して、もっと蜜の取れるシステムに変えるな」
「そうなると、津波黒さんは困るんでしょう?」
「はぁ? 違う違う。俺のことはどうでもいいんだ」
「どうでもよくなんか……ずっと、ここの管理をしてるって。誰もいない。何もない宇宙の片隅で……」
ガリガリと乱暴に頭を掻きむしって、ツバメは少し足を速めた。
「それは、俺が選んだことだ。お嬢さんには関係ない。お嬢さんが真っ先に考えるべきなのは、ここに着いて、ここを見て、どう思ったのかってことだ」
ここに着いた時……
エアロックを抜けた時、お婆ちゃんに起こされた時、鮮やかに飛び込んできた景色。
顔も知らぬ母からの大きな花束のような――
「このままがいい……次に来た時も――来られるなら……同じ景色が見たい」
肩越しに少しだけ振り返って、ツバメは得意そうにニヤリと笑った。
「おぅ。それなら、俺は手伝える。今までと変わらない生活でいいんだからな。賛成だ」
「本当に? 管理費、払えなくなっても? 維持費はどう賄うの?」
「お嬢さん。それはそうなった時に考えるべきことだ。ハチミツの売り上げだけでも、しばらくは何とかなる。それに、そういうことをどうにかする二年なんじゃないのか?」
不思議なことに、何の保証もないのだけれど、やれるのかもしれないという気持ちが湧いてきた。薄く重なる不安を一枚剥がされたような。少なくとも、ツバメは協力してくれるらしい。
「……ツバクロ、だから、ツバメなのね」
「……はぁ?」
「燕の別名でしょ? 燕は幸運を運んでくる鳥なんだって。巣を見つけたらそっとしておきなさいって、お婆ちゃんが」
ツバメは鼻で笑う。
「だけど、よくよく考えてみれば燕は運ぶだけ。それを受け取れるかどうかは、その人次第なのよね。だから……だから、お婆ちゃんは、幸せを運ぶその名前にも幸運が運ばれてくるように、あなたを「ツバメ」と呼んだんじゃないかな。……私も、ツバメって呼んでいい?」
少し前を行く背中は特に反応はなく、ぱたぱたとポケットを探っていたけれど、目当てのものがなかったのか、その手は諦めたように頭をかいた。
「急に口数が増えたと思ったら……あの女と同じこと言いやがって……」
恨みのこもった低い囁きのようだったけど、耳のふちが赤く染まったのを見て怖くは無くなった。
「私、安藤も信じたい。安藤もお婆ちゃんを好きだったもの」
「そうかい」
「さっきだって、私に何かに気をつけろって……」
勢いよく振り向いたツバメの後ろ、紫陽花の茂みから淡いグレーの猫が飛び出してきた。
「あ! いた!」
「は? あっ」
もう一度振り返って、慌てて猫を追いかけるツバメ。
二人で挟み撃ちにしてみたりしたけれど、捕まえられたのは一時間を優に越えてからだった。