11.少女の話-母の教え

文字数 2,164文字

 彼は酷い顔色をしていた。口の端には吐瀉物の残りがこびりついている。ただならぬその様子に、私の足は軽く竦む。
「狼さん、どうしたの? 一体何があったの?」
 自らの頭を抱える彼の手にそっと触れながら、私は問う。最悪の可能性を考えながら。
 彼は一瞬だけ私の目を見たが、再び目を閉じる。瞼の端から止めどなく涙を溢している。何かを恐れるように。
 慌てそうな自分を理性で止めながら、私は彼の手を撫で続けた。無闇に声を上げ、混乱している相手を更に怯えさせてはいけない。
 経験していなくても、私は学んだことから知っていた。
 長く感じる数秒の後、観念したかのように彼は上体を起こす。叱られる前の子供のような顔で、彼は口を開いた。
「僕......赤ずきん、僕......」
 何を言われても平気なように、私は彼に気付かれぬよう奥歯を軽く噛んだ。
 息を止める。
 私の準備に気づかない様子で、彼はおずおずと続けた。
「僕、お婆さん役の人を飲み込む時に、牙で彼女を傷つけてしまった......ごめんなさい! ごめんなさい...どうしよう......」
 幼児のような彼の言葉に、一瞬で私の頭に血が上った。
 顔が熱くなる。祖母の笑顔が思い出される。反射的に拳を握り、食いしばった歯が小さく鳴る。沸騰した頭がいくつもの罵声を思い浮かべて、口から吐き出そうとし、
『そこ! 六秒かけて深呼吸!』
 母の怒鳴り声が私の耳に響く。
 無論、現実に母はここに居るわけじゃない。それでも聞こえると錯覚できる程に、この言葉は私の脳裏に刻みつけられていた。
 息を吸い、肺を満たしてから吐く。
『無闇に怒らない、焦らない。それより先にやるべき事を探しなさい。でないと状況はいつまで経っても好転しない』
 彼の手を取る。やや強く、けれど彼が不安に思わぬようゆっくりと引く。私の意思を察したのか、彼はベッドから床に両足を下ろした。
『貴女は失敗しなくて当然。ミスをしても大事になる前に自分でカバーできるのは当たり前。それは前提条件だと思いなさい。大切なのは自信を持っておく事』
 そのまま手を引いて彼を立ち上がらせると、彼の目を見ながら私は言った。
「まず助けを呼びましょう。今の私たちじゃどう頑張ってもおばあちゃんを助けられない」
 彼は一瞬きょろきょろと瞳を動かして混乱していたが、ハッとしたように再び私を見た。彼だって物語を学んできた人だ。単純に時間で換算すれば私よりずっと長く。
 冷静になれば、察してくれる。今泣いていないで何をすべきか。
『そして、自分以外の演者は失敗するものだと考えておきなさい。何の問題も起きていない状態で物語を成功させるのは当たり前。重要なのは――』
 イレギュラーが起きても惑わない胆力と。
 失敗した状態を持ち直させる実力。

 例え私自身は、物語を演じるのが初めてだとしても。幼い頃から教え込まれ、身に染みつかせてきた母の教えは私自身を裏切らない。こんな事で私は負けたりしない。泣いたりしない。

 絶対祖母を助けれると。
 私は誰よりも私を信じてる。

 私達は家を出て、周囲を見回す。
 人影はない。当たり前だ。物語に観客が居てはならない。都合良く、偶然通りがかる人がいるはずもない。
 だけど必ず、私達を助けられる人は近くに居る。
 物語の登場人物は全員登場していない。そして、本来なら『彼』の出番はこの後すぐなのだから。
「居るんでしょう! 出てきて!」
 私は大声を上げた。返事はない。
 理由はわかる。『お婆さん』がおらず、『狼さん』がいるのに『赤ずきん』がまだ無事だからだ。出番の前に登場しては物語が破綻する。筋書きのブレは少なければ少ない方がいい。
 プロ意識ね、と私は小さく笑った。
 おどおどと周囲を見回す彼――狼さんに目を向ける。彼も必死に『彼』を探していた。その喉が小さく鳴る。
 悩む時間が惜しかった。もたもたしていては彼の使った魔法の粉の効力が切れかねない。彼の体内空間に生じている広がりが消えれば、祖母だけじゃなく彼も無事では済まない。
 私はおもむろに狼さんに抱きついた。急な私の行動に、彼は耳をピンと立てて目を白黒させる。
「な、ななななな、赤ずきん!?」
 彼の上げる声に負けぬよう、私はほとんど叫ぶ様に声を張り上げた。
「緊急事態だから早く出てきて! でないと私、このまま狼さんにキスとかしちゃうけど! そうなったら筋書きも何もないでしょう!?」
 途端、背後でガサリと木の葉が鳴る音がした。私は狼さんに抱きついたまま振り返る。
『彼』はちょうど、登っていた枝の上から家の屋根に降り立った所のようだった。出番まで待機し、なおかつ私達の視界に入らない位置として都合が良かったのだろう。
「やれやれ、今回の赤ずきん役はめちゃくちゃじゃねえか。村と家は二往復するわ、狼に求婚しかけるわ......。参ったね」
 言いながら今度は屋根から地面に降りると、『彼』は背負っていた猟銃を右手に持つ。そして流れるような動作で、狙いを狼に向けた。
「さあ、早く赤ずきんを丸呑みにしな。狼さんよ。そうすれば、俺がさっさとこの話をハッピーエンドで終わらせてやる」
 伸びた無精髭、狼さんにも負けない大柄な体躯。
 文献にあるイメージそのままの風貌で、『彼』――『猟師』は私の前に現れた。腰に魔法の鋏を下げて。
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