6.狼の話-いままで
文字数 6,752文字
小さい頃から、目が大きくて爪が尖っていると褒められた。
学校に行き始めて少しで、小さな人形を丸呑みにできて褒められた。
幼年向けの物語の筋を、一度で全部間違えずに覚えて褒められた。
『大狼王』の血筋に相応しい子供だと、褒められて育った。
体格に恵まれた。
家系に恵まれた。
才能に恵まれた。
羨ましいと、妬ましいと言われた。
誇りだと、鼻が高いとも言われた。
だから言えなかった。
思う事すら罪深かった。
僕は狼として産まれたけど。
狼でいることは、僕には辛いことだった。
子供の頃から勉強の為、物語を沢山学んできた。この国には幾つもの物語があった。
当然だ。この国での物語は、生きる糧そのものなのだから。けれど僕がいつも憧れたのは、狼ではなく王子様だった。
素敵な女性を守り、愛し合い、いつしか可愛い子供を持つ。そこには悪意の欠片も存在しなかった。悪者は傷ついたが、許されることもあった。その寛大さも、僕にとっての憧れの対象だった。
狼は違った。狼は恐怖を振り撒くだけの存在だった。
暴力を振るう。人を騙す。生き物の善性を、ただ自分の食欲を満たす為に利用していた。
唾棄すべき存在だと思った。そしてその性根が最も明確に現れていたのが、赤ずきんの狼だった。僕が演じることを、皆が待ち焦がれているものだった。
子供の僕とって、それは絶望そのものに思えた。成長とともに鋭くなっていく牙を自分の手で折ろうとしたこともある。無論そんな勇気はなかった。
学校では模範的に過ごし、特に物語に対しては真摯に学ぼうと努力した。そうでないと「狼でいるのが苦痛で仕方ない」と周囲が察するのではないかと不安だった。
誤魔化しのための勉学は、僕の意に反してとても上手くいっていた。周囲はますます僕に期待し、僕は申し訳なさで息が止まりそうだった。
少し成長した僕は、その行き場のない悩みを友人に打ち明けた。父には勿論言えなかったからだ。
母は......母が居たら、相談していたかもしれない。けれど母は僕を産んですぐ亡くなっていた。
母の最後の言葉は「あの子がする、赤ずきんの狼が見たかった」だったそうだ。その言葉は僕にとって、首に括られた縄のように感じられた。
...話を戻そう。
狼が辛いと僕が打ち明けると、友人は初め冗談だろと笑った。彼は幼馴染で、互いに親友だと認め合っていた狼同士だった。
彼は名家の出ではなかったけれど、いつしか僕と並ぶ有名な狼になると言っていた。僕にとってそれは苦痛だったけれど、彼の夢は応援しようと思っていた。
泣きながら話を繰り返す僕を見て、彼はその内容が真実だと察したようだった。
顔を怒りで真っ赤に染め、彼は僕を殴った。思わず腹を庇って蹲る僕に、強い語気で怒鳴る。
そんな奴だと思わなかったと。
俺の欲しかった物を全部持っている癖に。お前は我が儘だ、そんな事は許さない、俺への侮辱だから今すぐ訂正しろ、と。
何も言えず、ただ僕は蹲ったままでいた。彼は僕を酷く冷たい眼で見た後、無言で去っていった。
次の日から彼は僕と一言も言葉を交わさなくなった。そして一年後、彼は僕の前から消えた。別の国に引っ越したのだと風の噂で聞いた。
二度と僕は、他人に狼が辛い事を言うまいと決めた。彼に対して僕ができる贖罪は、それくらいしか思いつかなかった。
もう少し成長し、僕は物語の演者を専門に学ぶ者として進学していた。演じる事は苦痛でしかなかったが、物語の構成等を学ぶ事は嫌いではなかった。
実技訓練では人形ばかりを相手にしていたので、周囲からは苦笑される事も度々あった。僕もそれを自分から冗談として言う事もあった。喉を裂いて血を吐くような気持ちだった。
そして、とうとう実地での演技の時が来た。タイトルは「三匹の子豚」。無論、僕は狼役だった。
実際に噛んだり呑み込むシーンは存在しないとはいえ、本当に嫌だった。当日が来るまでを、死刑の日を待つような気持ちで過ごした。
当日、僕は息の威力を強くしたり身体を硬くする魔法の品を持ちその場に行った。この物語が終わったら首を括るか川に飛び込んで死のうと心に決めていた。
物語中は全力で狼を演じた。思い返せば自棄になっていたのだろう。どうなろうが構わない、だってこの後すぐ僕は死ぬのだからと。
飛ばせるよう軽く作られた藁の家を鼻息で吹き飛ばし、崩れやすいよう脆く作られた木の家を体当たりで壊す。
二匹の子豚は慌てて逃げて行った。
僕は初めて振るった他者への暴力に震えていた。早くここから逃げ出したかった。
早くもう死なせてくれと思った。
そしてレンガの家に辿り着いた時、事件は起こった。狼が何をしても崩れない筈の家が、僕の体当たりで崩れてしまったのだ。
三男役が慌てたせいで、家の組み方を間違えていたのが原因だった。魔法の効力を失っていたそれは、ただのハリボテの耐久力しか持っていなかった。
三男の家が崩れてしまえば子豚は狼に食べられるしかない。筋書きは完全に崩壊していた。状況は詰んでしまっている。物語は失敗に終わらせるしかなかった。
物語を演じる時、多数の観客が集まる事は国で禁じられていた。人が多いと折角の物語の内容が、神の心に届く妨げになるからだ。
だから失敗しても観客になじられる事はない。そして演者が演者に暴力を振おうが、その場で止めてくれる者もいなかった。
長男役の豚は三男の腹を蹴り倒すと、上にのしかかって何度も何度も顔面を殴っていた。
次男役は大袈裟に今回の損失について嘆きながら、三男を罵倒しつつ周囲の片付けをしていた。殴られている三男の方には目を向けようともしなかった。
母親役はどうしたのかと周囲を探したが、孫娘をつれたお婆さんが立っている以外に人影はなかった。失敗した時点で帰ってしまったのだろう。
僕が止めに入ると、丁度彼も三男を殴り飽きたのか、長男は舌打ちをして立ち上がった。三男は涙を流しながらただただ謝っていた。誰にも届かない言葉だった。
お腹を押さえながらゆっくりと僕に歩み寄り、彼は僕にも頭を下げた。顔は鼻血と涙、倒れた時についた泥でぐちゃぐちゃに汚れていた。
僕は頭を下げ返しながら謝り、彼を慰めた。僕に彼を責める資格はなかったからだ。
彼が居なかったら恐らく、物語を失敗に終わらせていたのは僕だった。彼が失敗していなければ、僕は演じ切った後に死を選んでいた。
死のうという気持ちは、彼の顔を見たせいかどこかに消えてしまっていた。自分勝手で情けない理由だった。けれどもしこの後僕が自殺すれば、それが三男の彼を追いつめる止めの一撃になってしまう事もわかっていた。
彼も周囲も気づいていない。
偶然の結果でしかない。
それでも彼は僕の身代わりに失敗し、僕の命を救ってくれた恩人なのだ。
だからとにかく僕には、彼がこれ以上傷つかないようにこの場を収めるしかなかった。長男をなだめ、次男の掃除を手伝い、三男を近くの病院に連れて行った。
陽が落ちる頃には全てが終わっていた。
物語の気配も全て消えていた。
帰宅すると父に失敗の事を告げた。あまり落ち込むなと言う父に、次は失敗しないように練習の時間が欲しいと言った。内心一生練習期間であったらな、と思った。
物語の失敗が、いかに周囲を不幸にするか僕は理解した。この目で見て。
僕にはもう、狼が辛いと思う事も失敗して逃げ出す事も許されなかった。死ぬことすらも。
その頃僕には、お付き合いしている女性がいた。彼女は学校の先輩で、人間だった。お酒を嗜むのが好きな明るい人だった。日々募っていく自責の念も、彼女といる間は少し安らぐ気がしていた。
無論彼女に、狼であることが苦痛だと告げる事はなかった。僕は将来有望で勤勉な男を演じ続けていた。思い返せば彼女といる時の僕は、嘘ばかり口にしていたように思う。彼女を傷つけないため、失望させないためという大義名分の下に。
「三匹の子豚」の一件の後、彼女は僕に実際に演じるのはどうだったかと聞いた。物語自体が失敗に終わった事はすぐにわかることだ。僕は彼女に「あまり上手くいかなかった。でも勉強になったし良かったよ。次は上手くやってみせる」と微笑んで伝えた。はっきりしない僕の言葉に対して、彼女はどこか不満げだった。
翌日会うと、彼女は嬉々として僕に「三匹の子豚」の失敗について話してきた。どこから聞いてきたのか、彼女は物語が失敗した原因が三男役にあった事を知っていた。それどころか、彼のその後の生活や周りからどう扱われているかも調べ上げていた。
笑顔で彼女はレンガの家を準備するのが如何に簡単か、三男役が犯した失敗がどれ程低レベルか、今の彼は疫病神扱いされて一家は離散の危機にある事などを僕に教えてくれた。ひとしきり侮蔑し罵った後、
「だから貴方の失敗なんかじゃない、貴方は何も苦しく思う必要はないの」
と言った。
本当に、僕を慰めようと全力を尽くしてくれた結果だった。曖昧な笑みで僕はありがとうと感謝を述べた。まるで自分自身が罵倒されたような気分だった。
それからも彼女は折を見ては三男の現在について調べ、僕に教えてくれた。
初めから名家の出でもなければ才能も大してなく、期待もされていなかった彼は次の物語の場を探すことすら難しくなっている事。一家はとっくに離散した事。学歴もなく今ではどぶさらいのような単純労働でなんとか口を糊している事。あの後に彼の母が自殺していた事。
実際に彼を見に行った事。汚れと傷だらけの顔で、酷くすえた臭いがして近寄るのすら嫌だった事。目の前でわざと食べかけのパンを落とした事。彼が土のついたパンを食べたそうに見ていた事。その目が気持ち悪く怖気が走った事。友達と笑って指さしながら逃げた事。彼が笑い声に情けなく怯えたのがとても笑えた事。
僕に何か嬉しい出来事があると。
僕に何か落ち込む出来事があると。
彼女がお酒を飲んだ時に。
彼女が何かでイラついた時に。
僕と目があった時に。
特に何もないが話題が見当たらない時に。
とりあえず挨拶の後に。
彼女は彼が今どんなに不幸かを教えてくれた。長く話した後いつも、
「だから貴方は失敗してなんかない。苦しむ必要なんてないわ」
と僕を励ましてくれた。僕は毎回頷いた。言葉は出なかった。
二ヶ月後、僕は彼女に別れを切り出した。彼女はどこが悪いのか、何が気に入らなかったのかと泣き叫びながら僕を問い詰めた。愛しているのにと抱きつきながら。
僕は本心から言った。
「君の想いに報いられるほどに、僕は立派ではないから」
口から吐き出された気持ちは、僕が伝えた瞬間嘘に堕ちた気がした。結局、僕はただ辛いから彼女と離れたいだけだった。
彼女と別れ、学校の友人はそれについて僕をからかった。僕も冗談を交えて返した。
笑う奴も居たし、嫌そうな顔をして僕から離れた奴も居た。学校での話し相手が少しだけ減った。
気持ちを偽らなければならない相手が減り、僕は心が前よりは楽になった気がした。
もはや他人は僕にとって恐怖そのものだった。
もはや他人は僕にとって狼そのものだった。
また少し僕は成長した。いよいよ学校という場から卒業する時が来ていた。研究職に進む事も可能なほどに僕は長く物語を学んでいた。無論それは出来るだけ狼をする事から逃げる為だった。
僕は卒業と同時に『大狼王』を継ぐ予定になっていた。誰に何を告げなくても当たり前のようにそう決まっていた。その条件として『赤ずきん』の狼を演じる事も決まっていたが、それは箔をつけるための場当たり的なものだった。問題なく進む出来事の一つでしかなかった。僕以外にとっては。
一月前に物語の予定は全て決まった。準備に関しては既に可能なものから進められており、後は役を詰めて行くだけだった。
僕は既に狼役を完璧と呼べる程演じられるようになっていた。当たり前だ。産まれてから今までずっと周りから望まれてきたものだ。産まれてから今までずっと演じてきたものだ。上手くいかない筈がなかった。
後は問題の暴力をふるう場面だけだった。人形相手なら大抵の人間サイズは飲み込む事はできた。魔法の粉の扱いも慣れていた。
ただ、一度も本物の人間を飲み込んだ事はなかった。逃げ続けてきた結果だった。
僕が乗り越えた事のない壁だった。
本番一週間前、いよいよ誤魔化す事のできなくなった僕は、講師を練習相手に人間を飲み込む事にした。
周りには医療品や魔法のハサミなどが並べられた。講師は手慣れた手つきで準備を整えると、君のタイミングで構わない、慌てずに私を飲み込んでみてと言った。
震える手で僕はその首に手を伸ばした。
まず頭を牙が当たらないように咥え、そのまま出来るだけ口を開けて喉に滑らせる。
食べるのではなく、自分の口から喉に滑らせるように。自分の食道を広い筒にするイメージで。そこから先、胃の中にかけては空間が魔法で歪められて広がっているから、口の先で牙さえ当たらなければ問題はない。
大丈夫。大丈夫だと自分に言い聞かせた。
相手は人間ではなく人形だと思い込んだ。
硝子細工を扱うような手つきで、僕は講師を持ち上げて飲み込んだ。あっさりとその体は僕の口の中に消えた。
周囲から歓声が上がった。僕は気が抜けて腰を地面につく。はは、と自然に笑いが溢れた。
......その間抜けに開いた口の端から、垂れた唾液の滴。そこに薄く、赤いものが混じっていた。僕は唾液を袖で拭ってそれに気づき、絶叫した。
ハサミは僕に傷をつけずに胃から講師を助け出した。喉を滑る時に少し牙に膝を擦ってしまった、自分の失敗で申し訳ないと講師は笑った。周囲で見ていた級友も笑っていた。
僕は、僕はどうしたんだろう。
頭が真っ白で何も覚えていない。
けれど誰も何も言わなかったから、話したり笑ったりは出来ていたのだろう。
すぐに帰宅し、僕は吐いた。胃の中身が尽きて胃液まで吐き、苦く黄色い液体が出なくなってもまだ吐いた。春だというのに寒くて体の震えが止まらなかった。吐いたものが舌に触れるたび、生臭い血の味がするような気がしてまた吐いた。
帰宅した父が心配して僕の様子を見にきた。僕はいつもの様に答えた筈だったが、父が気づかないはずもなかった。
口を濯ぎベッドで寝ている僕に、温かな粥と白湯が運ばれた。カラカラの口に僕は恐る恐る粥を運ぶ。
濃い血の味がした。
食事を無駄には出来ない。父の心遣いを無駄にしてはならない。それに一週間後には物語本番だ。こんな所で寝込んではいられない。
僕は出された物を全て胃に押し込み、給仕に礼を言って返した。食器を下げる音が聞こえなくなると、僕は自室にあるトイレで全てを吐いた。何もかも赤く見えた。何もかも血の味がした。
人を傷つけた罰だと思った。
今まで他人を騙してきた罰だと思った。
一週間、今までと同じ生活をしながら食事を全て吐き続けた。顔色や毛並みの悪さは、物語に出る時の化粧品などで誤魔化した。
周りは本番直前でテンションが上がっていると僕に言った。僕は一体誰と話しているんだろうと不思議に思った。
父は何も言わなかった。僕が緊張していると思っていたのだろう。実際はただただ口内の血の味が消えることだけを願っていた。
一週間が過ぎ、物語当日。
鏡の前に僕は立った。
目は寝不足で赤く、そして大きくギラギラと光っていた。
毛並みは粗野に荒れていた。
口からは嘔吐の前に出るような唾液が溢れそうだった。
自分は狼であると、辛くないと他人を騙してきた。
何も問題ないと嘘をつき、講師を......人を傷つけた。
鏡に映っているのは、僕が学んできた『赤ずきん』に出てくる狼そのものだった。
僕は笑った。
酷い顔を、酷い目を自分から隠すために。演じるまでは人に指摘されないように。大きめの帽子を深く被る。
.....こんなものは誤魔化しだ。それに結局、今まで被ってきた『僕』という仮面すら、無駄な事に過ぎなかったじゃないか。
どれだけ望まなくても結局、僕は狼だった。
準備を整える。これからは狼として生きようと思った。心は捨てよう。僕の人生に心は要らないものだから。ただ身体を狼として生きていかせようと決めた。
幸せになれはしないだろう。けれどそれは僕にとって大した問題ではなかった。だってそもそも今までの人生で、僕が幸せを感じた瞬間などなかったのだから。
今までと変わらない。
何もかも変わらない。
これからもずっと、永遠に。
そう決めて僕は狼を演じた。
なのにまだ、お婆さんを飲み込めていなかった。
学校に行き始めて少しで、小さな人形を丸呑みにできて褒められた。
幼年向けの物語の筋を、一度で全部間違えずに覚えて褒められた。
『大狼王』の血筋に相応しい子供だと、褒められて育った。
体格に恵まれた。
家系に恵まれた。
才能に恵まれた。
羨ましいと、妬ましいと言われた。
誇りだと、鼻が高いとも言われた。
だから言えなかった。
思う事すら罪深かった。
僕は狼として産まれたけど。
狼でいることは、僕には辛いことだった。
子供の頃から勉強の為、物語を沢山学んできた。この国には幾つもの物語があった。
当然だ。この国での物語は、生きる糧そのものなのだから。けれど僕がいつも憧れたのは、狼ではなく王子様だった。
素敵な女性を守り、愛し合い、いつしか可愛い子供を持つ。そこには悪意の欠片も存在しなかった。悪者は傷ついたが、許されることもあった。その寛大さも、僕にとっての憧れの対象だった。
狼は違った。狼は恐怖を振り撒くだけの存在だった。
暴力を振るう。人を騙す。生き物の善性を、ただ自分の食欲を満たす為に利用していた。
唾棄すべき存在だと思った。そしてその性根が最も明確に現れていたのが、赤ずきんの狼だった。僕が演じることを、皆が待ち焦がれているものだった。
子供の僕とって、それは絶望そのものに思えた。成長とともに鋭くなっていく牙を自分の手で折ろうとしたこともある。無論そんな勇気はなかった。
学校では模範的に過ごし、特に物語に対しては真摯に学ぼうと努力した。そうでないと「狼でいるのが苦痛で仕方ない」と周囲が察するのではないかと不安だった。
誤魔化しのための勉学は、僕の意に反してとても上手くいっていた。周囲はますます僕に期待し、僕は申し訳なさで息が止まりそうだった。
少し成長した僕は、その行き場のない悩みを友人に打ち明けた。父には勿論言えなかったからだ。
母は......母が居たら、相談していたかもしれない。けれど母は僕を産んですぐ亡くなっていた。
母の最後の言葉は「あの子がする、赤ずきんの狼が見たかった」だったそうだ。その言葉は僕にとって、首に括られた縄のように感じられた。
...話を戻そう。
狼が辛いと僕が打ち明けると、友人は初め冗談だろと笑った。彼は幼馴染で、互いに親友だと認め合っていた狼同士だった。
彼は名家の出ではなかったけれど、いつしか僕と並ぶ有名な狼になると言っていた。僕にとってそれは苦痛だったけれど、彼の夢は応援しようと思っていた。
泣きながら話を繰り返す僕を見て、彼はその内容が真実だと察したようだった。
顔を怒りで真っ赤に染め、彼は僕を殴った。思わず腹を庇って蹲る僕に、強い語気で怒鳴る。
そんな奴だと思わなかったと。
俺の欲しかった物を全部持っている癖に。お前は我が儘だ、そんな事は許さない、俺への侮辱だから今すぐ訂正しろ、と。
何も言えず、ただ僕は蹲ったままでいた。彼は僕を酷く冷たい眼で見た後、無言で去っていった。
次の日から彼は僕と一言も言葉を交わさなくなった。そして一年後、彼は僕の前から消えた。別の国に引っ越したのだと風の噂で聞いた。
二度と僕は、他人に狼が辛い事を言うまいと決めた。彼に対して僕ができる贖罪は、それくらいしか思いつかなかった。
もう少し成長し、僕は物語の演者を専門に学ぶ者として進学していた。演じる事は苦痛でしかなかったが、物語の構成等を学ぶ事は嫌いではなかった。
実技訓練では人形ばかりを相手にしていたので、周囲からは苦笑される事も度々あった。僕もそれを自分から冗談として言う事もあった。喉を裂いて血を吐くような気持ちだった。
そして、とうとう実地での演技の時が来た。タイトルは「三匹の子豚」。無論、僕は狼役だった。
実際に噛んだり呑み込むシーンは存在しないとはいえ、本当に嫌だった。当日が来るまでを、死刑の日を待つような気持ちで過ごした。
当日、僕は息の威力を強くしたり身体を硬くする魔法の品を持ちその場に行った。この物語が終わったら首を括るか川に飛び込んで死のうと心に決めていた。
物語中は全力で狼を演じた。思い返せば自棄になっていたのだろう。どうなろうが構わない、だってこの後すぐ僕は死ぬのだからと。
飛ばせるよう軽く作られた藁の家を鼻息で吹き飛ばし、崩れやすいよう脆く作られた木の家を体当たりで壊す。
二匹の子豚は慌てて逃げて行った。
僕は初めて振るった他者への暴力に震えていた。早くここから逃げ出したかった。
早くもう死なせてくれと思った。
そしてレンガの家に辿り着いた時、事件は起こった。狼が何をしても崩れない筈の家が、僕の体当たりで崩れてしまったのだ。
三男役が慌てたせいで、家の組み方を間違えていたのが原因だった。魔法の効力を失っていたそれは、ただのハリボテの耐久力しか持っていなかった。
三男の家が崩れてしまえば子豚は狼に食べられるしかない。筋書きは完全に崩壊していた。状況は詰んでしまっている。物語は失敗に終わらせるしかなかった。
物語を演じる時、多数の観客が集まる事は国で禁じられていた。人が多いと折角の物語の内容が、神の心に届く妨げになるからだ。
だから失敗しても観客になじられる事はない。そして演者が演者に暴力を振おうが、その場で止めてくれる者もいなかった。
長男役の豚は三男の腹を蹴り倒すと、上にのしかかって何度も何度も顔面を殴っていた。
次男役は大袈裟に今回の損失について嘆きながら、三男を罵倒しつつ周囲の片付けをしていた。殴られている三男の方には目を向けようともしなかった。
母親役はどうしたのかと周囲を探したが、孫娘をつれたお婆さんが立っている以外に人影はなかった。失敗した時点で帰ってしまったのだろう。
僕が止めに入ると、丁度彼も三男を殴り飽きたのか、長男は舌打ちをして立ち上がった。三男は涙を流しながらただただ謝っていた。誰にも届かない言葉だった。
お腹を押さえながらゆっくりと僕に歩み寄り、彼は僕にも頭を下げた。顔は鼻血と涙、倒れた時についた泥でぐちゃぐちゃに汚れていた。
僕は頭を下げ返しながら謝り、彼を慰めた。僕に彼を責める資格はなかったからだ。
彼が居なかったら恐らく、物語を失敗に終わらせていたのは僕だった。彼が失敗していなければ、僕は演じ切った後に死を選んでいた。
死のうという気持ちは、彼の顔を見たせいかどこかに消えてしまっていた。自分勝手で情けない理由だった。けれどもしこの後僕が自殺すれば、それが三男の彼を追いつめる止めの一撃になってしまう事もわかっていた。
彼も周囲も気づいていない。
偶然の結果でしかない。
それでも彼は僕の身代わりに失敗し、僕の命を救ってくれた恩人なのだ。
だからとにかく僕には、彼がこれ以上傷つかないようにこの場を収めるしかなかった。長男をなだめ、次男の掃除を手伝い、三男を近くの病院に連れて行った。
陽が落ちる頃には全てが終わっていた。
物語の気配も全て消えていた。
帰宅すると父に失敗の事を告げた。あまり落ち込むなと言う父に、次は失敗しないように練習の時間が欲しいと言った。内心一生練習期間であったらな、と思った。
物語の失敗が、いかに周囲を不幸にするか僕は理解した。この目で見て。
僕にはもう、狼が辛いと思う事も失敗して逃げ出す事も許されなかった。死ぬことすらも。
その頃僕には、お付き合いしている女性がいた。彼女は学校の先輩で、人間だった。お酒を嗜むのが好きな明るい人だった。日々募っていく自責の念も、彼女といる間は少し安らぐ気がしていた。
無論彼女に、狼であることが苦痛だと告げる事はなかった。僕は将来有望で勤勉な男を演じ続けていた。思い返せば彼女といる時の僕は、嘘ばかり口にしていたように思う。彼女を傷つけないため、失望させないためという大義名分の下に。
「三匹の子豚」の一件の後、彼女は僕に実際に演じるのはどうだったかと聞いた。物語自体が失敗に終わった事はすぐにわかることだ。僕は彼女に「あまり上手くいかなかった。でも勉強になったし良かったよ。次は上手くやってみせる」と微笑んで伝えた。はっきりしない僕の言葉に対して、彼女はどこか不満げだった。
翌日会うと、彼女は嬉々として僕に「三匹の子豚」の失敗について話してきた。どこから聞いてきたのか、彼女は物語が失敗した原因が三男役にあった事を知っていた。それどころか、彼のその後の生活や周りからどう扱われているかも調べ上げていた。
笑顔で彼女はレンガの家を準備するのが如何に簡単か、三男役が犯した失敗がどれ程低レベルか、今の彼は疫病神扱いされて一家は離散の危機にある事などを僕に教えてくれた。ひとしきり侮蔑し罵った後、
「だから貴方の失敗なんかじゃない、貴方は何も苦しく思う必要はないの」
と言った。
本当に、僕を慰めようと全力を尽くしてくれた結果だった。曖昧な笑みで僕はありがとうと感謝を述べた。まるで自分自身が罵倒されたような気分だった。
それからも彼女は折を見ては三男の現在について調べ、僕に教えてくれた。
初めから名家の出でもなければ才能も大してなく、期待もされていなかった彼は次の物語の場を探すことすら難しくなっている事。一家はとっくに離散した事。学歴もなく今ではどぶさらいのような単純労働でなんとか口を糊している事。あの後に彼の母が自殺していた事。
実際に彼を見に行った事。汚れと傷だらけの顔で、酷くすえた臭いがして近寄るのすら嫌だった事。目の前でわざと食べかけのパンを落とした事。彼が土のついたパンを食べたそうに見ていた事。その目が気持ち悪く怖気が走った事。友達と笑って指さしながら逃げた事。彼が笑い声に情けなく怯えたのがとても笑えた事。
僕に何か嬉しい出来事があると。
僕に何か落ち込む出来事があると。
彼女がお酒を飲んだ時に。
彼女が何かでイラついた時に。
僕と目があった時に。
特に何もないが話題が見当たらない時に。
とりあえず挨拶の後に。
彼女は彼が今どんなに不幸かを教えてくれた。長く話した後いつも、
「だから貴方は失敗してなんかない。苦しむ必要なんてないわ」
と僕を励ましてくれた。僕は毎回頷いた。言葉は出なかった。
二ヶ月後、僕は彼女に別れを切り出した。彼女はどこが悪いのか、何が気に入らなかったのかと泣き叫びながら僕を問い詰めた。愛しているのにと抱きつきながら。
僕は本心から言った。
「君の想いに報いられるほどに、僕は立派ではないから」
口から吐き出された気持ちは、僕が伝えた瞬間嘘に堕ちた気がした。結局、僕はただ辛いから彼女と離れたいだけだった。
彼女と別れ、学校の友人はそれについて僕をからかった。僕も冗談を交えて返した。
笑う奴も居たし、嫌そうな顔をして僕から離れた奴も居た。学校での話し相手が少しだけ減った。
気持ちを偽らなければならない相手が減り、僕は心が前よりは楽になった気がした。
もはや他人は僕にとって恐怖そのものだった。
もはや他人は僕にとって狼そのものだった。
また少し僕は成長した。いよいよ学校という場から卒業する時が来ていた。研究職に進む事も可能なほどに僕は長く物語を学んでいた。無論それは出来るだけ狼をする事から逃げる為だった。
僕は卒業と同時に『大狼王』を継ぐ予定になっていた。誰に何を告げなくても当たり前のようにそう決まっていた。その条件として『赤ずきん』の狼を演じる事も決まっていたが、それは箔をつけるための場当たり的なものだった。問題なく進む出来事の一つでしかなかった。僕以外にとっては。
一月前に物語の予定は全て決まった。準備に関しては既に可能なものから進められており、後は役を詰めて行くだけだった。
僕は既に狼役を完璧と呼べる程演じられるようになっていた。当たり前だ。産まれてから今までずっと周りから望まれてきたものだ。産まれてから今までずっと演じてきたものだ。上手くいかない筈がなかった。
後は問題の暴力をふるう場面だけだった。人形相手なら大抵の人間サイズは飲み込む事はできた。魔法の粉の扱いも慣れていた。
ただ、一度も本物の人間を飲み込んだ事はなかった。逃げ続けてきた結果だった。
僕が乗り越えた事のない壁だった。
本番一週間前、いよいよ誤魔化す事のできなくなった僕は、講師を練習相手に人間を飲み込む事にした。
周りには医療品や魔法のハサミなどが並べられた。講師は手慣れた手つきで準備を整えると、君のタイミングで構わない、慌てずに私を飲み込んでみてと言った。
震える手で僕はその首に手を伸ばした。
まず頭を牙が当たらないように咥え、そのまま出来るだけ口を開けて喉に滑らせる。
食べるのではなく、自分の口から喉に滑らせるように。自分の食道を広い筒にするイメージで。そこから先、胃の中にかけては空間が魔法で歪められて広がっているから、口の先で牙さえ当たらなければ問題はない。
大丈夫。大丈夫だと自分に言い聞かせた。
相手は人間ではなく人形だと思い込んだ。
硝子細工を扱うような手つきで、僕は講師を持ち上げて飲み込んだ。あっさりとその体は僕の口の中に消えた。
周囲から歓声が上がった。僕は気が抜けて腰を地面につく。はは、と自然に笑いが溢れた。
......その間抜けに開いた口の端から、垂れた唾液の滴。そこに薄く、赤いものが混じっていた。僕は唾液を袖で拭ってそれに気づき、絶叫した。
ハサミは僕に傷をつけずに胃から講師を助け出した。喉を滑る時に少し牙に膝を擦ってしまった、自分の失敗で申し訳ないと講師は笑った。周囲で見ていた級友も笑っていた。
僕は、僕はどうしたんだろう。
頭が真っ白で何も覚えていない。
けれど誰も何も言わなかったから、話したり笑ったりは出来ていたのだろう。
すぐに帰宅し、僕は吐いた。胃の中身が尽きて胃液まで吐き、苦く黄色い液体が出なくなってもまだ吐いた。春だというのに寒くて体の震えが止まらなかった。吐いたものが舌に触れるたび、生臭い血の味がするような気がしてまた吐いた。
帰宅した父が心配して僕の様子を見にきた。僕はいつもの様に答えた筈だったが、父が気づかないはずもなかった。
口を濯ぎベッドで寝ている僕に、温かな粥と白湯が運ばれた。カラカラの口に僕は恐る恐る粥を運ぶ。
濃い血の味がした。
食事を無駄には出来ない。父の心遣いを無駄にしてはならない。それに一週間後には物語本番だ。こんな所で寝込んではいられない。
僕は出された物を全て胃に押し込み、給仕に礼を言って返した。食器を下げる音が聞こえなくなると、僕は自室にあるトイレで全てを吐いた。何もかも赤く見えた。何もかも血の味がした。
人を傷つけた罰だと思った。
今まで他人を騙してきた罰だと思った。
一週間、今までと同じ生活をしながら食事を全て吐き続けた。顔色や毛並みの悪さは、物語に出る時の化粧品などで誤魔化した。
周りは本番直前でテンションが上がっていると僕に言った。僕は一体誰と話しているんだろうと不思議に思った。
父は何も言わなかった。僕が緊張していると思っていたのだろう。実際はただただ口内の血の味が消えることだけを願っていた。
一週間が過ぎ、物語当日。
鏡の前に僕は立った。
目は寝不足で赤く、そして大きくギラギラと光っていた。
毛並みは粗野に荒れていた。
口からは嘔吐の前に出るような唾液が溢れそうだった。
自分は狼であると、辛くないと他人を騙してきた。
何も問題ないと嘘をつき、講師を......人を傷つけた。
鏡に映っているのは、僕が学んできた『赤ずきん』に出てくる狼そのものだった。
僕は笑った。
酷い顔を、酷い目を自分から隠すために。演じるまでは人に指摘されないように。大きめの帽子を深く被る。
.....こんなものは誤魔化しだ。それに結局、今まで被ってきた『僕』という仮面すら、無駄な事に過ぎなかったじゃないか。
どれだけ望まなくても結局、僕は狼だった。
準備を整える。これからは狼として生きようと思った。心は捨てよう。僕の人生に心は要らないものだから。ただ身体を狼として生きていかせようと決めた。
幸せになれはしないだろう。けれどそれは僕にとって大した問題ではなかった。だってそもそも今までの人生で、僕が幸せを感じた瞬間などなかったのだから。
今までと変わらない。
何もかも変わらない。
これからもずっと、永遠に。
そう決めて僕は狼を演じた。
なのにまだ、お婆さんを飲み込めていなかった。