16.狼の話-最後の暴力
文字数 2,836文字
「物語が生きる糧なのだとしたら。私が生きる糧のために、彼が死ななきゃならないなんて。そんなの私は認められない。誰かの心や命が犠牲にならないと得られない糧なんて、それは間違ってると思う」
彼女はきっぱりと言った。そして僕にまた視線を向ける。その横顔を、猟師は腹立たしげに詰る言葉を放つ。
「じゃあ、この先どんなに不幸な人生を歩む事になろうがお前は構わねえんだな? この意気地のない狼野郎と心中するってんだな!」
しかし、彼女は首を振る。
あくまでも落ち着いた表情のままで。
「いいえ、一度の失敗くらいで私の人生は少しも揺らいだりしないわ。それだけの努力をしてきた自信があるもの。挽回は充分可能よ」
とんでもない台詞だった。十代の少女が口にする内容だとは思えないその内容に、思わず僕の喉から感嘆の息が漏れる。
猟師も同じ感想なようで、言葉もなくただ赤ずきんを見つめるだけだった。先程の剣幕も何処かに去ってしまったようだ。
僕ら二人の顔を交互に見ると、彼女はクスリと笑ってつけ加える。
「それは私だけじゃないでしょ? 猟師さんだって今までたくさんの場数を踏んできたんでしょうし、私以上の矜持を持っている筈だわ。この程度じゃ自分の人生は終わらないって」
ああ、そうなのか。何となく僕は腑に落ちた。
彼女は、この物語が終わった後に僕が自ら命を絶つかもしれない――なんて考えてはいない。当然だ、僕はそんな事を伝えていないのだから。
例え僕が狼をやめてしまっても。
僕が僕自身の人生を放棄しないと。
自分が失敗してもこの国で生きていけると、自信満々に答えるのと同等の信頼度で。
助かった後の僕は、また歩き出せると信じている。お婆さんを傷つけたくらいじゃ僕は死なない。絶対に大丈夫だと。
根拠の有無という以前の問題なのだろう。
彼女はただ、そういう人間なのだ。
――そう、僕なんかとは違う人間なのだ。
喉が渇く。
舌の裏がざらついた。
ほっとしていいじゃないか。
彼女は守ってくれる。
もう僕は狼をやめる。
お婆さんがお腹から助け出されれば、そのまま崖にでも行って飛び降りればいい。
この世の全てはどうでもいいじゃないか。
そんな信頼なんて、関係ない話だ。
ぼんやりと立っている僕に、大きく息を吐きながら猟師が近づく。もう猟銃は背中に背負い直されていた。その右手には、魔法の鋏が握られている。お婆さんを助けるために。
「......そこまで肝の座った台詞言われたら仕方ねぇ。裏を返せばそりゃ、『一回の失敗で何ともできないくらい自分を信用してないのか』ってことだからな』
赤ずきんがふふっと笑う。そうか、確かに。プライドの高い人間としては聞き逃せない挑発でもあるのか。
鋏の先が僕の下腹部に当てられた。ゆっくりと目を閉じて、裂かれる瞬間を待つとしよう。
痛みはないけれど、自分の中から人間が出てくる光景など、あまり直視したいものでもない。
.....だが、そのまま鋏の刃先は動かず。猟師は言葉を続ける。
「だがな、最後にこれだけは言わせてくれ。説教ーーいや、単なる俺の恨み言だ』
何だろうか。正直、聞きたくないと思う。
けれど僕はそのまま待った。
どうせ鋏は猟師の手の中だ。僕に出来ることは何もない。
「これからこの物語は失敗する。その後お前は好きにしたらいい。自分のしでかした事だ、狼をやめようがどうしようが勝手にして好きに生きろ。.....ただ、お前のために失敗を受け入れた俺ら――そしてこの子の事は忘れるなよ。いつまでも」
それは――そんなことは――
どうでもいい筈だ。
僕には、もう。
「物語の失敗で、お前より歳下の女の子は不幸――ではなくても、多少の不利益は被るわけだ。それを忘れてのうのうと生きるなよ。狼をやめたとしてもお前は狼で、男だろ」
そう、言いたい事はわかる。
どれだけ頑張ってもこの猟師にそれは伝わらない。価値観が違う。理解はしあえない。
苦しくて泣きそうになる。
早く刃先を刺してほしい。
「お前を守った人間に対して感謝もせず、ただ忘れる事だけはするな。例えどんなに自分が嫌いでも、他人から受け取った心はきちんと返すべきだ。――大人として」
......勝手な事を言う。
僕は狼じゃないんだから忘れていいじゃないか。
僕は狼なんだから裏切っていいじゃないか。
どうせ死ぬんだから失敗に巻き込んでいいじゃないか。
助けてくれた赤ずきんは、結局他人じゃないか。
「僕のせいでごめんなさい」
三男役はそう言って泣いた。
「早く死んじゃえばいいと思ったわ」
彼女は酔ってそう言った。
「大丈夫。貴方は優しい子なのね」
お婆さんはそう言って笑った。
「しっかりこの仕事は......お使いはこなすわ。私は、赤ずきんなのだもの」
赤ずきんはそう言って先に進んだ。
この猟師はまるでわかってなんかいない。
僕の今までの苦しみなんかまるで知らない。
...最初の物語で僕は。
どうせ死ぬから、と全力で――
刃先が腹に刺さる。
その直前、僕は猟師の腕を握って止めた。
ビクッと猟師の体が震える。
僕は目を開けて、彼の眼を見て言った。
「そんな重荷を背負うのは、僕にはたぶん無理だと思います。だからわかりました。最後だから......狼を、やってみます」
猟師の言葉は何もかも見当違いだった。
けれど確かに正しい言葉が一つだけ。
僕が死にゆく者だとしても。
赤ずきんから貰った心は返してから死ぬべきだ。
責任をとってから死ぬべきだ。そう、思えた。
狼にはなれなかったけど。
僕はもう大人なんだから。
赤ずきんの顔を見る。彼女は顔を少し歪ませながら、言葉を探していた。
僕はなんとか微笑むと、
「君を丸呑みにするよ。準備を頼む、赤ずきん」
と、伝えた。彼女は小さく口を開くが、結局言葉が出ず――そして踵を返してお婆さんの家に入る。何かをごそごそと探しているようだった。
僕に腕を掴まれたままの猟師は、不思議そうな顔をして
「どういう心変わりなんだ? いまいち話が見えねえが...」
と、不思議そうに言う。僕は少し言葉を選んで逡巡した後、
「猟師さんの言う通りです。僕も大人として、責任は取らないといけませんから」
と、彼の顔を見ながら言った。
猟師は笑うと、空いた左手でバンバンと僕の背を叩く。
「おお、なんだそういう事かよ! ははっ! 説教で改心させちまうとは、さすが俺って事だなあ」
僕はむせながら苦笑した。
家の扉が再び開き、赤ずきんが救急箱を片手に飛び出してくる。
「ごめんなさい、準備できました!」
僕は頷き、猟師の手を離すと赤ずきんの方に体を向けた。
赤ずきんが歩み寄る。僕はその肩に手を乗せる。
回り道をしてしまったけれど。
筋書きはもうめちゃくちゃだけど。
僕の最後の狼を。
僕の最後の暴力を。
続けて、終わらせようと決めた。
赤ずきんが口を開く。
『ねえお婆さん、お婆さんのお耳はどうしてそんなに大きいの?』
彼女はきっぱりと言った。そして僕にまた視線を向ける。その横顔を、猟師は腹立たしげに詰る言葉を放つ。
「じゃあ、この先どんなに不幸な人生を歩む事になろうがお前は構わねえんだな? この意気地のない狼野郎と心中するってんだな!」
しかし、彼女は首を振る。
あくまでも落ち着いた表情のままで。
「いいえ、一度の失敗くらいで私の人生は少しも揺らいだりしないわ。それだけの努力をしてきた自信があるもの。挽回は充分可能よ」
とんでもない台詞だった。十代の少女が口にする内容だとは思えないその内容に、思わず僕の喉から感嘆の息が漏れる。
猟師も同じ感想なようで、言葉もなくただ赤ずきんを見つめるだけだった。先程の剣幕も何処かに去ってしまったようだ。
僕ら二人の顔を交互に見ると、彼女はクスリと笑ってつけ加える。
「それは私だけじゃないでしょ? 猟師さんだって今までたくさんの場数を踏んできたんでしょうし、私以上の矜持を持っている筈だわ。この程度じゃ自分の人生は終わらないって」
ああ、そうなのか。何となく僕は腑に落ちた。
彼女は、この物語が終わった後に僕が自ら命を絶つかもしれない――なんて考えてはいない。当然だ、僕はそんな事を伝えていないのだから。
例え僕が狼をやめてしまっても。
僕が僕自身の人生を放棄しないと。
自分が失敗してもこの国で生きていけると、自信満々に答えるのと同等の信頼度で。
助かった後の僕は、また歩き出せると信じている。お婆さんを傷つけたくらいじゃ僕は死なない。絶対に大丈夫だと。
根拠の有無という以前の問題なのだろう。
彼女はただ、そういう人間なのだ。
――そう、僕なんかとは違う人間なのだ。
喉が渇く。
舌の裏がざらついた。
ほっとしていいじゃないか。
彼女は守ってくれる。
もう僕は狼をやめる。
お婆さんがお腹から助け出されれば、そのまま崖にでも行って飛び降りればいい。
この世の全てはどうでもいいじゃないか。
そんな信頼なんて、関係ない話だ。
ぼんやりと立っている僕に、大きく息を吐きながら猟師が近づく。もう猟銃は背中に背負い直されていた。その右手には、魔法の鋏が握られている。お婆さんを助けるために。
「......そこまで肝の座った台詞言われたら仕方ねぇ。裏を返せばそりゃ、『一回の失敗で何ともできないくらい自分を信用してないのか』ってことだからな』
赤ずきんがふふっと笑う。そうか、確かに。プライドの高い人間としては聞き逃せない挑発でもあるのか。
鋏の先が僕の下腹部に当てられた。ゆっくりと目を閉じて、裂かれる瞬間を待つとしよう。
痛みはないけれど、自分の中から人間が出てくる光景など、あまり直視したいものでもない。
.....だが、そのまま鋏の刃先は動かず。猟師は言葉を続ける。
「だがな、最後にこれだけは言わせてくれ。説教ーーいや、単なる俺の恨み言だ』
何だろうか。正直、聞きたくないと思う。
けれど僕はそのまま待った。
どうせ鋏は猟師の手の中だ。僕に出来ることは何もない。
「これからこの物語は失敗する。その後お前は好きにしたらいい。自分のしでかした事だ、狼をやめようがどうしようが勝手にして好きに生きろ。.....ただ、お前のために失敗を受け入れた俺ら――そしてこの子の事は忘れるなよ。いつまでも」
それは――そんなことは――
どうでもいい筈だ。
僕には、もう。
「物語の失敗で、お前より歳下の女の子は不幸――ではなくても、多少の不利益は被るわけだ。それを忘れてのうのうと生きるなよ。狼をやめたとしてもお前は狼で、男だろ」
そう、言いたい事はわかる。
どれだけ頑張ってもこの猟師にそれは伝わらない。価値観が違う。理解はしあえない。
苦しくて泣きそうになる。
早く刃先を刺してほしい。
「お前を守った人間に対して感謝もせず、ただ忘れる事だけはするな。例えどんなに自分が嫌いでも、他人から受け取った心はきちんと返すべきだ。――大人として」
......勝手な事を言う。
僕は狼じゃないんだから忘れていいじゃないか。
僕は狼なんだから裏切っていいじゃないか。
どうせ死ぬんだから失敗に巻き込んでいいじゃないか。
助けてくれた赤ずきんは、結局他人じゃないか。
「僕のせいでごめんなさい」
三男役はそう言って泣いた。
「早く死んじゃえばいいと思ったわ」
彼女は酔ってそう言った。
「大丈夫。貴方は優しい子なのね」
お婆さんはそう言って笑った。
「しっかりこの仕事は......お使いはこなすわ。私は、赤ずきんなのだもの」
赤ずきんはそう言って先に進んだ。
この猟師はまるでわかってなんかいない。
僕の今までの苦しみなんかまるで知らない。
...最初の物語で僕は。
どうせ死ぬから、と全力で――
刃先が腹に刺さる。
その直前、僕は猟師の腕を握って止めた。
ビクッと猟師の体が震える。
僕は目を開けて、彼の眼を見て言った。
「そんな重荷を背負うのは、僕にはたぶん無理だと思います。だからわかりました。最後だから......狼を、やってみます」
猟師の言葉は何もかも見当違いだった。
けれど確かに正しい言葉が一つだけ。
僕が死にゆく者だとしても。
赤ずきんから貰った心は返してから死ぬべきだ。
責任をとってから死ぬべきだ。そう、思えた。
狼にはなれなかったけど。
僕はもう大人なんだから。
赤ずきんの顔を見る。彼女は顔を少し歪ませながら、言葉を探していた。
僕はなんとか微笑むと、
「君を丸呑みにするよ。準備を頼む、赤ずきん」
と、伝えた。彼女は小さく口を開くが、結局言葉が出ず――そして踵を返してお婆さんの家に入る。何かをごそごそと探しているようだった。
僕に腕を掴まれたままの猟師は、不思議そうな顔をして
「どういう心変わりなんだ? いまいち話が見えねえが...」
と、不思議そうに言う。僕は少し言葉を選んで逡巡した後、
「猟師さんの言う通りです。僕も大人として、責任は取らないといけませんから」
と、彼の顔を見ながら言った。
猟師は笑うと、空いた左手でバンバンと僕の背を叩く。
「おお、なんだそういう事かよ! ははっ! 説教で改心させちまうとは、さすが俺って事だなあ」
僕はむせながら苦笑した。
家の扉が再び開き、赤ずきんが救急箱を片手に飛び出してくる。
「ごめんなさい、準備できました!」
僕は頷き、猟師の手を離すと赤ずきんの方に体を向けた。
赤ずきんが歩み寄る。僕はその肩に手を乗せる。
回り道をしてしまったけれど。
筋書きはもうめちゃくちゃだけど。
僕の最後の狼を。
僕の最後の暴力を。
続けて、終わらせようと決めた。
赤ずきんが口を開く。
『ねえお婆さん、お婆さんのお耳はどうしてそんなに大きいの?』