7.狼の話-井戸の前で

文字数 3,041文字

 井戸の前に着くと、僕は桶で水を汲みバシャバシャと顔を洗った。多少灰は落ちたが、気分は晴れない。桶を覗き込むと、水面に薄く僕の顔が映った。朝よりももっと酷い有様だった。
「決めたのにな、狼になるって」
 お婆さんの首に手をかけた時、また胃液が逆流しそうだった。口の中は血の味でいっぱいだ。けれどお婆さんの前で吐くわけにもいかない。僕はただ離れることしかできなかった。
 自分自身に対して大袈裟にため息をつく。
 結局僕は僕のままで、何者にもなれていない。それでも失敗をするわけにはいかない。皆に迷惑がかかる。
「どうしよう......」
 独りごちる僕。すると、突如横の茂みがガサガサと鳴った。驚いて僕は井戸から遠ざかる。ここに住む獣だろうか。準備の時そんな話は聞かなかったけれど。
 背の高い草をかき分け、音の主は現れた。
「おー、やっぱお前かよ。何か聞いたことある声すんなと思ったぜ」
「あっ......君、どうしてここに」
 学校の友人だった。猫である彼は、少し大きすぎるように見える長靴を履き、袋を背負っていた。恐らく物語の最中なのだろう。内容は僕にも見当がついた。
 彼はごしごしと髭を撫でて、しきりに跳ねていないかを気にかけている。晴れの舞台だ、当然の事だった。
「近くからお前の声がしたんでね、ちょっと顔でも見ようかと寄ってみた。兎を捕まえる途中なんだ、バレたら偶然だったと口裏を合わせてくれよ?」
 悪戯っぽく彼は笑う。主役を務める真っ最中だというのに、その顔に緊張の影はなく。何というか、いつも通りの彼だった。
「わかってるよ。もしかして君......僕を心配したりしてる?」
 涙の跡がバレないかと気にし、僕は僕で頬を擦りながら彼に問う。彼は横に大きい口を広げてニヤリとまた笑った。
「まあな! 先週の事故も見てたし、実戦でミスるんじゃないかとは不安だったよ。お前変な所で抜けてるしよ......。ま、井戸の前にいるって事は、万事上手くいったんだろうが」
 見当違いの彼の言葉に、反射的に僕の肩が上がった。同時に彼がバンバンと強く僕の肩を叩いたので、気付かれずには済んだが。
 冷や汗が流れる。言わないと。けれど失敗したと思われるのは嫌だ。
 どうしよう、頭の中がぐるぐると回る。
 そんな僕の内心に気づかずに彼は続けた。
「じゃ、俺もそろそろ戻るわ。明日またな。お前の活躍を聞くの、楽しみにしてるぜ!」
 踵を返しながら、彼はこちらにひらひらと手を振る。軽薄そうなその仕草の中には、確かに友情と僕への信頼があった。
 期待。僕の苦手なものだ。

 やろうって決めたんじゃないのか。
 今否定しなかったら、僕はずっと嘘つきになるんじゃないのか。

 狼は嫌だと願っているんじゃないのか。
 今否定せず、このまま逃げ続ければいいんじゃないのか。

「.......違うんだ!」
 考えが纏まる前に、僕の口からは勝手に声が漏れていた。語気につられて大声になる。顔を上げると、彼は驚いて半身で振り返り僕を見ていた。
「違うんだ、その......万事解決じゃないんだ。まだ僕、お婆さんを丸呑みにできたわけじゃなくて.....」
 言葉が揺れる。何もかも見抜かれて、彼もまた僕の前から消えるのではないかと、恐怖で足が震える。
 彼は訝しげにじっと僕を見ている。永遠にも感じられるような一瞬の沈黙。その後、彼はぱっと明るく笑顔になった。納得したと言いたげな雰囲気で、
「ああ、悪い悪い。勘違いしてたわ。すまねぇ」
 悪意も敵意もない言葉だった。
 見捨てられも、軽蔑もされなかった。
 僕はほっとして、彼に--
「まだ赤ずきんが来てねぇのか。仕方ねえよ、周りがお前の足を引っ張るのはな。お前と比べちまったら、どうせ皆『格下の雑魚』さ。前の豚野郎の話じゃねえが、少しくらい何かあってもお前の気にする事じゃねえよ」

 大きく口を開け、からからと彼が陽気に笑う。
 空っぽの僕のこころが、からからと鳴った気がした。

 彼と別れて、井戸からお婆さんの家に向かって歩く。
 わかっていたことだ。そして、自分が目を逸らしていたことだ。結局、狼をやらなければ彼の信頼を裏切る。
 彼だけじゃない。父も、亡くなった母も、一緒に今物語を紡いでいる人達も、学校の講師も。僕を知っている皆を裏切ることになる。
 裏切りは人を傷つける。例え肉体を物理的に損なわなくても、その心を傷つけるのだ。
 その牙で傷つけるのか、その行動や言葉で傷つけるのかの違い。
 狼である以上、僕は他人を傷つけなければ生きられない。牙を血に濡らすか舌を嘘で汚すかの違いでしかない。
 だったらきっと、心より身体を傷つけた方がマシだ。それは僕が気をつければ起きないことだ。
 言い聞かせる。その欺瞞を自分に押し付ける。二度と離れないように。
 ああ、どうして、

「なんでなのかなぁ......」

 どうして、僕は産まれてしまったんだろう。

 扉を開けると、お婆さんは変わらずベッドの上にいた。花束は幾つかに分けられ、花瓶に立てられている。部屋は春の匂いがした。
 お婆さんは僕の方に顔を向けると、何故か少し顔を顰めたように見えた。心配そうに僕に問う。
「狼さん、大丈夫かい? 外に出る前より、辛そうというか.......きつい顔をしているように見えるよ?」
 そんな事はない。今の僕に表情なんかないはずだ。感情なんかない筈なんだ。
「問題ないです、お婆さん。だってそうでしょう? 僕は狼なんですから」
 怖い顔なのも、目が怖いのも、当たり前の話だから。
 つかつかとお婆さんに近づく。細い首に、傷つけないように細心の注意を払いながら手をかける。
「いきますよ」
 ボソリと僕は言った。お婆さんは小さく笑うと、目を閉じる。その顔に緊張はなかった。......彼女にとっては、何度も繰り返してきた、当たり前のことをするだけなのだから。丸呑みされる演技など、呼吸にも等しいに違いない。
 後は僕が、失敗しなければいいだけの事。
 頑張ろう。どうせ僕の人生は終わっているのだから。人に迷惑をかけるのだけはやめないと。
 講師の言葉を思い出す。
「まず首を優しく持って。一番いけないのは頭から首までを傷つけてしまう事だから。そこが歯の合う部分を超えたら、身体をそっと抱えて。もう喉は広がっているから大丈夫。自分の食道を水の流れる筒だと思って。口内になるべく触れさせず、滑らせるイメージで」
 わかってる。何度も何度もやってきたことだ。たまたま一週間後に失敗しただけだ。思い出せない程人形で成功してきた。
 僕は狼だ。皆に羨まれてきた。才能があると繰り返された。妬まれた。失敗する筈ないと何度も何度も言われた。
 僕が失敗するはずが無いんだ。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 外れそうなくらい口を開ける。
 吸い込むように、僕の喉はお婆さんの体を胃に収めた。

 ......やった。やり遂げた。
「は、ははは、はは...」
 安堵の笑いが溢れる。
 それは自分でも驚くほど渇いていて、僕以外誰も居ない家に虚しく響いた。
 どすんと音を立てて床に腰を下ろす。みっともなく溢れていた口の端の唾液が、ぽたぽたと床に垂れる。
「.......は、は?」
 そこに混ざる。
 床とは違う色。
 透明でも、白く濁ったわけでもない、そもそも唾液の色じゃ無い。
 確かにある、血の赤。
 僕の奥歯から垂れる、血液の色だった。

 僕は絶叫した。
 それは狼の遠吠えそのもので。
 僕が狼らしく、確かに人の肉を傷つけた証だった。
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