17.赤ずきんの物語-お話の終わり
文字数 2,524文字
『ねえお婆さん、お婆さんのお耳はどうしてそんなに大きいの?』
『それはね、お前の声をよく聞くためだよ』
彼女の首に手をかける。
やり方は何も変わらない。
赤ずきんも怪我をするかもしれない、いや、するだろうと僕は思った。
その罪は償おう。どんな形になるのかはわからない。結局何も見つからないかもしれない。
怪我をさせたら、贖罪の道を探そう。
それまでは、生きていよう。
『ねえお婆さん、お婆さんのお目目はどうしてそんなに大きいの?』
『お前の顔をよく見るためだよ』
救急箱を抱きながら、私は幾度も練習した台詞を言う。
彼は結局狼を続けた。理由はわからないけれど。
――結局私は、狼さんを守れたのだろうか。彼の心は、辛いままではないのだろうか。
わからない。わからないから、物語の後で彼に聞こうと思った。彼は狼ではなくなるかもしれない。けれど彼自身はこれからも生きていく。
聞く機会は、いつだってある筈だ。
だから私は、彼が罪の重みで潰れないように。しっかりおばあちゃんを助けないと。
『ねえお婆さん、どうしてお婆さんのお口はそんなに大きいの?』
『それは――お前を食べるためだよ!』
僕は赤ずきんの体を抱き上げる。華奢で、羽根でも生えているのかと思うような軽い体躯。
壊れ物を扱うように、自分の喉にそれを滑らせた。牙が当たらなければ、僕の顎など外れても構わない。裂けて二度と使い物にならなくてもいい。強く願いながら、大口を開けて。
微かな衣擦れの音とともに、彼女は僕の喉奥に消えた。僕は猟師に振り返りながら叫ぶ。
「いけます、お願いします!」
猟師は楽しげに右手を上げると、握った鋏でシャキシャキと音を立てた。
「おっし! 待ってたぜ!」
私は狼さんの舌を、滑り台の要領で滑りながら喉奥に進む。空間の歪む確かな違和感。
大丈夫。一番危険な切歯と犬歯は過ぎた。ここまでくれば怪我をする危険はほぼない。私は右手で救急箱を抱えながら左手を舌につき、体勢を安定させると――
「.....っ!」
反射的に、全力で身体を右に寄せた。咄嗟に舌から離した左腕の先を、尖った歯が掠める。
なまじ入り口側の歯並びが良いせいで、全く予想が出来なかった。乳歯が抜けるのが遅かったせいか、彼の奥歯――後臼歯が一本、内側に歪んで飛び出している。
丸呑みにされた人間が手をつきやすい場所に、罠のように。初めて彼に飲まれる人間では、この歯を避けるのはかなり難しい。私が避けられたのは幸運だったとしか言えない。
何度も彼が人間相手に丸呑みの練習を行っていれば、誰かは気づいて指摘しただろう。
或いはもう少し歯の歪みが大きければ、狼さん自身が気付いて歯の治療をしただろう。
怪我は祖母のせいではなかった。もちろん彼の責任でもない。
たまたま偶然に起きた、空間が歪んでいなければ一ミリ程度の奥歯の歪み。
それが彼の心の傷の、あまりにも矮小な原因だった。
私は胃に到着する。中心部は魔法の粉が舞い、胃液の侵入を許さない球体が浮いていた。落ちてきた勢いに任せて、私はその中に飛び込む。
「......おばあちゃん!」
周囲を見渡す。祖母は左腕を抑えながら、ぐったりと球体の隅に横たわっていた。駆け寄り、抱き抱えていた救急箱を開ける。
出血はそれほど酷くはない。少なくとも大きな血管が傷ついているような様子ではなかった。ガーゼを当て、包帯をきつめに巻く。
「ごめんよ、赤ずきん......ちょっと失敗しちゃってね...ぐっ!」
「ごめん、痛いだろうけどちょっと我慢してね。――大丈夫、無理して話さないで。すぐに出れるわ」
とは言え無視していいほどの傷でもない。右手側に回り、身体を支えて立ち上がらせる。
お願い、早く――そう願う私に応えるように、目の前の胃壁を刃が貫いた。そのままゆっくりと上に肉を裂いていき、外の光が私達に当たる。
「このまま運ぶわね、おばあちゃん。もうちょっとだけ我慢して」
重みに震えそうになる足を無理やりに前に出し、私は外に向かう。
大丈夫。絶対大丈夫。
私は私を信じてる。
お婆さんを連れた赤ずきんが、僕のお腹から飛び出してくる。僕は右手に用意していた糸付きの針を腹に刺し、縫い始めた。
あまりの暴挙に猟師が僕の手を止める。
「おいおいおいおい! それやるのは俺の役目だろ! 腹裂かれた奴が無理するんじゃねえ!」
だが僕は手を止めず、猟師に言い返す。
見ればお婆さんの服は赤く染まり、左手には包帯が巻かれていた。
「僕はいい、裂かれたって言っても魔法の品での怪我だ。繋げておけば痕も残らず治る! それより早く二人を病院に!」
怒りで僕の視界は赤く染まっていた。他人へのではなく、自分への怒りで。
猟師は一瞬何か言いかけたが、僕の顔を見て何を言っても無駄だと察したのだろう。小さく舌を鳴らすと、猟銃を僕に放った。
「仕方ねえ、後は任せたぞ! 赤ずきん! 婆さんは俺に任せろ! 先に行って街の病院に話つけとけ!」
ぜえぜえと赤ずきんは荒い息を吐いていたが、それでも顔を上げ、強く頷く。
猟師は頷きを返すと、横たわるお婆さんを軽々と背負った。痛みで意識が朦朧としているのか、お婆さんの返事はない。
立ち上がった赤ずきんは、一瞬僕を見る。そしてすぐに駆け出した。街に向かって、森の小道をまっすぐに。
振り返ることはなかった。
彼女は強い。
僕もそうであれたらと思った。でも、そうはなれなかった。そんな自分が、少し悔しかった。
赤ずきんの後を、猟師が追う。本当に人を背負っているのかと疑いたくなるような、力強く身軽な足取りで。
これなら大丈夫、きっとお婆さんは助かる。
雑に腹を縫い合わせると、僕は針を投げ捨てた。そして落ちている猟銃を拾い、銃口を自分の頭に向ける。
無論、中には空砲すら入ってはいない。必要なのは、狼に向かって引き金が引かれたこと。
悪い狼は、退治されないといけない。
「ごめんよ、赤ずきん」
僕は引き金を引く。
かちん、と。金具が鳴って。
物語の狼は、死んだ。
こうして赤ずきんとお婆さんを食べた悪い狼さんは、猟師さんの銃で退治されて。
三人は無事に、街までたどり着くことができたのでした。
『それはね、お前の声をよく聞くためだよ』
彼女の首に手をかける。
やり方は何も変わらない。
赤ずきんも怪我をするかもしれない、いや、するだろうと僕は思った。
その罪は償おう。どんな形になるのかはわからない。結局何も見つからないかもしれない。
怪我をさせたら、贖罪の道を探そう。
それまでは、生きていよう。
『ねえお婆さん、お婆さんのお目目はどうしてそんなに大きいの?』
『お前の顔をよく見るためだよ』
救急箱を抱きながら、私は幾度も練習した台詞を言う。
彼は結局狼を続けた。理由はわからないけれど。
――結局私は、狼さんを守れたのだろうか。彼の心は、辛いままではないのだろうか。
わからない。わからないから、物語の後で彼に聞こうと思った。彼は狼ではなくなるかもしれない。けれど彼自身はこれからも生きていく。
聞く機会は、いつだってある筈だ。
だから私は、彼が罪の重みで潰れないように。しっかりおばあちゃんを助けないと。
『ねえお婆さん、どうしてお婆さんのお口はそんなに大きいの?』
『それは――お前を食べるためだよ!』
僕は赤ずきんの体を抱き上げる。華奢で、羽根でも生えているのかと思うような軽い体躯。
壊れ物を扱うように、自分の喉にそれを滑らせた。牙が当たらなければ、僕の顎など外れても構わない。裂けて二度と使い物にならなくてもいい。強く願いながら、大口を開けて。
微かな衣擦れの音とともに、彼女は僕の喉奥に消えた。僕は猟師に振り返りながら叫ぶ。
「いけます、お願いします!」
猟師は楽しげに右手を上げると、握った鋏でシャキシャキと音を立てた。
「おっし! 待ってたぜ!」
私は狼さんの舌を、滑り台の要領で滑りながら喉奥に進む。空間の歪む確かな違和感。
大丈夫。一番危険な切歯と犬歯は過ぎた。ここまでくれば怪我をする危険はほぼない。私は右手で救急箱を抱えながら左手を舌につき、体勢を安定させると――
「.....っ!」
反射的に、全力で身体を右に寄せた。咄嗟に舌から離した左腕の先を、尖った歯が掠める。
なまじ入り口側の歯並びが良いせいで、全く予想が出来なかった。乳歯が抜けるのが遅かったせいか、彼の奥歯――後臼歯が一本、内側に歪んで飛び出している。
丸呑みにされた人間が手をつきやすい場所に、罠のように。初めて彼に飲まれる人間では、この歯を避けるのはかなり難しい。私が避けられたのは幸運だったとしか言えない。
何度も彼が人間相手に丸呑みの練習を行っていれば、誰かは気づいて指摘しただろう。
或いはもう少し歯の歪みが大きければ、狼さん自身が気付いて歯の治療をしただろう。
怪我は祖母のせいではなかった。もちろん彼の責任でもない。
たまたま偶然に起きた、空間が歪んでいなければ一ミリ程度の奥歯の歪み。
それが彼の心の傷の、あまりにも矮小な原因だった。
私は胃に到着する。中心部は魔法の粉が舞い、胃液の侵入を許さない球体が浮いていた。落ちてきた勢いに任せて、私はその中に飛び込む。
「......おばあちゃん!」
周囲を見渡す。祖母は左腕を抑えながら、ぐったりと球体の隅に横たわっていた。駆け寄り、抱き抱えていた救急箱を開ける。
出血はそれほど酷くはない。少なくとも大きな血管が傷ついているような様子ではなかった。ガーゼを当て、包帯をきつめに巻く。
「ごめんよ、赤ずきん......ちょっと失敗しちゃってね...ぐっ!」
「ごめん、痛いだろうけどちょっと我慢してね。――大丈夫、無理して話さないで。すぐに出れるわ」
とは言え無視していいほどの傷でもない。右手側に回り、身体を支えて立ち上がらせる。
お願い、早く――そう願う私に応えるように、目の前の胃壁を刃が貫いた。そのままゆっくりと上に肉を裂いていき、外の光が私達に当たる。
「このまま運ぶわね、おばあちゃん。もうちょっとだけ我慢して」
重みに震えそうになる足を無理やりに前に出し、私は外に向かう。
大丈夫。絶対大丈夫。
私は私を信じてる。
お婆さんを連れた赤ずきんが、僕のお腹から飛び出してくる。僕は右手に用意していた糸付きの針を腹に刺し、縫い始めた。
あまりの暴挙に猟師が僕の手を止める。
「おいおいおいおい! それやるのは俺の役目だろ! 腹裂かれた奴が無理するんじゃねえ!」
だが僕は手を止めず、猟師に言い返す。
見ればお婆さんの服は赤く染まり、左手には包帯が巻かれていた。
「僕はいい、裂かれたって言っても魔法の品での怪我だ。繋げておけば痕も残らず治る! それより早く二人を病院に!」
怒りで僕の視界は赤く染まっていた。他人へのではなく、自分への怒りで。
猟師は一瞬何か言いかけたが、僕の顔を見て何を言っても無駄だと察したのだろう。小さく舌を鳴らすと、猟銃を僕に放った。
「仕方ねえ、後は任せたぞ! 赤ずきん! 婆さんは俺に任せろ! 先に行って街の病院に話つけとけ!」
ぜえぜえと赤ずきんは荒い息を吐いていたが、それでも顔を上げ、強く頷く。
猟師は頷きを返すと、横たわるお婆さんを軽々と背負った。痛みで意識が朦朧としているのか、お婆さんの返事はない。
立ち上がった赤ずきんは、一瞬僕を見る。そしてすぐに駆け出した。街に向かって、森の小道をまっすぐに。
振り返ることはなかった。
彼女は強い。
僕もそうであれたらと思った。でも、そうはなれなかった。そんな自分が、少し悔しかった。
赤ずきんの後を、猟師が追う。本当に人を背負っているのかと疑いたくなるような、力強く身軽な足取りで。
これなら大丈夫、きっとお婆さんは助かる。
雑に腹を縫い合わせると、僕は針を投げ捨てた。そして落ちている猟銃を拾い、銃口を自分の頭に向ける。
無論、中には空砲すら入ってはいない。必要なのは、狼に向かって引き金が引かれたこと。
悪い狼は、退治されないといけない。
「ごめんよ、赤ずきん」
僕は引き金を引く。
かちん、と。金具が鳴って。
物語の狼は、死んだ。
こうして赤ずきんとお婆さんを食べた悪い狼さんは、猟師さんの銃で退治されて。
三人は無事に、街までたどり着くことができたのでした。