5.狼の話-お婆さんの家で
文字数 1,270文字
「すみません、本当に......」
服の袖で顔を拭いながら、ようやく僕は顔を上げた。お婆さんは僕が暖炉に隠れる前と同じ、少し困ったような笑顔を浮かべている。
赤ずきんとの邂逅の後。花を摘んでいる赤ずきんの先回りをして、僕はこの家にやって来た。そして、物語通りにお婆さんを丸呑みにしようとした。
何度も練習してきたことだ。
人形相手なら、失敗したことがない程に。
けれど、僕の手は震えてしまって。
喉と胃を拡張させる魔法の粉すら飲めないあり様。
「初めてならよくある事だから」
そう、お婆さんは待ってくれたけれど。
ちっとも震えは止まらなくて。
......そして、僕が何も物語を進められないうちに、赤ずきんはここに到着してしまった。
僕に、狼に、追いついてしまった。
僕は逃げ出した。暖炉の中に逃げ出した。
赤ずきんに見つからないように、物語から逃げ出した。
「一度赤ずきんには帰ってもらったけれど......どうだい狼さん。私を丸呑みにする自信は、出そうかい?」
僕は力なく首を振る。自信はなかった。いや、自信が出るかどうかすらわからなかったと言うべきか。
お婆さんの首に一度手をかけた時、舌の奥が痺れる程の恐怖が僕を襲ったからだ。あんなものに、耐えられる自信などあるはずがなかった。
僕の様子にお婆さんは細く息を吐く。
そして肩を落とすと、
「失敗、かねぇ......」
力なく呟いた。
失敗。その単語に、僕の肩が竦む。
物語の失敗。他の誰のせいでもなく、僕のせいで...この物語は、失敗に終わるのか。
赤ずきんも、お婆さんの努力も。長くかかった準備も......僕のせいで、無駄に終わるのか。
脳裏に浮かぶ、泣きじゃくる子供。
逃げるように駆け出した夕暮れ。
「.......っ!」
僕はその記憶を振り払うために、両手で自分の頬をパンパンと張った。僕の様子にお婆さんが驚いて目を丸くする。
何か変わったわけじゃない。声の震えは取れないままで、僕はお婆さんに言う。
「少し、少しだけ外で頭を冷やさせて下さい。頑張れるようにしてきます......」
僕の言葉にお婆さんは頷くと、再び毛布を膝の上までかけた。
「もちろんいいわ。赤ずきんが戻るまでに帰って来てくれるなら。そしてどうしても無理だった時には、皆でお城に謝りにいきましょう。あまり選びたくない選択だけれど、狼さんが無理なら仕方がないから」
飽くまで優しい口調を崩さず、お婆さんはそう僕に告げる。けれどその瞳は、今は僕には向けられていなくて。
気になって視線を追うと、お婆さんの目は赤ずきんの持ってきた花束に向けられていた。
愛おしげに指先で赤い花弁を撫でる。
白い指先に赤が映えて、綺麗だった。
血のようだと、僕は思った。
僕は扉を開けてお婆さんの家を出る。
とりあえず、井戸に行って顔を洗おうと思った。頭を冷やして、冷静に考えよう。それに顔の灰も、涙の跡も、落としてこないと。
僕はとぼとぼと歩き出した。
心は折れたまま、直る見込みなんてなかったけれど。お婆さんに待ってほしいと頼んだ癖に。
服の袖で顔を拭いながら、ようやく僕は顔を上げた。お婆さんは僕が暖炉に隠れる前と同じ、少し困ったような笑顔を浮かべている。
赤ずきんとの邂逅の後。花を摘んでいる赤ずきんの先回りをして、僕はこの家にやって来た。そして、物語通りにお婆さんを丸呑みにしようとした。
何度も練習してきたことだ。
人形相手なら、失敗したことがない程に。
けれど、僕の手は震えてしまって。
喉と胃を拡張させる魔法の粉すら飲めないあり様。
「初めてならよくある事だから」
そう、お婆さんは待ってくれたけれど。
ちっとも震えは止まらなくて。
......そして、僕が何も物語を進められないうちに、赤ずきんはここに到着してしまった。
僕に、狼に、追いついてしまった。
僕は逃げ出した。暖炉の中に逃げ出した。
赤ずきんに見つからないように、物語から逃げ出した。
「一度赤ずきんには帰ってもらったけれど......どうだい狼さん。私を丸呑みにする自信は、出そうかい?」
僕は力なく首を振る。自信はなかった。いや、自信が出るかどうかすらわからなかったと言うべきか。
お婆さんの首に一度手をかけた時、舌の奥が痺れる程の恐怖が僕を襲ったからだ。あんなものに、耐えられる自信などあるはずがなかった。
僕の様子にお婆さんは細く息を吐く。
そして肩を落とすと、
「失敗、かねぇ......」
力なく呟いた。
失敗。その単語に、僕の肩が竦む。
物語の失敗。他の誰のせいでもなく、僕のせいで...この物語は、失敗に終わるのか。
赤ずきんも、お婆さんの努力も。長くかかった準備も......僕のせいで、無駄に終わるのか。
脳裏に浮かぶ、泣きじゃくる子供。
逃げるように駆け出した夕暮れ。
「.......っ!」
僕はその記憶を振り払うために、両手で自分の頬をパンパンと張った。僕の様子にお婆さんが驚いて目を丸くする。
何か変わったわけじゃない。声の震えは取れないままで、僕はお婆さんに言う。
「少し、少しだけ外で頭を冷やさせて下さい。頑張れるようにしてきます......」
僕の言葉にお婆さんは頷くと、再び毛布を膝の上までかけた。
「もちろんいいわ。赤ずきんが戻るまでに帰って来てくれるなら。そしてどうしても無理だった時には、皆でお城に謝りにいきましょう。あまり選びたくない選択だけれど、狼さんが無理なら仕方がないから」
飽くまで優しい口調を崩さず、お婆さんはそう僕に告げる。けれどその瞳は、今は僕には向けられていなくて。
気になって視線を追うと、お婆さんの目は赤ずきんの持ってきた花束に向けられていた。
愛おしげに指先で赤い花弁を撫でる。
白い指先に赤が映えて、綺麗だった。
血のようだと、僕は思った。
僕は扉を開けてお婆さんの家を出る。
とりあえず、井戸に行って顔を洗おうと思った。頭を冷やして、冷静に考えよう。それに顔の灰も、涙の跡も、落としてこないと。
僕はとぼとぼと歩き出した。
心は折れたまま、直る見込みなんてなかったけれど。お婆さんに待ってほしいと頼んだ癖に。