第32話 直球

文字数 1,096文字

 研究室の扉は開けっ放しで、カウンターにあるカメラと目が合った。赤いランプが点滅し、ブツッとした音に続けて男性の声が聞こえてきた。
「やあ、ようこそ、棚上(たなかみ)くんだね。右に進んでくれたまえ。その先にある温泉マークの暖簾をくぐると、僕のデスクだ」
 言われたとおりに狭い通路を進む。大型の書籍や昔使っていたらしいCD-Rの束がいかにも研究室らしい。こういうデータを最新のハードディスクに焼いておかないのは、さすがの北咲(きたざき)研究室も人手不足なのかな、と思った。そして温泉マークの暖簾にたどり着く。「毎日が地獄です」と大きく書いてあり、その下に「別府温泉」のロゴがあった。小学校低学年のころ両親と行った地獄巡りを思い出しながら、僕は暖簾を軽く(めく)って声をかけた。
「すみません。棚上です。北咲先生、おられますか?」
 紺色のベストを着た背中がくねる。
「ああ、棚上くん、こんにちは。ついに今年の新入生トップに会えた。嬉しいよ」
 この手の言葉はくすぐったい。が、この一年言われ続けたためある程度免疫ができている。が、明紋微生物研究所(めいもんびせいぶつけんきゅしょ)の博士にまでそのように扱われてしまうのはどうなんだろう。さすがに持ち上げられ過ぎではないだろうか。しかしここでそのような疑問を表出しても意味はない。僕は何事も感じない体を装い、笑顔を作る。
「それで早速だが、その棚上くんの質問はなんだろう? 是非聞かせてほしい」
 好奇心旺盛な幼児を思わせるような瞳で、北咲博士は僕を見つめる。まっすぐ過ぎて、むしろ僕が恥ずかしくなる。
「あ、有り難うございます。本当に早速なんですが、あの、新型オトナウイルスのワクチンのことなのですが」
「ああ、うん、開発は進んでいるよ」
「それはやっぱりワクチンなので、感染を抑制したり、オトナ化を緩徐にするとか、重症化を防ぐことが目的なのですよね?」
「もちろんだよ」
「でも、新型オトナウイルスが新型になる前から、オトナ化にはウイルス感染が必要だった訳ですよね」
「そこらへんはむしろ、棚上くんたち現役のサイエンス部員の方が詳しいんじゃないかな? 最先端の一つに湯山(ゆやま)くんあたりは立っている」
「はい。でも僕が言いたいのは、いつかは感染しなければいけないのだろう、ということです」
「ほう。確かに、オトナになるための契機がウイルス感染な訳だから、それは正しい」
「ですから例えば、失礼を承知で言わせていただきますが、完璧に感染を抑えるのはむしろ自然の理に反しているのではないか、と」
「うん、そうだね。ウイルスが新型に置き換わるのは時間の問題だろう。そうなると新型オトナウイルスに感染して、これからの子ども達は大人になっていくことになる」
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