26。

文字数 2,195文字


 ああ、よく寝た。

 そんな感じだった。元気に両手を伸ばしながら目覚めてもおかしくない感じだったのだが、現実は……。
 ゆっくりと目が開いた。幸運なことに胸の違和感はなかった。
 まあ…、その代わりと言ったらなんだが、体はびくとも動かず、まるで金縛りにあっているようだった。
 心電図の音がピッピッと規則的に鳴り響き、口元に付けられた酸素吸入器からは、一定量の酸素が配給されていた。
 意識的に呼吸を深くする。ぼやっとする視界…。こんな見え方だったっけ?
「何だ…起きちゃったの……」
 知らない女性の声が聞こえた。右腕が動くことを確認して、口元の装置を取る。
「誰…で…すか?」
 声が意外にもしっかりとでた。
「私?新しい専任の看護士よ。まあ、短い期間だけれど」
 女性は、窓を少し開けると、電子タバコで一服した。甘い果物のような匂いが香る。
「ここ…吸っていいんだ……」
「バカね、ダメに決まってるでしょ」

 あ……間違ってなかった……

 感覚があることを確認しつつ、体を起こす。
「すごい、甘い……」
「ああ…匂い?バニラよ。吸ったことある?まあ、あるわけないか。あんたいろいろ制限かかってるもんね」
 私の感覚はやっぱおかしいのだろう。今、ここにいるこの女性を、知らないが、この匂いは何だか記憶の中にある。それほど古くない記憶の中に。
「あんた、この状況、怖くないの?」
「……なんか怖いことしますか?」
「…………するつもりだったけどね」
 女は窓辺に寄っ掛かると、大きくため息をついた。電子タバコを再び吸って、軽く息をつく。甘い匂いが風に乗って鼻先をくすぐった。
「なんか……あんたって、しんどい人生歩いてるじゃない。なんかちょっと同情してる部分もあるんだよね……」
 何が言いたいのかは、今の私では分からないが、どうやら、現段階で

になりそうなリスクは低いようだった。
「じゃあ……聞いても……いいですか?」
 体を動かす余力が見つからないので、何だかぬいぐるみが力なく座っている感じになってしまっている。
 ああ、何てだらしない格好なんだろう……どこかでそんな感情もあるが、自分のモノとは思えないぐらい遠い。
「いいわよ。どうせすぐ眠くなるだろうから」

 ああ、そうか…これって睡眠薬か……

 力の入らなさ具合に思い当たったら、なんだか納得してしまった。
「あなたは…誰ですか?」
「だから…」
 面倒くさそうに話そうとした女だったが、一度言葉を止めて、言い直した。
「まあ、そうね。看護士なのは本当よ。あなたのいたR国立総合病院に勤めてたわ」

 ああ…何度か嗅いだことがあるはずだ…

「どうして……ここに?」
 女は電子タバコをしまうと、二美子のベッド横に近づいてきた。
「あなたがね、憎らしくて、困らせてやろうと思って。でも……あなたって十分に不幸よね。だから(ヒロム)さんもあなたに同情したのね。きっとそうよね……」

 ヒロムさん……? Polarisの……?

「あの人は…優しいから、放っておけなかったのよね、きっと。あなたのことを気にしている啓さんが許せなくて、あなたに警告しようとしたけれど、何だか頼んだ

に連絡つかなくなってさ。失敗して、ほんと使えないわ。やっぱり、ネットで頼むってこんなもんなのね」

  頼む……。何か誰かに頼んだのかな……

 私の体はゆっくりと前に倒れていき、くの字になったあと、傾きの大きかった右方向へコロリンと転がった。
「……っふ…」
 吐息が漏れる。
「ああ……もう体を支えられないわね。……あんた転院しちゃったから、どうしようかと思って、そのままでも…もうよかったのに、なんか勢いで怒りのまま、どうしたって困らせてやろうって………」
 ベッドサイドに座った女は足を組んで私を見下ろした。
「……ここに来るまではその思いで一杯だったんだけど……あんたを見たらちょっと分かんないわ。どっちが幸せなんだろって思っちゃう……」
 見下ろされてはじめて、少し怖さを感じた。それでも…睡眠薬のせいかボーッとし始めていて、何だか夢の中にいるような、自分のもとに起こっていることだという確実性が曖昧になっていた。
「あなたは…きっと……優しい…」
「は…?」
 女は私の言葉にベットから立ち上がり、私の体を掴んで揺らした。
「そういう見下した態度をあんたが取っていいと思ってンの?!どう考えたっておかしな女でしょうが!」
 きっと…薬が効いてなかったら、痛くて、怖くて…この状態に堪えられなかっただろう。幸か不幸か…私は、ほとんど意識を手放しかけていた。だから、考えるよりも感じたままを口にしていた。
「生きることに…欲があるって…当然…」
「…!」
「あなたは…正じ……き…」
 私の目はもう閉じられていた。
 その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「二美子っ!」
 裕太(ユウタ)の声が響き、尚惟(ショウイ)輝礼(アキラ)が入ってくる。女は声に驚き、二美子の肩から手が離れる。その間に即座に女に近づいた裕太。女の腕を取りベッドから離すと、あっという間に制圧する。
 二美子の横たわるベットに駆け寄る尚惟。
「二美子さんっ!二美さんっ!」
 二美子に近づき、体を少し起こし息を確かめる。微かに感じる息に、安堵の息を吐く。
「医者をっ!早くっ!」
 輝礼、廊下で大声で叫ぶ。
 白衣を身に纏った医療従事者から、紺色の背広を着た刑事や警官がたちまち集まってくる。そんなに騒がしいのに、二美子の目は閉じたままだった。
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