第2話 コードネーム、エアー
文字数 3,547文字
デビッドが寝室の壁板を一枚外し、カバンと上着を取って別名義で借りた隣の部屋に移動した。
ここは角部屋なので、おもてとは別方向の窓を開けて下を伺う。正面には、人一人通れるほど離れて隣のアパートの壁がある。だが、ここから降りる予定が、囲まれては使えない。
「駄目だ、囲まれている、人数が多い。」
「私が……付けられたのでしょうか?」
部下が泣きそうなほどに声が震える。
デビッドが小さく首を振り、落ち着けと手をかざした。
「いや、これは計画された突入だ。
それだけ、核という事案が奴らにもセンシティブな問題という自覚があるのだよ。
今は逃げることだけに集中するんだ。手帳は?」
「燃やしました。中身は頭の中にあります。捕まったらカプセルを。」
部下は、すでに捕まったときの恐怖に、目を見開き自決の覚悟を決めている。
まだだ、まだ早い。
「早まるな、ギリギリまで生きることを考えろ。」
「はい」
ドンドンドーンッ!
隣の部屋に、バラバラと突入された音がする。
人がなだれ込み、家具がひっくり返される。
怒鳴り声が響き、そっと下を見ると人が呼ばれたのか消えて行く。
デビッドが、いつでも逃げられるように準備していた縄ばしごを降ろす。
部下に先に行くよう指示し、3日後合流ポイントで会おうと告げた。
若い部下はサッと機敏に降りて行く。
デビッドも後に続き、部下とゴミ置き場に潜んで辺りをうかがい、裏通りに出ると双方向に分かれて急いだ。
パンッ!パンパンッ!
乾いた銃声が辺りに響き、デビッドが思わず部下の行った方角へと引き返しかけて止まった。
振り切るように先を急ぎ、タクシーを拾って先にチップをはずみ隣市の中心部にある有名なパブを告げた。
そこは近くにメレテの領事館があり、密かに接触する場所として決めている一つだ。
だが、無事にたどり着けるかは未知数となった。
せめて裏取引の件だけは、要約だけでも何としても伝えなくてはならない。
タクシーの中で、カバンを膝に乗せて手帳を出し、暗号文を書き始めた。
ハイブリッドの古い車で、車内には時々モーター音が低く響く。
運転手がチラリとバックミラーで彼を見て、何気なく聞いてくる。
「お客さん、メレテの人?」
「いや、…なんでそう思うんだい?」
「そうだなあ、なんとなく、あんた俺の爺さんと雰囲気が似ててな。
……いや、気を悪くしたら済まねえ。
爺さんは昔メレテ側に住んでてな、若い頃こっちに仕事で来てた時に突然アルケーが独立して分断したんで、とうとう親と一緒に暮らせなくなっちまったんだ。
やっと戦争終わって国交戻ったかと思ったら、言うほど活発にならねえ。
相変わらず不景気なまんまだ。
俺は、この国のやり方がほんとかどうかわからねえが、心から平和を望んでるんでさあ。
いや、ハハハ、忙しそうなのに、くだらねえ話ですまねえなあ。」
気のよさそうな男の目を、バックミラー越しに見る。
目が合うと、照れくさそうな顔でぺこりとお辞儀した。
胸騒ぎが止まらない。
こんな事は初めてだ。
俺は、きっとこの手帳を渡せない。
手が止まり、目を閉じる。
衛星電話を取り、ダイヤルボタンを押す。
コールが短く1回鳴って、通話状態になった。
「ボード79,187309368799171620……」
メモに書いた数字を読み上げて行く。
一方的に喋り、電話を切ると身体中からすべての力が脱力した。
だが、今日は天気が良すぎる。今の時代、追うのは人では無い。
きっと、見られている。付けられている。
俺は、ああ、俺は、死ぬかもしれない。
それでも、本部にだけはこの情報を伝えられた。
しかし、できれば詳細を書いたこの手帳を……
何度も、黒い合皮の手帳を撫でる。
それは彼の、大切なバディだった。
メレテならば、メールをすればいいと思う。
だが、アルケーはネット環境が貧弱だ。
衛星スマホを持つものは、ほとんど見ないのでボディチェックされるとアウトだ。
石畳に石造りの家が建ち並び、メレテよりも立派に見える家々も、実は裏を返せば木材不足の冷たい家だ。
電力不足も顕著で、いまだに停電が頻繁に起きる。
アルケーは、メレテよりもどこか不安定で、経済状況が悪いところだった。
「お客さん、もうすぐ着きますよ」
「ああ……どうも、ありがとう。」
「お客さん、私に出来ることはありますか?」
「……え?」
「しがない親父ですが、爺さんの代わりに出来ることをさせてください。」
その言葉に息を呑み、手帳を見る。
信じるか?信じられるのか?信じていいのか?いいや、いいや、信じられない。
目を閉じて、大きく息を吸う。
信じてみよう、彼の言葉を。
一枚ページを破り、メレテ領事館が密かに使っている郵便局名と私書箱のナンバーを書いた。
町の中心部に近くなり、信号で止まる。
住所を書いた紙とチップを挟み、震える手でそっと座席の間に置いた。
「中は見ません、封筒に入れてメモの所に送ります。このメモはその後燃やします。
私に出来るのはそのくらいです。」
「十分です。あなたに出会った幸運を、神に感謝します。」
「グッドラック」
運転手がダッシュボードからダイレクトメールの封筒を取り出す。
中に入れて、新聞の間に挟んで隠した。
パブの脇に車が止まり、デビッドが車を降りる。
車は走り去り、それを振り向きもせずに路地に入った。
領事館へ走り込みたい衝動を止めて、距離を取って様子をうかがう。
そこには驚くほどの数の軍や警察が周辺を警備している。
今は連絡を取るのは無理だ。
少し考えて、一旦離れることに決めた。
この姿は目立つ。服を着替えよう。
商店街に出ると、思い切って人混みに入り先を急ぐ。
途中トイレに入り、上着を背広から黒のジャケットに替えた。
背広は丸めてカバンに入れる。きれいになでつけた髪をボサボサにして、白髪を黒く塗った。
サングラスを付け、有事の待ち合わせに決めているパブに入る。
店は繁盛していて、食事が美味いことで有名だ。
だから自然を装って、領事館の職員も確認のために時々食事に来る。
窓から離れて、かつ外の見える席を取り、外を伺いながら食事を取ると、次第に落ち着いてくる。
今は、生きることを優先する。
その言葉に、ある人物を思い出してクスッと笑った。
“俺は生きることを優先する!”
ある作戦を共にした、少年兵の口癖のような言葉だ。
子供はそれでいい。
子供は、そうであって欲しい。
ため息をついたとき、どさんと突然隣に40近くの男が座った。
「よお!シルバーフォックス!髪黒かったから全然わからなかったぜ。
危ねえ危ねえ、うっかり逃がすところだった。
ご同業よ、久しぶりだなあ。
デビッドなんて、いい偽名じゃないか、ヒュー!カッコイイ!
え?コードネーム『エアー』よ。
なんだよ、せっかくのハンサムがそんな眼鏡かけてちゃ勿体ないだろ?
スゲえ、さすが年季の入ったおっさんだぜ。
隠れてブルブル震えてるかと思ったら、堂々とメシ食ってやがる。あんたの部下は死んだぜ、ヒヒッ」
他の客が追い出され、反対側に別の男が立つ。
大きなため息をつき、食事を続けた。
「何の用だ。」
「はあ?何の用だぁ?」素っ頓狂な声を上げて、男がテーブルに突っ伏す。
「参ったなあ。あんたといると、俺がペーペーみたいな気持ちなっちまう。
なあ、チェックメイト。わかってんだろ?
まあいいさ、食い終わるまで待ってやるよ。最後の晩餐だ。
しかしひでえなあ、肝心の手帳燃やしやがって、俺達あんたに直に聞くしかネエじゃん?
でもあんたの口の堅さは有名だ。薬でベロベロになっても喋らなかったってのは俺達の中でも語り草になってる。
捕まるの、これで2度目だって?あんた自身ヘマしねえ奴が、いつもヘマするのは隣の相棒だ。
運が悪かったなあ。
1度目はラッキーだっただろうが、今度はそうはいかねえ。
地獄であんたの奥さんと、可愛い子供たちが待ってるぜ。」
ああ………
こいつらは、いつもそうだ。
得意げに、自分たちが殺した私の家族のことをいつも突きつける。
ああ、わかってない。
わかってないな。
それを聞くと絶望するとでも思っているのか?
いいや、
いいや、
俺の心には、火が付くのさ。燃え上がるのさ。
この土地を、この国を、燃え上がらせるほどの
血の海だった、あの光景が。
「 お前達に、私のことは何一つわからない 」
食べ終えて、エアーがそう漏らす。
「はあ?なんだって?」男が小馬鹿にして口を尖らせる。
ドンッ!
フォークとナイフを両手に掴んでテーブルに突き立て、エアーが立ち上がった。
「さあ、
わしに弾を撃ち込むならこの心臓を、この頭を、よく狙うがいい。
でなければ、わしは何度でもお前達に牙をむくぞ。何度でもな。」
驚く男が、エアーの顔を見上げてゾッとする。
それは、絶望など微塵も感じない、戦慄を感じるほどの不気味な笑いをたたえた、まるで復讐鬼のような顔だった。