第19話 佐吉、ウォークススルー、尼ヶ崎#1
文字数 3,943文字
「… ……くぁ」
時刻は十五時を少し過ぎる。阪神電鉄尼ヶ崎 駅北側の比較的広さのある其の場所は、名称を尼ケ崎中央公園 と云う。其の平日の人通りも其れなりの公園の隅に、遠慮するように設置された四人掛け用のベンチにダルそうに座る一人の少年。パーカーフードを目深に被った相馬佐吉 である。比呉 の自室を飛び出したものの特に行く当ても無かった佐吉は、とりあえず思うが儘前後に足を動かして、凡そ五分後に辿り着いた此の場所を暫定的な休憩所として選んだのであった。
「…… …はぁ。喧 しいのんが、居 らんでエエわ。… … ………痛 チチ…」
巽事務所での尋問と逃亡の際のテツとの攻防で受けた生傷がまだしくしくと痛むが、其れでも昨日に比べれば一晩ぐっすり眠ったおかげで耐えうる程には十分回復して居た。
「… …… …………」
尼ヶ崎は佐吉の地元である。然し、此処一年程は立ち寄るコトも無かった。理由は此れ迄に語られた通り、大阪で騒音男 と共に暴れ回って居た所為である。佐吉はなし崩しとは云え、久々に尼ヶ崎 の空気を吸って地元に戻って来たコトを実感した。何処に居ても、何処かしらから漂って来る饐 えた匂い。住民の皮脂や分泌物の匂いである。のみならず尼ヶ崎の南側は工場地帯であり、化学薬品の匂いとも混ざり合って、西成の其れとはまた違う独特の臭気を醸し出していた。
「っだあラァ!誰に向かって物云うとんじゃ、ワレ!」
何処からとも無く聞こえてくる怒号。佐吉はぼうっと通行人を追っていた視線を声の方向に向ける。其処には或る一定の人種の琴線に触れるのであろう、極彩色の青で染めたスーツに身を包み、腕に分厚い金時計を巻きつけた男が、今にも死にそうな日雇い労働者風情の老人に向かって殴りかからんばかりに怒鳴りつけている所であった。
「…… …。……… …尼ヶ崎 は今日も平常運転ですなァ。」
佐吉がリラックスしたようにぽつりと呟く。恐らく、男の方は貧困ビジネスで生活保護受給者のような人間を食い物にしている外道だろう。奴等は揃いも揃って同じ様な身形をしている。そして其の様な連中に食い物にされているあの老人も、此れ迄の人生において怠惰で粗暴な生活を繰り返してきたのだろうと推察される。落伍者と云う点では、此処に住む者は誰も違いは無いと佐吉は思う。
多くの場合に於いて、此の場所に住む連中に六な者は居なかった。皆、例外無く精神的にも肉体的にも飢えていた。飢えていたがゆえ、貪欲であり且つ強欲であった。尼ヶ崎 には強者 と弱者 しか居なかったのである。間違って見ず知らずの人間に同情等して手を差し伸べようものなら、逆に骨の髄迄しゃぶられ破滅してしまう。尼ヶ崎と云う土地はそういう場所なのであった。
関西には北から順に阪急電鉄、JR、阪神電鉄と三つの路線が平行して走っている。北に行く程に民度と治安、収入が改善していき、逆に南へ行くに従って全ての面で悪化してゆく。関西は人口流入の歴史的事情により、遥か昔から路線に見られるような地域の構図が出来上がって居た。だが二千年代に入り行政も漸く本腰を入れ始め、尼ヶ崎市の治安改善も図られた。其の唯一の成功例がJR尼ヶ崎近郊の高層マンション群であり、昭和の閑散としていた立地からすっかり其の様相を変え現在に至っている。
同様に此処、阪神尼ケ崎近郊にも一時期テコ入れが入り、再開発に多額の資金が投入された経緯があった。此の尼ケ崎中央公園も他の例に漏れず、再開発が行われ綺麗に整備されたコトもあったが、二千十年代頃から突如として全国で同時多発的に発生した或る症候群 により、それら行政の思惑は破綻の一途を辿っていく。云わずもがな、異能力者たちの出現、台頭であった。
暗闇を心に持つ者の居場所は、暗闇である。そして異能を持つ者の内、其のような日陰者の住処となったのは、かつてそういった後ろ暗い人間たちが住み着いた場所であった。何時の時代も、一定の人種を吸いつける魔力と云うものが、其の土地々々には宿っているのだ。
高度経済成長期が終わり日本の暗部として恐れられた西成は、二千二十年代に入る頃には生活保護受給者や年金受給者ばかりの老人街と化して居たが、時は経ち、二千四十年現在。再び西成は犯罪者や屑 の蔓延 る危険な街へと回帰して居た。そして此の阪神尼ケ崎界隈もまた、かつての鋭さと危うさを取り戻すかのように後ろ暗い者達の巣窟と化してゆき、治安は悪化の一途を辿って行った。其れが現在の阪神尼ケ崎界隈の姿であった。
眼前で繰り広げられているこう云った光景も、此処では日常の一コマでなのであり、詰まりは佐吉が幼少期から過ごした原風景なのである。外道の男に怒鳴られ頭を叩 かれ続ける日雇い労働者風情の老人の直ぐ隣には、公衆便所の外壁に立小便をする別の男の姿があった。
「… ……。… …………あれ?…… … …… …もしかしたら、佐吉ちゃうん」
佐吉の右側から唐突に聞こえた子供の声。煙草に火を付けたばかりの佐吉が、ゆっくりと其方の方に顔を向けると、果たして其処には小学生程の男の子が三人、興味深げに此方を眺めていた。
三人の内、小太りで生意気そうな少年が楽しそうに声を上げる。
「やっぱり佐吉や。お前、何してンねん!尼ヶ崎 に帰ってきたンか?」
其の少年のテンションとは対照的に、佐吉はあからさまに面倒そうな表情をした。
「…… …勇樹 か。今、お前等相手にしとる暇無いんや。云 ね。」
そう云うと佐吉は一瞥の後、直ぐに視線を他所へと向けて煙草に口をつける。パーカーフードを深く被っている所為で、少年たちから表情が隠れた。
此の三人は佐吉の地元に住む子供達だった。近所の子供と云うコトで、佐吉が高校生の頃から互いに見知る関係だったのである。だが、此の街特有の荒い気質は彼等にも幼少期から遺伝しており、若さゆえの向う見ずさも相まって生意気なコト此の上無い。今、佐吉は彼等を相手にする気分では無かった。
「…… …… … ……へへへ。佐吉、オマエ、巽商会で、やらかしたンやろ?…… ………知ってるんやで。騒音男 と一緒に仕事しくじったゆうて。そやから、尻尾巻いて尼ヶ崎に逃げ帰って来たんやろ?」
勇樹と呼ばれた子供が意地が悪そうな口調で佐吉を挑発する。其れは日常の、他愛の無い子供の戯言のハズであった。だが、其の言葉に佐吉の身体がびくりと反応する。
「…… …アァ?」
俯きがちなフードの中から鋭い眼光が勇樹を睨みつけた。其の尋常では無い眼光に勇樹の両隣に立っていた仲間二人が気づき、眼玉を大きく見開いて狼狽の表情を見せる。其れから、勇樹の腕を掴んで語りかけた。
「…………お、おい。勇樹。… ……ちょっとやめとけや… …」
「… ……おい。やめとけて。」
だが、気乗りしたのか勇樹は仲間が止めるのも聞かず、えらそうに腕を組んで佐吉への挑発を続けた。
「…… … ……情けない奴っちゃなァ、ホンマ。やっぱり、ちょっと異能があるからって、其れに頼ってばっかりはアカンねやなァ。異能力者が二人居 っても、頭が悪かったら不可 ンねやで。… …… …お前も騒音男 も、もうチョット、頭使って仕事した方が良かったンとちゃうかァ?」
「…… ………。… … …… …… …おい、勇樹。」
「……。… …なんや?」
「…… … …ワレ、其の話、誰から聞いた。」
其の佐吉の言葉の迫力に、勇樹が少しく動揺する。が、子供なりの虚勢によって平静を装 い話を続けた。
「…… … …だ、誰って…… …… ………そりゃ、お兄ちゃん…… ……!…… …」
話し終わらない内に勇樹の胸倉が無造作に掴まれ、力任せに引き上げられた。勇樹の身体が持ち上がり、両足が宙に浮く。
「……… …… …… …ワレの兄貴は… …… …… …渡 は何処や。」
「く、苦しい… …… …… … ……」
「渡は何処や。」
「…… … …く、苦しい… ……やめて… ……」
「…… …おい、ワレは
勇樹の眼の前の佐吉が地獄の底のような表情でドスを利かせて云った。其の言葉で勇樹の眼が大きく見開かれる。
「…… …… …わ、分かった。ゆ、云う、云うから、殺さんとって… ……」
「何処や」
「…… …い、今はバイト中や… …… ……」
「…… ……… ……… …」
「…… …… …… …さ、三和 の商店街のパチンコ屋…… …」
勇樹が答えた途端、胸倉を掴む手が離れた。唐突な瞬間に勇樹は受け身が取れず其の儘地面にどしゃりと倒れ込む。背中を地面にしこたま打ち、全身に痛みが走った。
「…… … ………痛 ッたァ…… …… …イッ!… ……」
次の瞬間、勇樹の頭上から髪の毛が無造作に捕まれ引き上げられた。
「…… …… …そない遠 ないやないか。…… … …案内してもらおか。」
「……… …!… …… …… ……お、お兄ちゃんをしばくンか?」
勇樹が慌てて声を上げた。だが、佐吉は先ほどからの険しい表情で勇樹を睨みつけている。
「… ……… …… ……」
「…… …… ……あ、あかん。お兄ちゃんに手ェ出したら、あかん」
「…… ……… …誰やろうとな… …… … …灰谷正貴 を侮辱する奴は許さへん」
佐吉の眼がおもむろに中央公園の街灯へと向く。其処には、公園再開発の際に設置された洒落た丸い琥珀 色の街灯があった。
「…… … ……!… ……あ… ………」
驚いた勇樹が思わず声を上げたのを他所に、佐吉の全身がみるみる内に変貌を遂げてゆく。勇樹の頭髪を掴んだ腕、足首、顔面、あらゆる箇所で体毛が波打つように生えて行き、鼻と口が形状を変え飛び出して行った。瞬く間に勇樹の眼前で、正 しく西洋伝承に登場するかのような狼男が姿を現した。
時刻は十五時を少し過ぎる。
「…… …はぁ。
巽事務所での尋問と逃亡の際のテツとの攻防で受けた生傷がまだしくしくと痛むが、其れでも昨日に比べれば一晩ぐっすり眠ったおかげで耐えうる程には十分回復して居た。
「… …… …………」
尼ヶ崎は佐吉の地元である。然し、此処一年程は立ち寄るコトも無かった。理由は此れ迄に語られた通り、大阪で
「っだあラァ!誰に向かって物云うとんじゃ、ワレ!」
何処からとも無く聞こえてくる怒号。佐吉はぼうっと通行人を追っていた視線を声の方向に向ける。其処には或る一定の人種の琴線に触れるのであろう、極彩色の青で染めたスーツに身を包み、腕に分厚い金時計を巻きつけた男が、今にも死にそうな日雇い労働者風情の老人に向かって殴りかからんばかりに怒鳴りつけている所であった。
「…… …。……… …
佐吉がリラックスしたようにぽつりと呟く。恐らく、男の方は貧困ビジネスで生活保護受給者のような人間を食い物にしている外道だろう。奴等は揃いも揃って同じ様な身形をしている。そして其の様な連中に食い物にされているあの老人も、此れ迄の人生において怠惰で粗暴な生活を繰り返してきたのだろうと推察される。落伍者と云う点では、此処に住む者は誰も違いは無いと佐吉は思う。
多くの場合に於いて、此の場所に住む連中に六な者は居なかった。皆、例外無く精神的にも肉体的にも飢えていた。飢えていたがゆえ、貪欲であり且つ強欲であった。
関西には北から順に阪急電鉄、JR、阪神電鉄と三つの路線が平行して走っている。北に行く程に民度と治安、収入が改善していき、逆に南へ行くに従って全ての面で悪化してゆく。関西は人口流入の歴史的事情により、遥か昔から路線に見られるような地域の構図が出来上がって居た。だが二千年代に入り行政も漸く本腰を入れ始め、尼ヶ崎市の治安改善も図られた。其の唯一の成功例がJR尼ヶ崎近郊の高層マンション群であり、昭和の閑散としていた立地からすっかり其の様相を変え現在に至っている。
同様に此処、阪神尼ケ崎近郊にも一時期テコ入れが入り、再開発に多額の資金が投入された経緯があった。此の尼ケ崎中央公園も他の例に漏れず、再開発が行われ綺麗に整備されたコトもあったが、二千十年代頃から突如として全国で同時多発的に発生した或る
暗闇を心に持つ者の居場所は、暗闇である。そして異能を持つ者の内、其のような日陰者の住処となったのは、かつてそういった後ろ暗い人間たちが住み着いた場所であった。何時の時代も、一定の人種を吸いつける魔力と云うものが、其の土地々々には宿っているのだ。
高度経済成長期が終わり日本の暗部として恐れられた西成は、二千二十年代に入る頃には生活保護受給者や年金受給者ばかりの老人街と化して居たが、時は経ち、二千四十年現在。再び西成は犯罪者や
眼前で繰り広げられているこう云った光景も、此処では日常の一コマでなのであり、詰まりは佐吉が幼少期から過ごした原風景なのである。外道の男に怒鳴られ頭を
「… ……。… …………あれ?…… … …… …もしかしたら、佐吉ちゃうん」
佐吉の右側から唐突に聞こえた子供の声。煙草に火を付けたばかりの佐吉が、ゆっくりと其方の方に顔を向けると、果たして其処には小学生程の男の子が三人、興味深げに此方を眺めていた。
三人の内、小太りで生意気そうな少年が楽しそうに声を上げる。
「やっぱり佐吉や。お前、何してンねん!
其の少年のテンションとは対照的に、佐吉はあからさまに面倒そうな表情をした。
「…… …
そう云うと佐吉は一瞥の後、直ぐに視線を他所へと向けて煙草に口をつける。パーカーフードを深く被っている所為で、少年たちから表情が隠れた。
此の三人は佐吉の地元に住む子供達だった。近所の子供と云うコトで、佐吉が高校生の頃から互いに見知る関係だったのである。だが、此の街特有の荒い気質は彼等にも幼少期から遺伝しており、若さゆえの向う見ずさも相まって生意気なコト此の上無い。今、佐吉は彼等を相手にする気分では無かった。
「…… …… … ……へへへ。佐吉、オマエ、巽商会で、やらかしたンやろ?…… ………知ってるんやで。
勇樹と呼ばれた子供が意地が悪そうな口調で佐吉を挑発する。其れは日常の、他愛の無い子供の戯言のハズであった。だが、其の言葉に佐吉の身体がびくりと反応する。
「…… …アァ?」
俯きがちなフードの中から鋭い眼光が勇樹を睨みつけた。其の尋常では無い眼光に勇樹の両隣に立っていた仲間二人が気づき、眼玉を大きく見開いて狼狽の表情を見せる。其れから、勇樹の腕を掴んで語りかけた。
「…………お、おい。勇樹。… ……ちょっとやめとけや… …」
「… ……おい。やめとけて。」
だが、気乗りしたのか勇樹は仲間が止めるのも聞かず、えらそうに腕を組んで佐吉への挑発を続けた。
「…… … ……情けない奴っちゃなァ、ホンマ。やっぱり、ちょっと異能があるからって、其れに頼ってばっかりはアカンねやなァ。異能力者が二人
「…… ………。… … …… …… …おい、勇樹。」
「……。… …なんや?」
「…… … …ワレ、其の話、誰から聞いた。」
其の佐吉の言葉の迫力に、勇樹が少しく動揺する。が、子供なりの虚勢によって平静を
「…… … …だ、誰って…… …… ………そりゃ、お兄ちゃん…… ……!…… …」
話し終わらない内に勇樹の胸倉が無造作に掴まれ、力任せに引き上げられた。勇樹の身体が持ち上がり、両足が宙に浮く。
「……… …… …… …ワレの兄貴は… …… …… …
「く、苦しい… …… …… … ……」
「渡は何処や。」
「…… … …く、苦しい… ……やめて… ……」
「…… …おい、ワレは
つんぼ
か。… …… …さっさと答えンと、殺すぞ」勇樹の眼の前の佐吉が地獄の底のような表情でドスを利かせて云った。其の言葉で勇樹の眼が大きく見開かれる。
「…… …… …わ、分かった。ゆ、云う、云うから、殺さんとって… ……」
「何処や」
「…… …い、今はバイト中や… …… ……」
「…… ……… ……… …」
「…… …… …… …さ、
勇樹が答えた途端、胸倉を掴む手が離れた。唐突な瞬間に勇樹は受け身が取れず其の儘地面にどしゃりと倒れ込む。背中を地面にしこたま打ち、全身に痛みが走った。
「…… … ………
次の瞬間、勇樹の頭上から髪の毛が無造作に捕まれ引き上げられた。
「…… …… …そない
「……… …!… …… …… ……お、お兄ちゃんをしばくンか?」
勇樹が慌てて声を上げた。だが、佐吉は先ほどからの険しい表情で勇樹を睨みつけている。
「… ……… …… ……」
「…… …… ……あ、あかん。お兄ちゃんに手ェ出したら、あかん」
「…… ……… …誰やろうとな… …… … …
佐吉の眼がおもむろに中央公園の街灯へと向く。其処には、公園再開発の際に設置された洒落た丸い
「…… … ……!… ……あ… ………」
驚いた勇樹が思わず声を上げたのを他所に、佐吉の全身がみるみる内に変貌を遂げてゆく。勇樹の頭髪を掴んだ腕、足首、顔面、あらゆる箇所で体毛が波打つように生えて行き、鼻と口が形状を変え飛び出して行った。瞬く間に勇樹の眼前で、