第7話 エスケイプ#1
文字数 4,712文字
ドカッと大きな音がしたものだから、飲みかけのビールを空にしたテツが社長席の方に眼を向けると、巽 が中空を眺めながら片足を机の上に投げ出していた。グラスには並々とウヰスキーが注がれている。
巽の姿を見ながらテツは酔った頭で思う。社長は何かと佐吉 の事を気に掛けていたのだ。
あの相馬佐吉 と云うガキは、他人を一切信用していない。其れは初めて巽商会が佐吉と仕事をした時から態度に現れていた。常に浮かんでいる懐疑的な奴の眼。誰とも関わり合おうとしない其の態度によって、奴は他者への拒絶を明確に表明していたのである。そして勿論、其の態度は社長へも同様であった。だが、其れにも関わらず社長は其の拒絶さえも意に介さなかった。佐吉の其のどうしようもないはねっ返りの性質さえも、社長は威勢の好いガキと笑っていたほどだ。社長はあの若く未熟な世代 というものに、なんらかのシンパシーでも感じているのだろうか。
「… …あいつはアカンで。社長。此の件でよう分かったやろ」
テツは手の中の空缶を潰して小さく呟く。
斯 云うテツも、そうやって巽に拾われた一人だった。荒くれ者だった十代の頃に死にかけたところを巽に拾われたのである。だから、衝動を抑えられない若い佐吉の境遇というものにも一定の理解はできる。ただし、奴は自分のような所謂事案 を引き起こしたのだ。やはり、此の相馬佐吉と云うガキには深入りするべきではなかった。此の男は悪評通りのどうしようもない屑 だ。そして其処まで予期していながら、何も建設的な手立てを講じなかった自身をテツは悔いた。巽商会にとってべらぼうに高い勉強代になったが仕方がない。今回の件はしっかりとオトシマエをつける。そうテツは考えていた。
其の時、テツの耳に扉の閉まる音が聞こえた、ような気がした。
ふと顔を上げ部屋を見渡してみるが、社員も巽も先ほどと何も変わらない。社員は引き続き残務作業に没頭しており、巽は葉巻と酒を交互に煽っている。其の光景を眺めると、今聞こえた音も、自身の空耳のような気がした。
壁掛けの時刻を見ると十九時半を過ぎている。先ほど尋問室を出てまだ十分と経っていなかったが、テツはなんとはなしに、柿崎に声を掛ける。
「おい、柿崎 」
机に思い切り前のめりになって書類と格闘していた柿崎が、面倒臭そうにテツの方を振り向いた。
「… …なんすか、もう」
「ちょっと、隣の部屋。見に行ってくれや」
「は?今、崖ヶ原 が掃除してるんでしょ?」
「せや。やけど、ちょい見に行ってくれ」
「えー。俺、仕事があるんすけど」
「ちょい様子だけ見てこい。はよう」
「もぉー。… …酒飲んでンねやったら、自分で見に行ったらええのに…」
ぶつくさと文句を云いながらも、柿崎は椅子を引いて立ち上がった。襟足の長い髪の毛に指を突っ込みボリボリと頭を掻きながら扉を出て行く。其の後ろ姿を目の端で見ながら、テツは新しく開けたビールを飲んだ。
其れから直ぐ人が倒れた音がしっかりと聞こえたのは、幸いというべきか、柿崎が部屋の扉を閉めなかった偶然からだった。部屋の中に居た人間は漏れなく其の音を聞いた。全員が野生動物のように首を少し伸ばして警戒する。
「なんや」
声を最初に上げたのは巽だった。
「磔三 か柿崎がやられたかもしれん」
直ぐ様テツが答える。テーブルに捨ておいた拳銃 を拾い上げ、銃口を下に向け立ち上がった。残りの二人の社員其々も、テツと同様に銃を装備した。
「俺、先見に行きます。」
「おい、ちょっと待て」
社員の一人が威勢良く云い、テツの声も聞かず部屋を抜け出て行った。其の突如に、どさりと倒れる音。確実に交戦状態にあるとテツと巽は考えた。佐吉が暴れているのか。其れにしては物音が一つもしない。テツは巽に顔を向けて、小さく頷いた。後ろに下がり社長は待って居てくれという合図だった。其れから残った社員と共に、扉の方へゆっくりと歩いていく。
テツが扉に近づくに従って、開いた扉から徐々に廊下の状況が視界に入ってくる。尋問室に向かう方、右手側の通路が目に入るに従って見えてきたのは人の足だった。通路にうつ伏せに人が倒れている。今しがた出て行った社員だ。警戒しつつ扉から出て、其の社員の顔を確認したテツは愕然とする。口から大量の泡を吹いている。死んではいないようだが、其の身体はびくびくと痙攣を繰り返していた。そして、此の症状は昼間に見たばかり。痺れ毒の症状だ。
「… ……。… …マジか」
テツは少しく呆気にとられた。此れは磔三の仕業なのか。然し一体、なぜ。
呆然とやられた社員に眼をとられているテツを横目に、もう一人の社員が尋問室の方に入った。
「テツさんッ!ガキと新入りが居ませんッ」
其の声でテツが不図我に返り顔を上げた。社員と眼が合う、が、其の瞬間、社員の顔が突然苦痛に歪む。
「ぐッ」
テツは其の社員の姿を見て悟った。どうやら、尋問室に、痺れ毒が蔓延している。
「おい、息を吸うなッ。はよ、こっちに戻れッ!!」
身体 の好い社員が、袖で鼻と口を覆いながら必死でこちらに戻ってくる。
「社長!磔三と佐吉が逃げたッ」
何時の間にか通路近くまで出てきていた巽に、テツが思わず大声を上げる。あまりにも想定外の展開に、テツも冷静さを失っていた。巽が苦虫を嚙み潰したような顔をして怒鳴った。
「今すぐ捕まえるんや。この際、殺 ってもかまへん。必ず両方共、身柄 捕まえろッ!」
「…… ……くそが。」
テツは直ぐに走り出し、ぶっ叩くようにして玄関を開け出て行った。続いて、身体 の好い社員も後を続く。此の社員は多少毒を吸ったものの、少しく耐性があったようでなんとか動くことができたのだった。
巽は二人を見送った後、大分と遅れるようにゆっくりと玄関を出た。
巽商会は三階建ての雑居ビルにあり、二階フロアを全部(全部と云っても既述の通り二部屋のみ)を借りていた。二階の玄関を出ると共用部の通路があり、左右に其々、上階下階への階段がある。巽は下階への階段を使い外に出た。外界は既に太陽は落ち、街灯がちらちらと光っている。空を見上げれば満月が浮かんでいた。
テツは一階には向かわず、上階に向かっていた。三階を素通りして更に階段を上る。扉を開けると、広くはないが通りを見渡せる程度の屋上に出た。身を乗り出して通りを直ぐに確認する。
振り向いた南方、遥か向こうを通りを曲がった二つの影がちらついた。辺りは既に暗がりだったが、コンビニの光に照らされた一角だった。テツは其の影を捉えて奴等だと認識した。直ぐに携帯を取り出し、社員に情報共有する。
「奴等、西成の方に向かいよる」
携帯を無造作にズボンのポケットに突っ込むと、テツは屋上の柵を飛び越え、三階の高さから地面へ飛んだ。スーツの服が風に靡 いた。テツの身体が重力に引き付けられ弾丸のように地面に落ち、テツは両足で踏ん張るように着地した。重い、鉛のようなずしんと云う音が辺りに響く。
其れからテツは何事も無かったかのように南方へ走りだした。テツが着地した道路には、衝撃によってテツの足跡がくっきりとアスファルトの上に残っていた。
「ハァッ、ハァッ… … ……」
二人分の荒い呼吸が交差している。
磔三と佐吉の鼓動は、恐ろしいほどに早鐘を打っていた。勿論、其れは全力で走った所為でもあるのだが、其れよりも何よりも、彼らの脳内は最早パニックにも近いような状況で脳内の酸素供給量が追い付いていない為だった。捕まったら終わりだ。直ぐ背後に死が迫っている其の絶望が、二人の精神を尋常ではないほどに蝕んでいた。
「本当に此方で良いんですね… …」
「アァ。大丈夫や。… ……此の道を真っすぐ行って西成に入ってもうたら、奴等も派手に深入りはできひん。あすこは有象無象の巣窟や。細かい縄張りが阿呆ほどあるから、勝手に暴れたらそれこそ大やけどしてまう」
「… ……良し。早く潜りこんでしまいましょう」
「アァ。俺も、此れ以上しんどいのは、まっぴらやで。… …イテテ… …。… …後、もうちょいや。此の路地道を抜けて、信号越えたらもう西成や」
立ち話をする為、立ち止まったのは、物の一分ほどだったのだが。
「見ィ、つけたッ」
頭上から何者かの声。瞬間的に佐吉と磔三が上を向いた所で眼に入ったのは、飛び掛かるように急襲する敵の姿だった。手に持った鉄パイプで真っすぐ佐吉に狙いを定めている。其れは身体 の好い社員だった。テツよりも先に追いついたのだ。
「うっ… …」
佐吉は咄嗟に胸元に手を当てる。が、肝心のペンダントは昼間、鉄板焼き屋での巽との悶着で破壊せられていた。此れでは変身ができない。だが、そう感じた佐吉の視界に入った上空。暗闇にぽっかりと黄色い其れは浮かんでいた。今宵は満月であった。
「… ……ウガァアッッ!!」
佐吉の網膜に今まさにハッキリと月が認識され、全身が一斉に総毛立つ。佐吉の白い肌を波打つように獣の体毛が覆って行き、顔面は飛び出すように形状を変化させていった。口元から凶悪な牙が涎と共に暴れ始める。
身体 の好い社員が両手に持った鉄パイプを力の限り振り下ろした。其の全体重の乗った衝撃を、狼男は両腕を交差させて全力で受け止めた。金属が生身とぶつかった際の、籠ったような何とも云えない音が辺りに響いた。
「ハァッ… ……。ワレ、何勝手に逃げとンじゃいッ!!」
図体に違わない馬鹿力。全体重を乗せた勢いもあって、其の衝撃で佐吉の片膝が地についた。
其れから社員は、磔三の方を振り向いて言葉を続ける。
「オイ、新入り。ワレもこんな舐めた真似、ようしてくれたなァ。お前も生かして返すワケにはいかんぞ。」
額に血管を浮き上がらせ、口角を痙攣させながら社員が威嚇 を効かせる。磔三は其の姿を正面に捉えながら、心底漁っていた。こんな奴に構っている時間はない。もたもたしていれば、巽とテツが追い付いてしまう。
「おうら、よッッ!!」
社員は鉄パイプで押さえつけながら、渾身の力で佐吉の腹部に左拳を突き刺した。零距離の死角だった為、佐吉はもろに其れを食らってしまう。
「…… …ガッ… …ハッ」
狼の口から、血液の混じった反吐が飛び散った。事務所での拷問によるダメージは、依然、佐吉の身体を蝕んでいるのだった。社員は身体がデカいとは云え、巽には到底及ばなかった。其れは単純な馬力 に於 いても同様だったが、傷を負っている今の佐吉には、十分に致命傷を与えうる。
社員が更に鉄パイプに力を込めると、佐吉が堪らずもう片方の膝もついた。いよいよ自由が利かなくなりそうだった。
「佐吉さんッ!」
佐吉は潰れそうになる身体で、目線だけを向ける。其処には右手に拳銃のようなものを持った磔三の姿があった。
「… …昼間のようになりたくなければ、
磔三はそう云うと、おもむろに自身の左肩に
バシュッと云う音がして、次の瞬間、社員に向かって銃もどきを半身 に構えた。
「足元に気を付けて緊急避難」
磔三がもう一度引き金を弾くと同時に、小さなカプセルのような物が銃口から飛び出してくるのが見えた。獣人の反射神経が、辛うじて弾丸の形状を認識したのだった。
佐吉は死に物狂いで鉄パイプの圧力から身体を逃れさせた。一目散に磔三の元へ四足で走る。走りながら首を後方へ向けた。
社員の眼前で、其の奇妙な弾丸は炸裂 した。紫がかった赤色の霧が、爆発するかのように毒々しく花弁を開いた。
巽の姿を見ながらテツは酔った頭で思う。社長は何かと
あの
「… …あいつはアカンで。社長。此の件でよう分かったやろ」
テツは手の中の空缶を潰して小さく呟く。
若気の至り
とも違い、もっと根深い何かを其の内面に孕んでいるのだとテツは感じていた。其の危険な予感が、今回の其の時、テツの耳に扉の閉まる音が聞こえた、ような気がした。
ふと顔を上げ部屋を見渡してみるが、社員も巽も先ほどと何も変わらない。社員は引き続き残務作業に没頭しており、巽は葉巻と酒を交互に煽っている。其の光景を眺めると、今聞こえた音も、自身の空耳のような気がした。
壁掛けの時刻を見ると十九時半を過ぎている。先ほど尋問室を出てまだ十分と経っていなかったが、テツはなんとはなしに、柿崎に声を掛ける。
「おい、
机に思い切り前のめりになって書類と格闘していた柿崎が、面倒臭そうにテツの方を振り向いた。
「… …なんすか、もう」
「ちょっと、隣の部屋。見に行ってくれや」
「は?今、
「せや。やけど、ちょい見に行ってくれ」
「えー。俺、仕事があるんすけど」
「ちょい様子だけ見てこい。はよう」
「もぉー。… …酒飲んでンねやったら、自分で見に行ったらええのに…」
ぶつくさと文句を云いながらも、柿崎は椅子を引いて立ち上がった。襟足の長い髪の毛に指を突っ込みボリボリと頭を掻きながら扉を出て行く。其の後ろ姿を目の端で見ながら、テツは新しく開けたビールを飲んだ。
其れから直ぐ人が倒れた音がしっかりと聞こえたのは、幸いというべきか、柿崎が部屋の扉を閉めなかった偶然からだった。部屋の中に居た人間は漏れなく其の音を聞いた。全員が野生動物のように首を少し伸ばして警戒する。
「なんや」
声を最初に上げたのは巽だった。
「
直ぐ様テツが答える。テーブルに捨ておいた
「俺、先見に行きます。」
「おい、ちょっと待て」
社員の一人が威勢良く云い、テツの声も聞かず部屋を抜け出て行った。其の突如に、どさりと倒れる音。確実に交戦状態にあるとテツと巽は考えた。佐吉が暴れているのか。其れにしては物音が一つもしない。テツは巽に顔を向けて、小さく頷いた。後ろに下がり社長は待って居てくれという合図だった。其れから残った社員と共に、扉の方へゆっくりと歩いていく。
テツが扉に近づくに従って、開いた扉から徐々に廊下の状況が視界に入ってくる。尋問室に向かう方、右手側の通路が目に入るに従って見えてきたのは人の足だった。通路にうつ伏せに人が倒れている。今しがた出て行った社員だ。警戒しつつ扉から出て、其の社員の顔を確認したテツは愕然とする。口から大量の泡を吹いている。死んではいないようだが、其の身体はびくびくと痙攣を繰り返していた。そして、此の症状は昼間に見たばかり。痺れ毒の症状だ。
「… ……。… …マジか」
テツは少しく呆気にとられた。此れは磔三の仕業なのか。然し一体、なぜ。
呆然とやられた社員に眼をとられているテツを横目に、もう一人の社員が尋問室の方に入った。
「テツさんッ!ガキと新入りが居ませんッ」
其の声でテツが不図我に返り顔を上げた。社員と眼が合う、が、其の瞬間、社員の顔が突然苦痛に歪む。
「ぐッ」
テツは其の社員の姿を見て悟った。どうやら、尋問室に、痺れ毒が蔓延している。
「おい、息を吸うなッ。はよ、こっちに戻れッ!!」
「社長!磔三と佐吉が逃げたッ」
何時の間にか通路近くまで出てきていた巽に、テツが思わず大声を上げる。あまりにも想定外の展開に、テツも冷静さを失っていた。巽が苦虫を嚙み潰したような顔をして怒鳴った。
「今すぐ捕まえるんや。この際、
「…… ……くそが。」
テツは直ぐに走り出し、ぶっ叩くようにして玄関を開け出て行った。続いて、
巽は二人を見送った後、大分と遅れるようにゆっくりと玄関を出た。
巽商会は三階建ての雑居ビルにあり、二階フロアを全部(全部と云っても既述の通り二部屋のみ)を借りていた。二階の玄関を出ると共用部の通路があり、左右に其々、上階下階への階段がある。巽は下階への階段を使い外に出た。外界は既に太陽は落ち、街灯がちらちらと光っている。空を見上げれば満月が浮かんでいた。
テツは一階には向かわず、上階に向かっていた。三階を素通りして更に階段を上る。扉を開けると、広くはないが通りを見渡せる程度の屋上に出た。身を乗り出して通りを直ぐに確認する。
振り向いた南方、遥か向こうを通りを曲がった二つの影がちらついた。辺りは既に暗がりだったが、コンビニの光に照らされた一角だった。テツは其の影を捉えて奴等だと認識した。直ぐに携帯を取り出し、社員に情報共有する。
「奴等、西成の方に向かいよる」
携帯を無造作にズボンのポケットに突っ込むと、テツは屋上の柵を飛び越え、三階の高さから地面へ飛んだ。スーツの服が風に
其れからテツは何事も無かったかのように南方へ走りだした。テツが着地した道路には、衝撃によってテツの足跡がくっきりとアスファルトの上に残っていた。
「ハァッ、ハァッ… … ……」
二人分の荒い呼吸が交差している。
磔三と佐吉の鼓動は、恐ろしいほどに早鐘を打っていた。勿論、其れは全力で走った所為でもあるのだが、其れよりも何よりも、彼らの脳内は最早パニックにも近いような状況で脳内の酸素供給量が追い付いていない為だった。捕まったら終わりだ。直ぐ背後に死が迫っている其の絶望が、二人の精神を尋常ではないほどに蝕んでいた。
「本当に此方で良いんですね… …」
「アァ。大丈夫や。… ……此の道を真っすぐ行って西成に入ってもうたら、奴等も派手に深入りはできひん。あすこは有象無象の巣窟や。細かい縄張りが阿呆ほどあるから、勝手に暴れたらそれこそ大やけどしてまう」
「… ……良し。早く潜りこんでしまいましょう」
「アァ。俺も、此れ以上しんどいのは、まっぴらやで。… …イテテ… …。… …後、もうちょいや。此の路地道を抜けて、信号越えたらもう西成や」
立ち話をする為、立ち止まったのは、物の一分ほどだったのだが。
「見ィ、つけたッ」
頭上から何者かの声。瞬間的に佐吉と磔三が上を向いた所で眼に入ったのは、飛び掛かるように急襲する敵の姿だった。手に持った鉄パイプで真っすぐ佐吉に狙いを定めている。其れは
「うっ… …」
佐吉は咄嗟に胸元に手を当てる。が、肝心のペンダントは昼間、鉄板焼き屋での巽との悶着で破壊せられていた。此れでは変身ができない。だが、そう感じた佐吉の視界に入った上空。暗闇にぽっかりと黄色い其れは浮かんでいた。今宵は満月であった。
「… ……ウガァアッッ!!」
佐吉の網膜に今まさにハッキリと月が認識され、全身が一斉に総毛立つ。佐吉の白い肌を波打つように獣の体毛が覆って行き、顔面は飛び出すように形状を変化させていった。口元から凶悪な牙が涎と共に暴れ始める。
「ハァッ… ……。ワレ、何勝手に逃げとンじゃいッ!!」
図体に違わない馬鹿力。全体重を乗せた勢いもあって、其の衝撃で佐吉の片膝が地についた。
其れから社員は、磔三の方を振り向いて言葉を続ける。
「オイ、新入り。ワレもこんな舐めた真似、ようしてくれたなァ。お前も生かして返すワケにはいかんぞ。」
額に血管を浮き上がらせ、口角を痙攣させながら社員が
「おうら、よッッ!!」
社員は鉄パイプで押さえつけながら、渾身の力で佐吉の腹部に左拳を突き刺した。零距離の死角だった為、佐吉はもろに其れを食らってしまう。
「…… …ガッ… …ハッ」
狼の口から、血液の混じった反吐が飛び散った。事務所での拷問によるダメージは、依然、佐吉の身体を蝕んでいるのだった。社員は身体がデカいとは云え、巽には到底及ばなかった。其れは単純な
社員が更に鉄パイプに力を込めると、佐吉が堪らずもう片方の膝もついた。いよいよ自由が利かなくなりそうだった。
「佐吉さんッ!」
佐吉は潰れそうになる身体で、目線だけを向ける。其処には右手に拳銃のようなものを持った磔三の姿があった。
「… …昼間のようになりたくなければ、
今から呼吸をするのは控えて下さい
」磔三はそう云うと、おもむろに自身の左肩に
銃もどき
を突き立て、引き金を弾いた。バシュッと云う音がして、次の瞬間、社員に向かって銃もどきを
「足元に気を付けて緊急避難」
磔三がもう一度引き金を弾くと同時に、小さなカプセルのような物が銃口から飛び出してくるのが見えた。獣人の反射神経が、辛うじて弾丸の形状を認識したのだった。
佐吉は死に物狂いで鉄パイプの圧力から身体を逃れさせた。一目散に磔三の元へ四足で走る。走りながら首を後方へ向けた。
社員の眼前で、其の奇妙な弾丸は