第8話 エスケイプ#2
文字数 3,086文字
社員が霧の中で泳ぐように両手をばたつかせる。其れから前のめりに態勢が崩れたかと思うと、苦悶の表情を浮かべながら首に手を回した。
「ぐっ… …ゲエェエ… ……」
社員のばたつかせた両手は、発生した霧を多少は拡散することに成功していた。ふらつき、口から涎を吐き、眼は虚ろになりながらもまだ戦意は失っていないようだった。袖で鼻と口を覆いつつ、ゆっくりと佐吉に向かって近づいてくる。社員の片方の手は、ひそかにスーツの胸元に伸びていた。
『…… ……。マジか。あの毒食らって、まだ動けるンかアイツ』
と、言語化すると佐吉はそのように
本能で感じた
。獣人化した佐吉の頭は本能的な感覚に支配され、論理思考と云うモノから遠ざかってしまうのだ。ともあれ、まともに食らった痺れ毒。まさか獣人をも中毒にさせる毒に抗う
其の時、佐吉の隣を軽やかな風が通り抜けた。
「ぼっーっとしない」
佐吉の視線の端から、突如として長身でスーツの男が飛び込んできた。アスファルトに着地した
「少し、寝ていてください」
社員の首筋に拳銃もどきの銃口をぴたりと合わせ、引き金を弾く。バシュっと空気音が響いた。
次の瞬間、社員が白目を向いて糸の切れた人形のように倒れる。社員の巨体が地面にぶつかった衝撃で、スーツの胸元から拳銃が飛び出した。
「… ……… …」
社員が再起不能となったのを契機に、佐吉の身体から大量の毛が抜け落ち、顔が人間の形に戻っていった。
「… ……けったいな
佐吉は肩眉を上げながら、
「特別製です。私の異能に合わせて知人に作って頂きました。」
「ふーん。… …其れがお前の武器ってワケか。」
そう返しながら、佐吉が倒れている社員の元に歩いていく。社員の近くに立っていた磔三は、其の佐吉の様子をなんとはなしに眺めていた。
「…… ……」
佐吉は尚も無言で、倒れている社員の傍らに立った。視線は社員の近くに落ちている拳銃であり、其れをおもむろに拾い上げる。其れから社員の頭に照準を合わせ、
「死ね」
ガンッと云う鋼鉄の音が響いた。佐吉は目を見開いていた。
社員の頭数センチ横の地面から、ゆっくりと薄い煙が立ち上っていた。銃弾は僅かに逸れていた。拳銃を構えた佐吉の右腕が、伸ばした磔三の足先によって寸での所で軌道を変えられた為であった。
「… …なにすんねんッ」
「早まっては
「は?お前、阿呆ちゃうか?こっちは命狙われてンねんぞ。」
「彼らを殺してしまったら、取返しがつかなくなります」
磔三の予想外の言葉に、佐吉は思わず口角を上げ皮肉な声を上げる。
「はぁ?お前、頭湧いてンちゃうか?俺等、今死に物狂いで逃げてるんやろが。一人でも敵を始末せなあかんやろが」
「此の社員は、私の毒を直に注入したので後二三日は動けないでしょう。事務所で毒霧を食らった彼らも同様です。ただし、死ぬことはありません。そして、私たちが今、
「… ……」
「つまり今後、大阪で活動を始めるにあたって、巽商会と死者が出るほどの因果を残してしまうのは、私たちにとっても此の上ないマイナスとなります。巽商会と其処までの対立関係を作り出してしまうのは、まったくもって無意味です。」
「ああ?!… …そんな未来の事考えてても、死んでもうたら、元も子もないやろが」
佐吉が磔三の顔を正面に見据えて睨みつける。眉間には深い皺が刻まれている。磔三の方も此処は引くことができないのだろうか。佐吉から少しも目を逸らす事無く、凝っと見ているのだった。
「… ……。…… …… ………」
佐吉は磔三を睨みつけたまま右手に持った拳銃を持ち上げ、磔三へ銃口を向けた。
「… ……… ………」
「………… ……」
磔三は銃口を突き付けられてもまったく動じる事なく、佐吉へ涼し気な目線を送っていた。
「… …… …… …。… …ケッ。此の男、
佐吉が苦々し気に言葉を吐き捨てた後、おもむろに拳銃をもった右手を振り上げた。拳銃の銃口が後方を向いていた。
「… ……… …」
其の儘、佐吉が引き金を弾くと、撃鉄が弾丸をこれでもかと叩いた。発射された弾丸が空気を燃焼させながら、一散に飛んでいった。
スーツの腕を眼の前に上げると、腕に当たって弾丸が弾け飛んだ。ビルの外壁に跳弾し、弾丸は夜の闇に行方不明となった。腕を下げた後ろから現れたのは、
佐吉が振り向いてテツが走ってくるところを正面に据えながら、再び拳銃を構えた。
「佐吉さんッッ。
佐吉の後方から磔三が叫んだ。だが、佐吉は其れをまったくもって無視した。
佐吉は丁寧に照準をテツに合わせて、数発、銃弾を発射した。だが、テツは銃弾等まるで意に介さないかのように、一直線に此方に走ってくる。頭を庇うように構えられた両腕に、弾丸が幾度も当たっているように見えた。
「… … …あれは…」
テツの姿を見ながら、磔三は独り言ちるように声を上げた。銃撃を続けながら、佐吉が其の声に答える。
「なんや、テツの異能知らんかったンかい。マッタク、そんなんでよう事務所から脱走しよなんてゆうたモンやな。イヤ、そんな阿呆やから、逃げるなんて無謀なコトが云えたんか」
「テツさんも、異能持ちなんですか」
佐吉の額から汗が一筋、顔を通り抜けていった。佐吉の口角は上がっていたが、眼はまったく笑っていなかった。
「あのナマクラ従業員が、巽商会の看板や。通称、巽商会の
「… …。… …其れで、あだ名が
「せや。安直過ぎて渇いた笑いしか起こらんやろ。…今は、あんなすっとぼけた野郎やけどな。元々は『西成の
「… …… …」
「巽商会で一番ヤバいのがコイツや。そいつが、今まさに俺等に追いついたの。つまりや。今が、最高潮にヤバいってコト。さて、磔三サン。此処から、どうするよ」
一人で
「クソがぼけぇ!」
佐吉は走ってくるテツに向かって、持っていた拳銃を思い切り投げ捨てた。テツが
「げっ。マジかッ」
逃げ腰になるような態勢で、佐吉が声を上げる。
「… …んな
テツの顔面には、異能化の所為か、幾筋もひび割れたような線が皮膚に刻み込まれていた。テツが両拳に命一杯力を込めると、身体中からバキンと硬質な音が其処彼処から聞こえ始めた。