第三部 新たなる始まり 七、

文字数 3,301文字

 ルーミナイの舞台を三度観て、店が跳ねるまで過ごした。店を出る頃は真夜中を回っていた。呼び寄せたタクシーに乗ろうとすると、何処からか若い女性の悲鳴が聞こえた。迷いなくシーサは、声のする方向に駆けだした。夜の街の底へ生者の魂を引き摺り込む重苦しい響きにジィーノは、思わず眉を顰めた。あのまま立ち去りたい衝動に駆られながらも星空を仰ぎ見ながら深く溜息を零した。既に月は西に大きく傾き、並木の梢に隠れようとしていた。

 ジィーノは、細い路地を抜けて建物の裏通りに回った。店の裏口では、青い外套に身を包んだルーミナイが身を震わせていた。高級乗用車の横で大柄な男が、若者を路上にねじ伏せ取り押さえているのが目に入った。シーサは、争う二人の傍らで片膝をついていた。
 「いけないわ……。」
 ルーミナイは、胸の前で両手を合わせ泣きながら訴えていた。屈強な男に体を押さえつけられながら、尚も抵抗を諦めない若者はブロンだった。獣のような呻き声を上げ暴れる姿にジィーノは呆然となった。シーサが夜会服を乱し汚れるのもかまわずブロンに縋りついて宥める姿は痛々しく切なかった。取り押さえられるブロンよりもジィーノは、苛立っているのに気付き唇を噛んだ。もしも、シーサが居なければ、彼女の献身な姿を見なければ若者よりも狂気と化して暴れていただろう。ジィーノは思った。覚悟を決めて感情の命ずるままに行動する姿を前にするなら、理性で立ち塞がる理由すら明らかにできないだろう、と。
 やがてブロンは大人しくなった。横たわる若者が、暗い闇の陰と同化し地面の一部のように固まっていた。怯えるルーミナイは、泣き続けるばかりだった。シーサが身を屈めてブロンをあやすのを傍観しながら状況を説明せざるを得ない立場に唾棄する思いだった。ジィーノは現状を受け入れ容認できると、少しずつ冷静さを取り戻していた。
 ルーミナイの身辺を警護する男は、主のドナへ連絡を入れた。交渉は呆気ない程に纏まった。ジィーノが責任をもって事件の当事者であるブロンを翌日にドナの館まで連れてくるならばと、云う条件だった。承諾せざるを得ない立場に嘆息した。半ば覚悟を決める己を客観的に眺めながら、このような事でもなければシルビアから話を聞くだけで浜辺を後にしていただろうと考えていた。ドナに再会する廻りあわせを受け入れ、ジィーノは胸の内に言い聞かせた。
 『ドナさんに、再び逢う選択肢もあるのは分かっていたが……、このタイミングか。』 
 警護の男は、震えるルーミナイを車に乗せ走り去った。車が消えてもブロンは横たわったままだった。死んだように微動だもしない姿をジィーノは悄然と眺めた。若者の行動は眉を顰めさせる醜態であったが、身を割く厚い思いは非難できなかった。ジィーノは、自分ならそれ程も必死になれないだろうと、分別を弁える我が身に困惑しながら若者の無鉄砲な潔い姿を認めていたのだ。
 ジィーノは、表通りに戻るとタクシーを裏口に向かわせた。流しのタクシーを捕まえ一人乗り込み店を後にした。車中から静まる深夜の町を茫洋と眺めた。町の暗闇と灯りを目で追いながらジィーノは、ドナとの間を仲介したことがブロンの行動を容認する結果になるだろうと自戒する事なく考えていたのだ。
 『若者の行為を憐れむのは簡単だが、一笑に付すのもできないだろう。』
 ジィーノは胸の内で気持ちを確かめ呟いた。
 「できれば拘りたくなかったが。これでは、そうもいかないか……。」
 シルビアの館の少し手前でタクシーを降りた。裏口に向かう途中、Mの部屋がある東棟の外窓から明かりが零れているのが目に入った。沈む気持ちを落ち着かせながら、物音をさせないように部屋に上がり、暫くは部屋の灯りもつけずに部屋の中で佇んでいた。

 空が白み始める頃、ジィーノは短い眠りから目を覚ました。冷え冷えとする朝だった。居間で一人座っていたシーサは、立ち上がり昨夜の失態を詫びて感謝の気持ちを言葉にした。シーサが泣き出すのではないかと、ジィーノを心配させるほどに思い詰めていた。
 「貴女が非を感じる必要はない。彼は、覚悟しての行動だったと見たよ。」
 ジィーノは穏やかに話した。暖炉の薪を足しながら胸の内で言葉を収めた。
 『若者の潔さに意見は野暮だが、しかしな……。』
 シルビアと早朝の散歩から戻っていたMは、台所で朝食の支度を終えていた。ジィーノが顔をのぞかせると、Mは大袈裟な身振りで朝の挨拶を返した。
 「貴男も、夢見が悪かったようね。」
 Mの声は、変わらずに明るかった。
 「夢の続きを聞かせてくれるのかしら。」
 「夢を見る人が、この館にいると思えないな。眠らない君でないなら……。」
 「シルビアのことでしょう。散歩の間中、機嫌が悪かったもの。」
 Mが、含み笑いながら言った。
 「困る夢を見たそうよ。」
 「夢は、理不尽なものだろう。」
 否定してからジィーノは、それとなく尋ねた。
 「シーサは、辛そうだな。厳しい現実を心配しているのかな。」
 「どうかしら。シーサは、お母さんじゃないでしょう。」
 そう突き放すMは、軽く肩を竦めた。ジィーノが台所から出ようとすると、後ろからMが言葉を付け足した。
 「ドナさんの所まで私が運転していくわね。」
 「そうしてもらえると有難い。今朝の僕なら迷いそうだ。」
 朝食でのブロンは、昨日までと変わらなかった。顔の傷跡は痛々しかったが、若者の緊張感を和らげる効果になっていた。
 「昨夜は、戦があったようね。」
 優しく微笑みながらMは遠慮せずに尋ねた。シーサが顔色を変え言い訳を並べたが、ブロンは平然と食事を続けた。若い人の傷は勲章だと、シルビアが気遣いその場を取り繕うように口を挟んだ。
 「若い人を揶揄うのはよしなさい。お前の悪い癖です。」
 「私は、感動しているのよ。敬意を払っているのだから。」
 Mが言葉を続けた。
 「それで、勝ったのでしょうね。」
 「見ての通りです。残念ですが。」
 シーサは、そう答えて肩を落とした。
 ドナの館までシーサが運転すると譲らなかった。Мは札を持ち出し勝負を持ちかけた。シーサは持ち前の強気で幾度も勝利を呼び寄せようとしたが、その都度Mの運強さに引き戻された。僅かな差で勝利を収めたМは、ジィーノの耳元に唇を寄せ言った。
 「今回は、私の運が強かったかしら。勝とうと願っても勝てないものですか。」
 ブロンを見送るシーサは、不安な表情を隠しきれなかった。それでも姿勢を崩すことのない彼女にジィーノは感心して思ったのだ。大切な人を送り出す日であっても毅然として誇り高いのだろうと。ジィーノは、シーサに声を掛けた。
 「最善を尽くすよ。戻ってから話す。」
 ドナの館に向かう途中、ジィーノはMの話を聞き続けた。昨日ジィーノが約束した早朝の散歩をシルビアが楽しみにしている様子をMは伝えた。
 「シルビアは乙女のように期待に胸を膨らませているよ。態度や言葉に出さないけれどね。」
 そう言ってMは、素早く視線を投げた。
 「純真な乙女を裏切ると、怖いですよ。古今東西の歴史が証明しているでしょう。」
 約束を違えたことに弁解の余地がないと、ジィーノは詫びた。Мは、静かな口調で尋ねた。
 「古人の諺にあったかしら。【明日を思い描くとき、既に昨日を忘却している。明日など何処にある。ましてや、この今など誰が知る。昨日を生きた記憶ない者が、何を解ろうとするのだ。】……良い言葉ね。顰蹙ものだけど。じゃない。」
 ジィーノは、息を凝らした。その意味を理解しようとして言葉が核心をついているのを受け止めた。あの時、Mが何を告げようとしているのが解ったからだろう。
 車の後部席で独り押し黙るブロンのを慮りながらジィーノはMに確かめた。
 「言葉だけの誠意は誤解を招くと、君から注意されたことがあったかな。」
 「私ではないですよ。でも、そうね。そうでもないけど。そうなのかな……。それって、正しい指摘じゃないかしら。」
 Mが、軽く受け流した。
 「シルビアには、花でも贈ってあげてね。小さくて純白なのがいいかしら。数は沢山にですよ。」
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