第三部 新たなる始まり 五、
文字数 3,034文字
昼近くに雨は降り止んだ。Mとシーサが戻り物見遊山の話が纏まり軽食を用意して出掛けることになった。
Mが運転する車は雨上がりの田園を駆け抜け、幾つかの丘陵を越え静かな田舎に辿り着いた。なだらかな丘陵の頂には、古の時代に築かれた巨石の配列が鎮座していた。地元の古老ですら伝説としか謂れを知らない、その場所をジィーノは何度か訪れた想い出があった。見渡す限り一面に葡萄畑が広がり高台に農家が点在する景色は昔のままだった。
「ここで食事をするのですか……。」
そう呟くシルビアを、三人がかりで巨石に押し上げた。雨上がりの大気は水分を含み冷たく冴えていた。
「僕の記憶が正しく、君の言葉に偽りがないなら。ここは、神聖なる場だった。」
ジィーノは、苦笑しながら言った。
「昔、君がこの巨石の上で演じた寸劇を想い出したよ。」
Mに導かれこの頂を初めて訪れたのは、二十歳になったばかりの新月の真夜中だった。季節は移り夏が始まろうとしていたが、肌寒さに身を悴ませたのをジィーノは憶えていた。夜霧に濡れる草の匂いに血生臭さを感じ閉口したからだろう。闇の中で蹲る巨石に引き上げられ当惑を隠しきれなかった。言い表せない索漠とする孤立感に自分を見失うジィーノは、有るべき場所に居ながらも迷いそうになったのだ。もしも、後少しMが言葉を閉ざしていたなら、獣のような雄叫びを上げてMに縋りつきかねない状態だった。断罪者の前に引き出されたとしてもあれほども惨めに戦慄しなかったと、後になってもジィーノはその時に覚えた恐怖に後悔した。Mの鉛白色の夏服が闇の中で朧げに浮かぶ姿に畏怖しながらも、身に迫る危険な気配を感じる仔羊のごとくに脅える己の姿に苛立ったのだ。
あの時、Mは胸の前で両手を合わし、満天の星が煌めく漆黒の天を仰ぎ言の葉を発した。
──私は、どこにいるの。私は、見ているの。私は、生きているの。
巨石の舞台の隅で膝を抱えるジィーノは、問い糺されたのだ。
──貴方は、どこにいるの。貴方は、見ているの。貴方は、生きているの。
十年前の寸劇の情景を想い起こしながジィーノは、視線を雨上がりの薄い青空に向け言った。
「『今は、訪れるべき場所なのでしょうか。』と、語り尋ねた君の最後のセリフを覚えているよ。」
「貴方は、答えなかった。」
Mが明るい笑顔で尋ねた。
「私は、聞こえなかったのかしら……。」
「恐ろしい話は、お終いにしなさい。」
堪りかねたのかシルビアが会話に割り込んだ。
「この子が何を語ったのか知りませんが。慎み深い人は、ここに近付きませんよ。決してね。」
シルビアは、言葉を続けた。
「周りを御覧なさい。この頂の巨石の周辺にだけ葡萄が植わっていないでしょう。土地を耕す誰もが決して植えようとしなかった。昔の人は、畏れを知っていたのです。」
シルビアは嘆息すると、ジィーノに視線を移し語った。
「わたし共は、何時から傲慢になったのでしょうね。わたしが若い頃は、信心深い人も多かったのですよ。」
ジィーノは、シルビアがこの村で生まれ育っているのを想い出し優しく頷いた。自然を尊び敬い畏怖する真摯なシルビアの思いは尊く否定できるものでなかった。古人が日々の営みの中で自然との対峙から受けたであろう意思の深遠さと同じものを、シルビアの生き様から見せられたようにジィーノは思えたのだ。
「今年は、よい葡萄が実るでしょう。」
シルビアが、広大な葡萄畑を一望しながら呟いた。
巨石の上で四人は、軽食を摂り寛いだ。その後ジィーノは、Mから散歩に誘われた。葡萄の木の間を緩やかに下る時、Mは昔のように少し先を歩き時折立ち止まり振り返った。
「やっぱり、変わっていないね。」
Mが独り納得し含み笑った。
「でも、変わろうとしたのは分かるよ。」
「前向きに試みてるが、どうかな。変わらないといけなに気付いているれど、君が見る僕は僕のままかな。」
ジィーノは、否定することもせずに生き方の不器用さを認めた。
「ゲキヘンを期待させたかな。」
「冗談? 素敵な部分は、そのままでね。あの頃から貴男の純粋で真っ直ぐな姿勢を認めていたのだから。」
Mが、そう言って後ろ向きに歩き出し話を続けた。
「眩しかったな。一途で、不器用で、愚かに前へ進もうとあがいていた。でも向き合うというのは、そうではないのよ。」
「そうだろうね。この頃、その意味が解ってきた。」
ジィーノは、同意した。
「でも解っていながら、馬鹿々々しい選択をしている。」
「それで、いいのでしょう。」
Mが心の底を覗き込むように見詰めて話を続けた。
「貴男は貴男であるし、貴男が思っている貴男であるしかないのよ。もっとも……、私が見ている貴男でもあるのだけれど。」
ジィーノは、Mの瞳に映るであろう姿を直視する自らに気が付き憐憫した。独り立つ身は己が考えるより少しばかり影響を及ぼしているのだろうかと、改めて受け入れ胸の内で思った。
『それに気が付きながら、この立場を貫こうとする……。』
「沈思黙考は自らに課す方便でないと、教えられたことがあったね。」
ジィーノは、思い起こし尋ね確かめた。
「あの時、君の言葉は衝撃だったけど反発した。」
「今は、……どうなのかしら。」
Mが再び立ち止まった。
「素敵な男になりなさい。」
Mは両膝をつき片手を胸に置き、もう片方の手を大地に当てた。身を屈めて大地に接吻した。夢の中での寸劇を観るように穏やかな感覚で眺めた。Mが身を屈めた時、背に光が差し込んだような気配に息を呑み、そっと手を伸ばそうとしたのだ。Мは立ち上がると、ジィーノに寄り添い唇を重ねた。
「貴男が想う人は、本当の姿を見せていたのかしら。」
そう言ってからMが、少し離れて寂しく微笑んで見せた。Мは背を向け再び歩み始めた。
「思いを引き摺るのは、見ていて辛いわよ。」
Mは、話を続けた。少し距離を保ちながらジィーノも後に続いた。不意に大地を這うような突風が丘陵を駆け去り、二人の間に言葉が途切れた。
「……現世の身で、冥世の姿には逢えない。」
Mが諭すように話した。
「この約束事を知りながら幾多の人が苦悩してきたでしょうか。それは、滑稽でしょう。」
Mの伝えようとする意味が解るジィーノは、大人しく聴く他に術もなかった。言葉を閉ざし沈黙するのが自らの立場を弁える一つの方法だった。Mが意識して相手の立場に踏み入り言葉にするのを、感謝こそすれ非難できるものではなかったのだ。ジィーノは、己の裡に蟠り残り続けるマルガリータの姿を思い返して唇を嚙んだ。熟知たる思いになった。
「そのような姿を見せられるとね。苛立たしいだけ。」
Mの声が風に乗り微かに震えた。
「ザケンなって、感情的になってしまう。」
Mの長い髪が風に膨らみ音をたてた。
「そこまで引き付ける力って何なの。生身なのに。」
葡萄畑の先の高台の林が通り去った風に騒めいた。
「マルガリータは、私の中でも揺らいでいるの。何がしたくて、何ができたのか。何をしなければならなかったのか。不可解よね。答えがない問いを探しているみたいじゃない。」
Mは、話し終え立ち止まった。足元に視線を落とした後、空を仰ぎ見る横顔が微かに曇っていた。Mの瞳に突き放すかのような憐れみを読み取ったジィーノは、溜息混じりに視線を逸らせた。視線を移す丘陵の頂には、天下る舟を待つ艀のような巨石の並びが空に起立していた。
Mが運転する車は雨上がりの田園を駆け抜け、幾つかの丘陵を越え静かな田舎に辿り着いた。なだらかな丘陵の頂には、古の時代に築かれた巨石の配列が鎮座していた。地元の古老ですら伝説としか謂れを知らない、その場所をジィーノは何度か訪れた想い出があった。見渡す限り一面に葡萄畑が広がり高台に農家が点在する景色は昔のままだった。
「ここで食事をするのですか……。」
そう呟くシルビアを、三人がかりで巨石に押し上げた。雨上がりの大気は水分を含み冷たく冴えていた。
「僕の記憶が正しく、君の言葉に偽りがないなら。ここは、神聖なる場だった。」
ジィーノは、苦笑しながら言った。
「昔、君がこの巨石の上で演じた寸劇を想い出したよ。」
Mに導かれこの頂を初めて訪れたのは、二十歳になったばかりの新月の真夜中だった。季節は移り夏が始まろうとしていたが、肌寒さに身を悴ませたのをジィーノは憶えていた。夜霧に濡れる草の匂いに血生臭さを感じ閉口したからだろう。闇の中で蹲る巨石に引き上げられ当惑を隠しきれなかった。言い表せない索漠とする孤立感に自分を見失うジィーノは、有るべき場所に居ながらも迷いそうになったのだ。もしも、後少しMが言葉を閉ざしていたなら、獣のような雄叫びを上げてMに縋りつきかねない状態だった。断罪者の前に引き出されたとしてもあれほども惨めに戦慄しなかったと、後になってもジィーノはその時に覚えた恐怖に後悔した。Mの鉛白色の夏服が闇の中で朧げに浮かぶ姿に畏怖しながらも、身に迫る危険な気配を感じる仔羊のごとくに脅える己の姿に苛立ったのだ。
あの時、Mは胸の前で両手を合わし、満天の星が煌めく漆黒の天を仰ぎ言の葉を発した。
──私は、どこにいるの。私は、見ているの。私は、生きているの。
巨石の舞台の隅で膝を抱えるジィーノは、問い糺されたのだ。
──貴方は、どこにいるの。貴方は、見ているの。貴方は、生きているの。
十年前の寸劇の情景を想い起こしながジィーノは、視線を雨上がりの薄い青空に向け言った。
「『今は、訪れるべき場所なのでしょうか。』と、語り尋ねた君の最後のセリフを覚えているよ。」
「貴方は、答えなかった。」
Mが明るい笑顔で尋ねた。
「私は、聞こえなかったのかしら……。」
「恐ろしい話は、お終いにしなさい。」
堪りかねたのかシルビアが会話に割り込んだ。
「この子が何を語ったのか知りませんが。慎み深い人は、ここに近付きませんよ。決してね。」
シルビアは、言葉を続けた。
「周りを御覧なさい。この頂の巨石の周辺にだけ葡萄が植わっていないでしょう。土地を耕す誰もが決して植えようとしなかった。昔の人は、畏れを知っていたのです。」
シルビアは嘆息すると、ジィーノに視線を移し語った。
「わたし共は、何時から傲慢になったのでしょうね。わたしが若い頃は、信心深い人も多かったのですよ。」
ジィーノは、シルビアがこの村で生まれ育っているのを想い出し優しく頷いた。自然を尊び敬い畏怖する真摯なシルビアの思いは尊く否定できるものでなかった。古人が日々の営みの中で自然との対峙から受けたであろう意思の深遠さと同じものを、シルビアの生き様から見せられたようにジィーノは思えたのだ。
「今年は、よい葡萄が実るでしょう。」
シルビアが、広大な葡萄畑を一望しながら呟いた。
巨石の上で四人は、軽食を摂り寛いだ。その後ジィーノは、Mから散歩に誘われた。葡萄の木の間を緩やかに下る時、Mは昔のように少し先を歩き時折立ち止まり振り返った。
「やっぱり、変わっていないね。」
Mが独り納得し含み笑った。
「でも、変わろうとしたのは分かるよ。」
「前向きに試みてるが、どうかな。変わらないといけなに気付いているれど、君が見る僕は僕のままかな。」
ジィーノは、否定することもせずに生き方の不器用さを認めた。
「ゲキヘンを期待させたかな。」
「冗談? 素敵な部分は、そのままでね。あの頃から貴男の純粋で真っ直ぐな姿勢を認めていたのだから。」
Mが、そう言って後ろ向きに歩き出し話を続けた。
「眩しかったな。一途で、不器用で、愚かに前へ進もうとあがいていた。でも向き合うというのは、そうではないのよ。」
「そうだろうね。この頃、その意味が解ってきた。」
ジィーノは、同意した。
「でも解っていながら、馬鹿々々しい選択をしている。」
「それで、いいのでしょう。」
Mが心の底を覗き込むように見詰めて話を続けた。
「貴男は貴男であるし、貴男が思っている貴男であるしかないのよ。もっとも……、私が見ている貴男でもあるのだけれど。」
ジィーノは、Mの瞳に映るであろう姿を直視する自らに気が付き憐憫した。独り立つ身は己が考えるより少しばかり影響を及ぼしているのだろうかと、改めて受け入れ胸の内で思った。
『それに気が付きながら、この立場を貫こうとする……。』
「沈思黙考は自らに課す方便でないと、教えられたことがあったね。」
ジィーノは、思い起こし尋ね確かめた。
「あの時、君の言葉は衝撃だったけど反発した。」
「今は、……どうなのかしら。」
Mが再び立ち止まった。
「素敵な男になりなさい。」
Mは両膝をつき片手を胸に置き、もう片方の手を大地に当てた。身を屈めて大地に接吻した。夢の中での寸劇を観るように穏やかな感覚で眺めた。Mが身を屈めた時、背に光が差し込んだような気配に息を呑み、そっと手を伸ばそうとしたのだ。Мは立ち上がると、ジィーノに寄り添い唇を重ねた。
「貴男が想う人は、本当の姿を見せていたのかしら。」
そう言ってからMが、少し離れて寂しく微笑んで見せた。Мは背を向け再び歩み始めた。
「思いを引き摺るのは、見ていて辛いわよ。」
Mは、話を続けた。少し距離を保ちながらジィーノも後に続いた。不意に大地を這うような突風が丘陵を駆け去り、二人の間に言葉が途切れた。
「……現世の身で、冥世の姿には逢えない。」
Mが諭すように話した。
「この約束事を知りながら幾多の人が苦悩してきたでしょうか。それは、滑稽でしょう。」
Mの伝えようとする意味が解るジィーノは、大人しく聴く他に術もなかった。言葉を閉ざし沈黙するのが自らの立場を弁える一つの方法だった。Mが意識して相手の立場に踏み入り言葉にするのを、感謝こそすれ非難できるものではなかったのだ。ジィーノは、己の裡に蟠り残り続けるマルガリータの姿を思い返して唇を嚙んだ。熟知たる思いになった。
「そのような姿を見せられるとね。苛立たしいだけ。」
Mの声が風に乗り微かに震えた。
「ザケンなって、感情的になってしまう。」
Mの長い髪が風に膨らみ音をたてた。
「そこまで引き付ける力って何なの。生身なのに。」
葡萄畑の先の高台の林が通り去った風に騒めいた。
「マルガリータは、私の中でも揺らいでいるの。何がしたくて、何ができたのか。何をしなければならなかったのか。不可解よね。答えがない問いを探しているみたいじゃない。」
Mは、話し終え立ち止まった。足元に視線を落とした後、空を仰ぎ見る横顔が微かに曇っていた。Mの瞳に突き放すかのような憐れみを読み取ったジィーノは、溜息混じりに視線を逸らせた。視線を移す丘陵の頂には、天下る舟を待つ艀のような巨石の並びが空に起立していた。