文字数 2,063文字

 僕は、単車を使って岬の向こうの小さな入り江に通った。地元民だけが知っている浜で午前中を過ごした。少し泳いでから岩陰で寝そべった。転寝する合間に海を眺めると、水平線近くが遠く感じた。昨年の夏に訪れた時と変わらなかった。それで少しは安心できたかといえばそうでもなく、むしろ不安になって愚かにも考え込んでしまったのだ。老人になってもこの気持ちは変わらなくあり続けるのだろうか、と僕は落ち着きなく疑った。
 昼食は、時間を遅らせて岬の麓の食堂に立ち寄った。最初の日、僕を見て店番の女子が椅子から飛び上がった。海から上がった溺死人に会ったような怯えた眼差しだった。
 「……何か、貸していたかな。」
 僕は、相手を試すような冗談を投げた。暇な時間帯だけ手伝いを頼まれるその女子は、実家が漁師の女学生でシータと呼ばれていた。僕が高校生の頃に通学に使った路線バスで何度か見かけたが、無口で陰鬱な女子だった。
 少し後になって、その前年の晩夏に独り泳ぎに出掛けた僕が行方不明になった噂をたてられていたのをシータから教えられ本気で笑ってしまった。
 『だから……、シータは天を仰ぎお祈りを口にしたのか。』
 僕は、胸の中でそう呟き独り納得したのだ。気が利いた振る舞いが出来なかったことで興覚めした。それでも、僕が話題となって提供できたことを考えればそれで十分のように思えた。
 その日、女主人のクシィは、散歩に出ていた。久々に会えるのを僕は、少し楽しみにしていた。店が暇な時間は、窓辺で本を読んで過ごす女性だった。三十歳半ばを過ぎていた。
 高校生になった年の夏、独りで泳ぎに訪れた僕は、突然の夕立から逃れようと店に駆けこんだ。強い雨に煙る窓際で座るクシィは、一人静かに本に目を落としていた。僕は、他に誰も居ないカウンター席から初めての店内を窺った。奥の壁に掛けられた一枚の絵に視線が止まった。窓枠のような額に収まった絵は、夜の海辺を描いていた。その絵は、僕に強い印象を齎した。
 ──……お茶にしましょうか。
 彼女の自然な言葉に僕は救われた思いがした。あのまま絵を見入っていたなら、絵の陰鬱でありながら魅惑的な世界に引き込まれていたように感じるほどの真摯さの情感を秘めていた。
 出逢った日にクシィが入れてくれた花の香りのお茶を後々まで印象深く覚えていた。あの静謐な香りは、クシィそのもののように思えた。
 ──懐かしい香りです……。
 僕の素直な感想にクシィは、片手を胸に軽く置いて頷いてから称賛の言葉を表した。
 ──たぶん……、君は三番目の使徒ね。
 クシィの話し方は、出会った頃から変わらなかった。独自の世界観を持つが故の跳躍した思考の持ち主で、話せば意味ありげな含蓄をひそませて余韻が残る女性だった。
 シータが独りで店番を任されている暇な時間帯は、夏の始まりを待っているかのように静かな穏やかさがあった。シータの料理は、上手だった。だから、泳ぎに誘ったのかもしれない。シータは、驚き戸惑った後、少し間を置いてから頷いた。
 「……でも、お昼からはダメです。」

 三人三様に海辺での日々は過ぎていった。タウは、早朝の市場でのバイトが終わると、屋根裏部屋で過ごした。午前中にパイの御供で食糧の買い出しの荷物運びが日課になっていた。嫌がらずパイに素直に従った。その下僕のようなタウの従順な姿を見ながらイプシは、溜息混じりに告げた。
 「断言させてくれ。お前の妹は、男を勘違いすると。」
 「逆だろう。妹の本性を知らずに尽くせるタウの方が危険だ。」
 僕は、そんな話題に興味がなく見解を返した。
 イプシは、海辺の町を隅々まで歩き巡っていた。町に住む誰よりも知り尽くした人のように彼の話は、深く重くなり広がっていった。夏が過ぎてイプシがこの海辺に住み着くと言い出すの僕らは待っていたのかもしれない。その決意をいつ言葉にするかと、僕らは淡い期待に焦がれていたのだろう。イプシの行動は、明確な理由があり、その姿は僕らを楽しませ認めさせる説得力を持っていた。
 幾日か入江に通った或る日、僕はカイが海辺を訪れている噂を聞きクシィの店から遠ざかった。父の古くからの友人のカイは、父と違って簡潔な思考で行動できる大人だった。思慮深くありながら人生を楽しむ柔軟さが羨ましく思える時期が過ぎて、それを受け入れる前に僕は自分から距離を置いてしまった。
 それでも、泳ぎにだけは出向いた。地元の子供たちが遊ぶ入江は、知り合いに会うこともなく快適だった。
 何度かシータと入江で落ち合った。海水浴よりも僕が暮らす遠い都会での学生生活の話に興味を示した。僕は、自分の話の中に矛盾が構築されていくのを不思議な気持ちで語り続けた。今にして思えば、あの時のシータは、話の中から何かを得ようとしていたわけでもなかったのだろう。僕の言葉は、陽炎のように揺らぎ水平線の向こうに落ちて消えた。
 何度目かの時、岩陰で軽く唇を重ねた。シータの潤んだ瞳が、海に沈む残照のように煌めくのを覚えていた。それ以上は、近付かなかった。
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