第三部 新たなる始まり 四、

文字数 4,273文字

 朝食の後、ブロンの姿が見えなくなった。行き先を知っているのかシーサは心配する様子もなくMと睦まじく語り合っていた。仲が良い姉と再会したように。お互いの底意を探るでもなく打ち解ける二人が穏やかに見えるのは、似た感性を持つからだろう。Мは洞察力で見極め平気で踏み込む小悪魔的な性質を備えながら思い遣る寛容さがあり、シーサも冷静に観察し寄り添える優しさがある世話好きに思えた。素直な対応から生まれ育った環境が推し量れる魅力を持つシーサが、年下の若者に付き添う姿を目にして危惧しながらも迷妄であるのを祈る思いで反芻した。
 『興味だけのシーサなら楽観もできるが、目前の禍に進む姿を見過ごせない性格なら、厄介だな。』
 ジィーノは、独り詮索して神経質に思い巡らせるのに気が付き溜息をついた。
 『まったく……、少しは大人になったつもりが、余計な心配をしてしまう。』

 Mの明るい笑い声にジィーノは 手にする新聞を閉じた。Mとシーサが寄り添い腰掛ける長椅子に視線を移した。ジィーノの怪訝な表情に勘付きMは再び笑った。
 「シーサ、御覧なさいな。彼の迷惑そうな顔を。」
 Mは、楽しそうに指し示し言った。
 「彼と私とは、似た関係だから。」
 ジィーノをMの伴侶と見ていたシーサが、恐縮して詫びた。
 「気にしないでね。二人は、高次元の思弁で絆っている精神的なパートナー、って言ってもいいかもね。」
 そのように説明してからMは、ジィーノから意見を求めた。
 「とても素敵な関係よね。貴男と私とは。」
 「何とも答えがたいな。」
 ジィーノは、軽く肩を竦め言った。
 「君とは見える世界が違う。今でも歩み寄ってもらうのは悔しいよ。」
 「このような男なのよ。シーサ、よく知っておきなさいな。」
 Mは、そう言ってからシーサの耳元で何事か囁き二人で含み笑い見詰め合った。
 その後、Mはシーサを誘い出掛けた。
 ジィーノは館に留まり、シルビアが朝食を済ませてから自室で絵を描き居間に戻るのを待った。朝早くにMと連れ立って散歩をする彼女は、日々の印象を絵にするのが日課になっていた。シルビアは戻ると膝に載せる画帳を開いた。港町を見下ろす高台からの風景だった。手前に林立する落葉樹が広がり、その向こうに雨に煙る灰色の港町が描かれていた。繊細な線で丁寧に描写され淡彩で色付けする静謐な表現からは、老女の物静かでありながら我慢強い人柄が滲み出ていた。
 「時間が止まっているようだ。とてもいい……。」
 ジィーノが息を吐くように言葉を零した。シルビアは、微笑み嬉しそうに頷いた。
 「不遜な表現だったかな。」
 ジィーノは呟く意味を確かめながら、シルビアの絵を初めて見た日を思い返した。シルビアに他意はなく自然の流れで画帳を開いたのだろう。その行為を気遣いに捉えたジィーノは、相手の思いを汲み取ろうと慮るばかりで重荷に感じたのだ。素直な感想も伝えられなかった。今でもあの風景画を鮮明に記憶している。丘陵の頂から臨む湿地帯と海と空とが三つに分割された中に古城がある構図だった。
 「僕も、このような絵が描ける老人になれるだろうか……。」
 「若い者が、何を辛気臭いことを言っているのです。」
 シルビアが呆れた声音で窘めた。
 「貴男の悪い癖は、直っていないようですね。」
 「そう変わるものじゃないから。」
 ジィーノは、優しく視線を返して言った。
 「あの頃よりも未来を悲観していないけれど、冷静に立場を弁え伝えられる覚悟ができたのかもしれません。……過去に患っていますから。」
 「いけませんよ。」
 そう嘆息し老女は、天を仰いだ。
 「冗談でも口にするのはよしなさい。」
 「ドナ氏のように。人が笑えない冗談を言いたくもなります。」
 ジィーノは、静かに言った。
 一瞬、シルビアが締める皴だらけの口元を緩めたが嘆息した。ジィーノは、思い置いていた海辺を後にした日の出来事を聞かせてほしいと強請った。シルビアの驚く瞳をジィーノは、優しく覗きんだ。シルビアが暫く思案して切り出した。
 「明日の朝、散歩に連れて行ってもらえるのなら話しましょう。これは、わたしの役目なのでしょうね。」
 言葉に含ませる事情が分かったからシルビアの知る出来事を直接に頼んだのだろう。ジィーノは、信じていた。記憶すべき物語であるかの判断は、それを受け取る人が覚悟を持って自覚する他にないと。
 「古城の失火から始めなければなりませんね。」
 シルビアは、記憶を手繰るように語り始めた。
 「あの朝は、夜が白み始める頃に目覚めました。雨が静かに降り散歩に出かけられるか窓の外を窺っていると、突然にあの子が帰ってきたのです。長く雨の中にいたのでしょう。全身がずぶ濡れで微かに震えていました。頬を火照らせて唇を強く結び、瞳に強い光を秘める表情は、怒りを押し殺す切なさを宿していましたか。激しい足取りで二階に駆け上がりジィーノが居ないのを確かめると、重い足取りで居間に戻り中央で立ち尽くしたのです。あの子が途方に暮れて憔悴している姿を見たのは初めてでした。声もかけられないほどでした。今にも泣きだしそに困惑する姿に当惑しました。貴男も知っているように、あの子は冷静でしょう。それなのに、声を詰まらせる独り言に我が耳を疑いました。
 ──ジィーノ……、どうしてなのよ。
 そこで初めてわたしに気付いたらしく、苛立たしく顔を歪めました。何か言いかけて止め、今度は声を少し荒げてはっきりと言葉にしました。
 ──燃えているのよ。……古城が。
 正直なところ、懺悔を聞かされたかのように動転し取り乱したのです。思わず神の名を呼び立ち上がろうとしたほどです。わたしの姿を見て気を取り戻したのでしょう。あの子は小さく溜息をつくと、力なく微笑んで言い直しました。
 ──燃えているだけよ。大丈夫、それだけなのだから。
 それから、わたしの質問に一つ一つ答え、見てきた限りの状況を聞かせてくれました。海岸からの帰りに丘の中腹で振り返ると、古城から流れ出る黒煙に気が付いたそうです。最初、重く垂れさがる鉛色の雨雲が古城を抱きかかえ揺らぐように見えたと云いました。
 ──私は、冷ややかに眺めていた。とても静かで穏やかな景色だったから。このまま何時までも眺めていたいって思えるぐらいに。
 居間を右に左にと歩き回りながら話し続けました。
 ──暫くして、「これでいいのでしょう。」と、独り納得しているのに気付き慌てたわ。その時の私は、誰よりもあの古城に囚われていたのよ。忌々しい。……それにしても、酷いものね。人の意識ってこんなにも脆弱だったなんて。
 あの子は立ち止まると、強く腕を組みなおしました。
 ──そこで迷ったのよ。丘を下りようか、越えようか。
 最後は自分を叱責するようでした。何かに縋るような声だったでしょうか。丘の中腹で佇み、天を仰ぎ堪らずに声に出していたそうです。
 ──「愚かね……、どうすればいいのよ。」
 午前中は二人とも居間に座り続けました。あの子は、椅子に深々と腰掛け軽く目を閉じていたでしょうか。わたしは、あれやこれやと思い巡らすばかりでした。遠くで緊急車両が移動する警笛がきこえるのに動けないこの身の辛さを解ってもらおうとは思いません。ですが、情けないものでしたよ。」
 シルビアは自らの受けた衝撃を告白すると、一息ついて続けた。
 「夜も遅くなり燻ぶりも収まったそうです。雨が上がった三日目の朝、わたしは古城に向かいました。遠くからの外観は幾分黒ずんで汚れて見えましたが、失火があったように見えません。ですが、城内は幾つかの棟が焼け落ち痛々しいものでした。最も焼け方が酷かった礼拝所で人影を目にして息が止まりそうになりました。黒い影の後姿がドナ様と分かり安堵しながら、思わず涙を零していました。ドナ様は肩越しに振り向くと、口元を軽く歪めたのです。あれは自嘲していたのか。それとも、取り乱すわたしに対してだったのでしょうか。
 ──彷徨う亡霊でも見たかい。シルビア。
 と、ドナ様は何時もの調子でした。その冷静な姿に呆れるやら腹立たしいやらで、堪らず小言を並べました。ドナ様は、わたしの非難を軽く受け流して優しく抱きしめてくれました。
 ──今回は、誰も災難を被っていないようだ。これは、幸いだ。
 ドナ様の黒いサングラスの向こうの眼差しは、とても遠く感じました。
 ──これで、死者も徘徊できなくなる。
 礼拝所の地下墳墓で眠っていらっしゃる方々の上で仰ったのです。わたしは、暫く言葉もなくドナ様の顔を眺めていました。あの場所にいるドナ様を信じて尋ねました。わたしは、どのような言葉を期待していたのでしょうか。ドナ様を幼いころから見ているだけに複雑な思いでしたが。……それなのに、ドナ様は平然と受答えました。
 ──誰を待っているか聞きたいのか……。勇気ある咎人だ。今日で三日目になる。
 雨が降り止んだのは、その日の午前中だけでした。家に戻り熱を出して数日寝込みました。看病してくれるあの子に焼けた古城での様子を話すと、一言も返さずに手を優しく撫でてくれたのです。……それ以来、わたしは古城を訪れていません。」
 シルビアの話をジィーノは、最後まで実直に耳を傾けた。静かに心を落ち着けて言葉が持つ意味の重みを噛み締めながら。

 無人の古城に霧の漂う如く静かに降る雨が永劫に止むことのない受難を見ているようだったと、打ち明けられたジィーノは、シルビアよりも拘泥しているのを改めて知る結果になった。居間に座りながら聞こえる緊急車両の警笛は、シルビアに忌々しい昔の事故の想いを蘇らせた。三日目の朝、雨上がりの古城でドナは真実を語りシルビアも事実を受け止めたのだろう。ドナの「勇気ある咎人を待っている。」その言葉に秘めていたのは、現実をも偽りかねない理性を裁こうとする決意だったのか。学生の夏、浜辺で知り合い旅人のアルナから聞かされた「自らの罪を知る者は、己を弁明する故に将来を生きる覚悟が必要となる。自らの罪に気付かない者は、勇気ある証人となるべく過ぎ去った日々を背負う罰を受けなければならない。」と語る言葉をジィーノに想い出させた。あの頃のジィーノは脅える手負いの獣よりも危うく小賢しく立ち回っていたから思いが至らなかった。今になってアルナの揺ぎ無い意思を知ることになった。
 『それが故に時を冒険しなければならない。……私以上に真摯に対峙している、と教えられていたのか。』
 ジィーノは、己を宥めるように自問した。
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