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文字数 2,335文字

 僕らは、三日間を岸辺の廃墟で野営した。湖畔を巡り探索し、長く放置されていた小舟を修理するのに丸一日を使った。趣味の域を超えたアルファの器用さに僕らは感心した。
 最後の夜、夕食後に僕らは、小舟を湖水に押し出した。
 水面に浮かべた小舟を前にして僕らは、お互いの顔を見合った。アルファは、先に乗り込むと櫂を手にして待った。最初に覚悟を決めたのが、意外にもタウだった。二人が乗ると、喫水が沈み頼りなく揺らいだ。
 「……三人乗りでしょう。」
 シータは、真面目な顔で進めた。イプシが僕の脇を小突いて促した。
 「君が乗れと、女神は言っている。残念だが、譲るよ。」
 「案内人の漕ぎ手を入れないでの三人だ。」
 僕は、イプシの腕を掴んだ。
 「君が、三人目だろう。」
 四人が乗り込んだ小舟は、不安定な姿で揺らぎ喘ぐように湖水を進んだ。入り組んだ岸辺が続く湖畔は、迷路のようになっていた。暫くは、誰もが口を噤んで押し黙っていた。櫓を漕ぐ音と水を切る船首の音だけがした。突如、沈黙を破ったのは、押し殺したようなイプシの低い笑い声だった。
 緊張していた僕らは、堰を切ったように堪え切れずに笑いだした。湖水を渡る笑い声が岸辺で待つ二人に届いたなら、祈っただろうか。
 「……我々は、どこに向かっている。」
 イプシは、ひとしきり笑った後で誰に向けるでもなく尋ねた。
 「星は、我らを導く星は、いずこ。」
 「もっと遠くだ。」
 僕は、船首の位置から天空を指した。小舟が安定に揺らいだ。アルファは、休めていた櫂を静かに漕ぎだした。
 「……えっ、……声が聞こえたよ。」
 突然タウが、声を潜めて注意を促した。僕らは、周りの気配を探り直ぐにタウを非難した。
 「それが真実なら、答えろ。お前は、誰の声を聴きたい。向こうで逃がしたあの娘か。」
 イプシは、容赦なかった。
 「それとも、使者の声か。」
 「本当だ。聞こえた。女の声だった。」
 タウが、真顔で訴えた。酔っていたが、真剣に目を岸辺の森の中を探らせていた。アルファは、櫂を動かす手を休めて小舟を惰性のままに滑らせた。僕らは、小耳をたてて月影の茂みに目を凝らした。
 「……一つ言い忘れていた。」
 僕は、重い沈黙を破った。
 「岸辺の寺院が焼け落ちた伝説を……。」
 「言うな。」
 イプシが、口を挟んだ。
 「今は、聞きたくない。」
 「若い女性の呼ぶ声だった……。」
 そう呟くタウは、怯えていた。凍てつく沈黙が夜の水面を渡った。誰一人も話を切り出せずに自分の言葉を捜していたのだろうか。
 「……泳ぎます。」
 不意に発したアルファの言葉に僕らは、止める余裕もなかった。呆然と見守る僕らを残して水面に浮いた。小舟に沿って背泳する姿は、星空を眺めながら穏やかな笑みを浮かべていた。
 あの夜、僕らは深く酔っていたが冷静だったからだろうか。誰一人としてアルファと共に水に入れなかった。少し後になって、その夜の出来事を想い返しても僕らは追及することもなく話題にしなかった。過ぎ去った景色を追憶するように沈黙の中で終い込んでいた。
 その後は、岸辺に近付くこともできずに入り組んだ迷路のような入江を巡っただけだった。背面のまま浮かんだアルファは、小舟の船尾に片手を掛けていた。微睡むような表情で曳航さた。 
 漕ぎだした岸辺に戻った時、小さく悲鳴を上げて駆け寄ったのはシータだった。アルファの無事な姿に安堵したシータは、本気で怒りだした。その怒る姿を僕らは母親に重ねて見たのだろうか。誰一人反論もせずにしおらしく小言を受け入れた。シータは、叱責を並べながら途中から泣き出した。イプシが、僕の脇腹を肘で突いた。促された僕は小さく溜息をついて声を掛けようとすると、先にアルファがシータの腕を優しく抱き寄せて語りかけた。
 「……許してくれますか。我々は、少しふざけ過ぎました。」

 翌朝になってもシータは、僕の前だけ機嫌が悪かった。
 「貴男の不信心さは、必ず悔い改めなければ。底意地の悪さも……。」
 僕は、反論する気力も失せていた。遠い昔の母親から小言と似ているのが疎ましかったが、シータの真摯さは認めた。その日のシータは、僕から離れなかった。僕が日課にしていた巨石の隠れ場所まで着いてきた。非難を重ねなかったが、少しばかり拗ねて困らせた。僕が本を読む楽しみを邪魔した。僕は、軽く冗談で遣り返した。
 「この石の形、なんだか分かるか。天に上る箱舟だ。」
 船形をした巨石の上でシータは、頬を膨らませた。
 「だから……。貴男は、放っておけないのよ。」
 シータは、語彙を強めた。
 「この村にも礼拝所はあるのでしょう。」
 「……僕が洗礼を受けた場所を見に行くかい。」
 僕は、軽く笑いながら提案した。
 古い石造りの小さな礼拝所は、人の姿がなく静観としていた。ステンドグラスから零れる光の下で長い祈りを済ませたシータは、少し気持ちを取り戻した。僕は、祈る姿を色褪せた思い出に重ねて眺めていたのだ。シータの声音は、和んでいた。
 「……本当は、信心深く善い人なのでしょう。」
 「どうだったかな。忘れてしまった。」
 僕は、言葉と裏腹に幼い頃の姿を想い返し戸惑っていた。シータが、再び祭壇に両肘をついて長い祈りを始めた。遠い記憶の中で僕は、はっきり鮮明に彼女の後ろ姿と同じ光景を見て思わず息を呑んだ。
 「……これで大丈夫。」
 長い祈りの後、シータは優しい眼差しに戻っていた。
 シータは、夕食の準備に先に戻った。小道の曲がり角で立ち止まり振り返った。微笑んで片手を振る仕草が眩しかった。
 夕方近くまで時間を過ごす間、僕は穏やかな気持ちでいる自分が少しばかり疎ましかった。僕のその様子を見かけた人がいたなら、驚き苦笑しただろう。
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