第三部 新たなる始まり 三、

文字数 3,122文字

 長旅の後にも拘らず寝付けなかった。ロジェルを追いかけるレサリーヌに付き添い学生の夏に訪れた海辺で眠れず寝返りを打つ姿が想い重なりジィーノは溜息をついた。
 『無理をしていないつもりでも自制が心身に負荷をかけるのか。』
 胸の内で言い聞かせるジィーノは、熱に魘されるような気持ちで呟いた。
 「心の底から良い休暇にできると信じている……。」
 夜明け近くまでジィーノは、幾度も目を覚ました。あの夏の海辺で過ごした出来事ばかりが蘇った。浅い眠りを繰り返して諦めに似た焦燥感を募らせた。Mと昔を語り合ったからだろうか。夜具の中で汗ばむ寝姿を変えても気分が重く、最後は我慢できずに起き上がった。
 夜明けまでは、まだ少し時間があった。
 『この土地に引っ張られている、と思いたくない……。』
 ジィーノは、重苦しい頭を庇い思った。
 『吹っ切れたつもりでも、昔を夢に見て魘される。』
 物事に呪縛される原因の一つが思案の短慮から始まるのを解っているつもりだった。
 「この歳で達観できると考えていないが、愚かな真似を繰り返さない心構えはしているつもりだ。」
 ジィーノは、ため息混じりに呟き夢見の悪さを払拭すべく浴室に入った。ゆっくり時間をかけて湯を使い身支度を整えた。気持ちは落ち着いても独り部屋で夜が明けるのを待つと再び夢の不安に囚われるように思えた。Mの見透かすような言葉が頭をよぎった。

 ジィーノは、居間に書置きを残し外に出た。肌寒い雨が深々と降りだしていた。車庫へ向かう途中にMの自室がある三階屋根裏の窓灯りが目に入り慰められる気持ちになった。
 深紅の旧車に乗り込み出かけた。濡れる路面に流れるライトを追いかけ気の向くままに車を走らせた。夜明け近くに南の漁村へ進路を変えた。丘陵を超える車はなく九折の道が続く坂を駆け上がった。
 頂近くの急な曲がり角で緑色の小型車が側溝に車輪を落とし山肌にフロントを突っ込ませていた。車の速度を落とし近付くと、立ち往生する車から若い娘が降り立ち両手を振って合図した。褐色の髪を短く切り揃えて革製の防寒服を着込んだ姿と素早い身の動きは男の子のような印象を与えた。ジィーノは、車を少し手前で停めた。若い娘は、軍用の身分証を呈示しながら走り寄り自損事故の説明をした。シーサ・ヌオールと名乗る若い娘が尋ねた。
 「この近くで連絡が可能な場所はあるでしょうか。」
 ジィーノは、街まで下りなければ連絡が取れないと答えて、歩けば一時間ばかりかかるのを付け加えた。車の側面を大破させた扉の側にシーサと同じ年恰好の若者が佇み様子を窺っていた。ジィーノの視線に気が付いたシーサは、部隊の同僚だと説明した。
 何処まで行くつもりなのか問われたシーサは、浜辺の地名を告げて港町に知り合いがなく旅行者であると話した。二人が所属する軍の駐屯地は、東の国境近くにあり車で一昼夜かかる距離だった。遠い場所から訪れる若い男女にジィーノは、訝しげながらも興味をひかれた。夏休暇の時期ならまだしも、晩冬に寂莫とする海辺を訪れる人は珍しかった。青年の暗い眼差しと思い詰める感じは痛々しかった。若い頃にありがちな自分の足元ばかりしか見えていない直向きな姿を傍観するのは、ジィーノのように少しばかり若さを越えた身には懐かしくも苦々しく思えるのだった。
 「分かった。二人とも荷物を持って車に乗りなさい。」
 シーサは機敏な身のこなしで緑色の車に駆け戻り荷物を引き出して同僚の青年を急き立てた。その二人の遣り取りは、親子のようにも見えた。後になってシーサが年上であり小隊の先輩である事実を知り納得した。青年は、暗い眼差しでジィーノを一瞥してから決心がつきかねない素振りで荷物を担ぎ彼女に従った。
 ブロン・スティンと紹介された若者は、狭い後部座席の隅で居心地が悪いのか落ち着かなかった。二人の間に不可解な関係を感じ取らせる雰囲気があった。車を回して小雨の降り続く中を丘陵を下った。
 「二人で軍から逃亡してきたわけじゃなさそうだな。」
 ジィーノは、軽く冗談を交えて言った。シーサが笑顔で逆に尋ね返した。そのように見えたのかと。
 「最初は、そうだね……。しかし、慌てたものだな。急ぐ理由でもあったのかい。」
 シーサが明け方間際の自損事故に至るあらましを説明した。道を間違えて浜辺に迷い込んだ話だった。
 「浜辺の湿地帯の道に迷い込みました。古い城が見える場所です。」
 古城のことをシーサが言い出した時、ジィーノは胸の内で嘆息した。
 「岬に戻ろうとしたのですが、何度も城の近くで迷いました。やっとのことで岬に辿り着き丘を越えたのですが。急き立てられる気持ちになってしまい。あの有様です。」
 ジィーノは、古城周辺の道の複雑さを手短に説明してから話を移した。
 「休暇は何時までかな。」
 「明後日には、ここを離れなければなりません。」
 ジィーノとシーサが話を交わしている間中ブロンは、後部座席の隅で固まり黙然と外を眺めていた。

 ジィーノは、二人の若者を連れてシルビアの館に戻った。玄関の車寄せに着くと、Mが扉を開けて姿を現した。その絶妙の間が、初対面の若者達には夫を出迎える妻に見えたようだった。Мは、二人に優しい視線を走らせて微笑むとジィーノに尋ねた。
 「どこでお友達になったのかしら。」
 その軽口が気に障ったのかブロンは、口元を引き締めた。Mは、持ち前の直感で若者の気難しい性格を感じ取り茶化したのだろう。善し悪しは別にしても真面目で直情的な若者を煽る性癖があるMだった。ジィーノは、Mとの出会いで反感を抱き無視しようと試みたのだった。Mの標的になると苛立たしさが先にたち閉口するばかりでありながらも、何時しか離れられずに興味を抱きMの存在を認め受け入れていた。今ならMの容赦がない無神経とも感じさせる他人への踏み込みは、悪意でなく相手を慮るが故の優しさと理解できる。ジィーノは気付くのに長い年月を費やしたのだ。
 シーサは、ブロンに比べればその頃からこなれていた。人生を割り切り物事にも拘泥しない姿勢は、士官学校出身の生粋の職業軍人らしかった。シーサは車から降りると、毅然とした態度で初対面の挨拶を済ませ礼を述べた。ジィーノから補足の説明をMは、しおらしく最後まで聞き終えた。
 「それは、ついていなかったのね。」
 Mは、同情の言葉でしめて家に招いた。
 成り行きは、二人の若者がシルビアの館で逗留することになった。二人の若者に興味を抱くMが提案し受け入れさせた。初対面からMに好感を持つシーサは即座に承諾したが、ブロンは終始困惑し硬い表情で寡黙を通した。そのブロンの様子には、気難しいだけで済まされない繊細な硝子細工のような感情の危うさが秘められていた。何事かを思い詰めながらも決断をしかねている自身の曖昧さに苛立つブロンが生き急いでいるように見えたからだろう。ブロンの正直で実直な姿を見ていると、ジィーノは将来に軽い不安を感じながらも若者の意地の源を推し量れる思いになるのだった。
 僅かな休暇でありながら遠い駐屯地から夜を徹して車で駆け付ける理由を考えながら、年上の女性が付き添っている姿を観れば諦めにも似た気持ちで巡り合わせの妙を認めざるを得なかった。ジィーノは、胸の内で思い煩った。
 『私に……、どの役を演じさせようとするのか。』
 個々が主体的に選択する生き様に人としての理想を抱くジィーノであったが、人の叡智をも超越する存在自体の有りようを困惑しながらも認めてしまいそうな気持になる思いだった。
 『それも面白かろう。今の私は、普く静観できる覚悟を備えているつもりだ。あの人が行えたように。』
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