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文字数 2,216文字
あの夏、故郷がどのようなところかと聞かれたなら、僕は帰らなかっただろう。
大学に入った最初の夏休みは、都会でバイトをして八月に一人旅を計画していた。妹が帰宅する日を尋ねてきたが、返事はしていなかった。
同じ学部のイプシが、休講になった教室の窓から遠くまで広がる街並みを眺めながら何気なく僕に尋ねた。
「いつ戻るんだ?」
世の中を斜めに見る皮肉屋のイプシは、悪意を含ませる理屈っぽい話し方に好感が持てた。北の最果ての古い町から来ていた彼は、あの頃の僕らの中で最も太陽に渇望し光の強さを知っていたのだろう。
イプシが、自宅から通学しているタウを誘った。
「二人でお邪魔しよう。」
「……僕は、こっちでバイト。」
タウは、困惑して僕に助けを求めた。イプシが、畳み掛けるように皮肉った。
「それで。稼いだ貴重な金で、あの娘を旅行に誘うのか。幻滅するのは、まだ早いぞ。」
「違うって。そんな女子じゃない。」
タウは、ますます困って肩をすくめ反論した。
「君には、関係ないだろう。」
「関係がないだと。それが親身になって心配する親友に対する言葉か。迷える子羊を見捨てられようか。」
イプシが、そう言って空を仰ぎ見て嘆息した。
「……そうだ。向こうでバイトをしろよ。賢い娘もいるさ。」
「勝手に決めるなよ。」
半ば諦め顔でタウは、イプシの言葉の端々に隠れる同情を受け入れていた。
「それなら、時を有効に使え。」
イプシは、相手を諭すように告げた。
「別れの日まで時間はある。仲良くなって旅立てばいい。もしもだ。あの娘が、お前を追いかけてくるなら、面白い喜劇になる。夏休み中は、退屈することもないだろう。」
出発は、最後の講義が終わる夜に決まった。イプシの持論は、知らない街を訪れるなら早朝に限ると考えていた。僕は反対しなかったもののタウ以上に気分が重かった。
出発の前日に連絡を入れると、妹から強い非難の返事がすぐに届いた。母は、父の赴任先に向かった後だった。最初から僕の帰郷を待っていなかった行動に驚かなかったが、妹に託した母の伝言は、その夏の間の僕の気持ちを塞がせるのに十分だった。
向こうで家族全員が集えるのは素晴らしいことだ、と母は言い残していた。二人の子供が各自で行動する年頃になっているのを受け入れようとしない母らしい言葉だった。
イプシは、知り合いの中古車店から廃車寸前の小型車を借りてきた。
「これで向こうまで着くのか。」
タウが、大きな旅行鞄を車に押し込みながら溜息を零した。
「止まっても、押さないからな。」
「旅とは、過酷なものだ。知らないのか。」
そう言うイプシは、ハンドルを叩きながら笑った。
夏の始まりにまだ少し早いからだろう。夜中の高速道路を南下する車は少なかった。何度か休息所に入った後、高速道路を途中で降りて一般道を夜通し走った。海辺の町に近い海岸沿いに辿り着く頃は、夜も白み始めていた。
「……静かな町だな。」
軽く驚きながら車窓の景色を眺め呟くタウにイプシは、揶揄った。
「お前が生きてきた場所は、騒々過ぎるからな。人が生を営む場所は、本来このような静謐だったのさ。」
町中に入ると、行き交う車も増えて人影も見え始めた。僕は、生まれ育った町の空気を春よりも少しばかり重苦しく感じた。
港に近い古い石造りのアパートは、一日の生活が始まろうとしていた。車が停まる音に三階の窓が開き、妹のパイが顔を覘かせた。
荷物を持って階段を上がると、途中でパイに行き会った。すれ違い際にパイは、僕の耳元に囁いた。
「……帰ってくると思わなかった。何があったの。」
イプシは、恭しく初対面の挨拶を向けた。早朝の出で立ちを褒められるとパイは、素っ気なく言葉を返した。
「戦場に向かいますので。」
そう言いのこしてバイは、自転車で学校に向かった。
「君の負けだよ。ひと夏お世話になるのに嫌われてどうするんだ。」
笑いを堪えながらのタウの嫌みにイプシは、天を仰ぎ説明した。
「最初は困らせる。これが女子と仲良くなる秘訣さ。だから、お前は恋人ができないのさ。」
「厄介な母親が必要なら止めない。」
僕は、冷笑して口を挟んだ。
「だが、心しろよ。死人にでも意見を向ける性格だ。」
「妹さんは、母親に似ているのか……。」
タウが疑い深く嘆息するのを僕は制した。
「自分で確かめてくれと言いたいが、八月中は留守にしている。」
父の赴任先に出向いた母が秋口まで戻らない話をした。海や空の青さや木々の深い緑、そして遺跡の残る穏やかな土地での休暇を説明すると、タウは驚き尋ねた。
「この浜辺の海は、青くないのかい?」
「自分の目で確かめればいいだろう。」
イプシは、呆れて横から口をはさんだ。
「お前は、夫婦が必要とする絆を理解しようと考えないのか。」
僕は、二人の誤解を訂正しなかった。
毎年、母が夏の休暇に出向く理由を深く詮索しようとは思わなかった。妹は、夏が近づくと母に今年のお土産を遠慮すると先に伝えた。それから自分自身の予定を説明した後、付け足すのだった。
「お土産は、二人の楽しい話で十分だから。」
高校生のパイは、その頃から家族の中で最も未来が見えていたのかもしれない。おそらくは、海辺の町から早く出ようと焦っていた僕よりも冷静で覚悟を持っていただろう。パイの簡潔な行動力を見ると、これまでの日々に拘泥する僕が愚かに思えるのだった。
大学に入った最初の夏休みは、都会でバイトをして八月に一人旅を計画していた。妹が帰宅する日を尋ねてきたが、返事はしていなかった。
同じ学部のイプシが、休講になった教室の窓から遠くまで広がる街並みを眺めながら何気なく僕に尋ねた。
「いつ戻るんだ?」
世の中を斜めに見る皮肉屋のイプシは、悪意を含ませる理屈っぽい話し方に好感が持てた。北の最果ての古い町から来ていた彼は、あの頃の僕らの中で最も太陽に渇望し光の強さを知っていたのだろう。
イプシが、自宅から通学しているタウを誘った。
「二人でお邪魔しよう。」
「……僕は、こっちでバイト。」
タウは、困惑して僕に助けを求めた。イプシが、畳み掛けるように皮肉った。
「それで。稼いだ貴重な金で、あの娘を旅行に誘うのか。幻滅するのは、まだ早いぞ。」
「違うって。そんな女子じゃない。」
タウは、ますます困って肩をすくめ反論した。
「君には、関係ないだろう。」
「関係がないだと。それが親身になって心配する親友に対する言葉か。迷える子羊を見捨てられようか。」
イプシが、そう言って空を仰ぎ見て嘆息した。
「……そうだ。向こうでバイトをしろよ。賢い娘もいるさ。」
「勝手に決めるなよ。」
半ば諦め顔でタウは、イプシの言葉の端々に隠れる同情を受け入れていた。
「それなら、時を有効に使え。」
イプシは、相手を諭すように告げた。
「別れの日まで時間はある。仲良くなって旅立てばいい。もしもだ。あの娘が、お前を追いかけてくるなら、面白い喜劇になる。夏休み中は、退屈することもないだろう。」
出発は、最後の講義が終わる夜に決まった。イプシの持論は、知らない街を訪れるなら早朝に限ると考えていた。僕は反対しなかったもののタウ以上に気分が重かった。
出発の前日に連絡を入れると、妹から強い非難の返事がすぐに届いた。母は、父の赴任先に向かった後だった。最初から僕の帰郷を待っていなかった行動に驚かなかったが、妹に託した母の伝言は、その夏の間の僕の気持ちを塞がせるのに十分だった。
向こうで家族全員が集えるのは素晴らしいことだ、と母は言い残していた。二人の子供が各自で行動する年頃になっているのを受け入れようとしない母らしい言葉だった。
イプシは、知り合いの中古車店から廃車寸前の小型車を借りてきた。
「これで向こうまで着くのか。」
タウが、大きな旅行鞄を車に押し込みながら溜息を零した。
「止まっても、押さないからな。」
「旅とは、過酷なものだ。知らないのか。」
そう言うイプシは、ハンドルを叩きながら笑った。
夏の始まりにまだ少し早いからだろう。夜中の高速道路を南下する車は少なかった。何度か休息所に入った後、高速道路を途中で降りて一般道を夜通し走った。海辺の町に近い海岸沿いに辿り着く頃は、夜も白み始めていた。
「……静かな町だな。」
軽く驚きながら車窓の景色を眺め呟くタウにイプシは、揶揄った。
「お前が生きてきた場所は、騒々過ぎるからな。人が生を営む場所は、本来このような静謐だったのさ。」
町中に入ると、行き交う車も増えて人影も見え始めた。僕は、生まれ育った町の空気を春よりも少しばかり重苦しく感じた。
港に近い古い石造りのアパートは、一日の生活が始まろうとしていた。車が停まる音に三階の窓が開き、妹のパイが顔を覘かせた。
荷物を持って階段を上がると、途中でパイに行き会った。すれ違い際にパイは、僕の耳元に囁いた。
「……帰ってくると思わなかった。何があったの。」
イプシは、恭しく初対面の挨拶を向けた。早朝の出で立ちを褒められるとパイは、素っ気なく言葉を返した。
「戦場に向かいますので。」
そう言いのこしてバイは、自転車で学校に向かった。
「君の負けだよ。ひと夏お世話になるのに嫌われてどうするんだ。」
笑いを堪えながらのタウの嫌みにイプシは、天を仰ぎ説明した。
「最初は困らせる。これが女子と仲良くなる秘訣さ。だから、お前は恋人ができないのさ。」
「厄介な母親が必要なら止めない。」
僕は、冷笑して口を挟んだ。
「だが、心しろよ。死人にでも意見を向ける性格だ。」
「妹さんは、母親に似ているのか……。」
タウが疑い深く嘆息するのを僕は制した。
「自分で確かめてくれと言いたいが、八月中は留守にしている。」
父の赴任先に出向いた母が秋口まで戻らない話をした。海や空の青さや木々の深い緑、そして遺跡の残る穏やかな土地での休暇を説明すると、タウは驚き尋ねた。
「この浜辺の海は、青くないのかい?」
「自分の目で確かめればいいだろう。」
イプシは、呆れて横から口をはさんだ。
「お前は、夫婦が必要とする絆を理解しようと考えないのか。」
僕は、二人の誤解を訂正しなかった。
毎年、母が夏の休暇に出向く理由を深く詮索しようとは思わなかった。妹は、夏が近づくと母に今年のお土産を遠慮すると先に伝えた。それから自分自身の予定を説明した後、付け足すのだった。
「お土産は、二人の楽しい話で十分だから。」
高校生のパイは、その頃から家族の中で最も未来が見えていたのかもしれない。おそらくは、海辺の町から早く出ようと焦っていた僕よりも冷静で覚悟を持っていただろう。パイの簡潔な行動力を見ると、これまでの日々に拘泥する僕が愚かに思えるのだった。