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文字数 2,191文字

 僕が話さなくても、イプシなら見つけ出しただろう。幾日かが過ぎた朝食の席で突然イプシは、遊泳の提案を持ち出した。海辺に戻るものと考えのだろうか、タウが飛び上がって聴き直した。
 「戻るのか……。僕らは、まだまだここで楽しめるだろう。」
 「誰が海で泳ぐといった。」
 イプシは、軽く否定してから僕に視線を移した。
 「ここには、今でも湖があるのだろう。」
 イプシの意味ありげな問い掛けに僕は、肩を竦めてから気の利いた返事を用意した。
 「僕の中を、彷徨う湖ならある。」
 僕は、湖の存在を忘れていなかったが、無意識のうちに記憶を封印していたのだろう。湖との出逢いは、悪くなかった。独りで田舎に行けるようになったとき、僕は足を延ばしてその湖を訪れた。神秘的な景観に甚く感動したが、幼い頃に湖畔の伝説を聞かされていた僕は、廃墟の現実を前に想像力を逞しくして余計な考えを巡らせたからだろう。それからの僕にとっての湖は、伝説の中で凍てつくような妄想に化して恐れ戦いたのだ。
 「湖の岸辺に残る寺院跡が見たい。」
 イプシの言葉は、遠慮がなかった。
 車で三十分と掛からない距離だった。イプシは、テントを持参する提案を譲らなかった。僕は、積極的に反対しなかった。それでも、湖畔で野営する様子を想像するだけでも軽く気持ちが滅入った。
 話が纏まらないうちにイプシから急かされ僕らは、車に乗り込みデルタの運転で出発した。燥ぐのがイプシだけでないのは、せめてもの救いだった。誰もが期待に浮ついていた。僕は、彼らを失望させない自信はあったものの、車中で複雑に絡む不安な思いから抜けられなかった。独り溜息を隠すのを強いられた。あの場所を畏れながらも、もしかすれば、湖を秘匿しておきたかったのかもしれない。その頃は、明確な理由も解らずに感覚的だったが。

 深い森を抜けた先に現れた煌めく湖水を目にして誰もが感嘆の声を上げた。イプシには、想像を超えた景色だったのだろう。着いてからも終始機嫌だった。
 「おおっ……、これは凄いぞ。絵になる。」
 大袈裟に声を上げたイプシは、真っ先に岸辺に駆け寄った。
 湖の水は、記憶よりも生温かった。指先に伝わる感触は、夏の気怠い午睡に似ていた。僕が物憂げに浸っていたからか、シータが小首を傾げて囁いた。
 「……どうかしたの、忘れ物?」
 昼食のお弁当を摂りながらイプシが再び野営話を持ち出した。この場所に滞在する必要性を力説して譲らなかった。タウは、即座に反対した。
 「ここは、神聖な場所なのだろう……。」
 「だからさ。我々は、この場所で思慮する必要がある。特にタウは、ここで古人を慮って我が説法に心を傾けないとな。」
 イプシの気持ちに微塵の迷いも揺らぎもなかった。伝説の物語が僕の脳裏を冷たく掠めた。
 僕は、賛成も否定もせずに言った。
 「食事は届けるよ。君の気が済むまでここに滞在してくれ。一生住みついても驚きはしない。それも、一興だ。」
 「お前がいなくて、何が始まるものか。」
 イプシは、一方的に決めつけた。
 「我ら愚民を失望させるのか。我らが導師よ。」
 僕らが言い合う遣り取りを聞いていたアルファは、籤引きで決めようと提案した。
 「この夏一番の素晴らしい意見だ。」
 イプシが快活に承諾した。遺跡跡から小石を六個拾うと、恭しくデルタの手に乗せた。
 「古代より、信託は巫女と決まっているでしょう。……さぁ、我らを導きたまえ。」
 イプシの芝居がかった演技にデルタは、戸惑ってアルファに視線を向けた。アルファが優しい眼差しで年上の女性に行動を促した。
 暫く思案していたデルタは、やがて胸のロケットを握りしめて拳の中の小石を空に投げた。丸い石が緩やかな放物線を残して大地に帰った。四個の白い石が表を見せていた。
 「信託は、正しく成された。」
 そう言ってイプシが、空と大地に感謝を捧げた。
 男だけが、野営に決まった。夕刻までにデルタの運転で装備を運んだ。
 夕食は、焚火を囲んだ。イプシが、恭しい演技で生贄の代わりと肉塊を焼いた。酔いが深まる頃、不意に僕は、イプシが遠い北の地の遺跡の玄室で独り一晩過ごした話を語った夜の姿を想い出した。酒の上での世迷言としては生々しく生臭い不謹慎さに思え聞いていないふりをしたのだ。だが、その言葉は、強い残像と化して僕の記憶の淵に引っ掛かった。
 ──自分の未来が見える、と云う噂の真実を知りたかっただけだが……。」
 あの時のイプシは、酔っていたが本気だった。

 夜半前に、デルタとシータが古民家に向かう車を見送ったころには、僕らは酔い潰れる寸前だった。
 「……泳がないと。」
 イプシは、のろのろと服を脱ぎ始めた。アルファが躊躇いもなく続いた。
 「ヤバイだろう……。」
 タウは、酔っていたが理性が残ってていた。僕に助けを求めるタウが滑稽に思えた。僕は、酷く眠かった。それでも、焦ることなく言い包める言葉を忘却していなかった。
 「怯え恐れなければならないのは、君じゃない。きっと僕らは、酔いを醒ます必要に迫られている。」
 そう告げて僕は、全裸になった。月夜の水面に三人の姿は、道化だっただろう。岸辺からタウだけが、危惧しながら僕らの生末を見定めていた。
 その夜、誰かが入水していたとしても僕らは非難しなかっただろう。誰に疑われることなく伝説となって語り継がれたかもしれなかった。
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