文字数 2,151文字

 夏の前半が過ぎようとする或る日、イプシは夕食前に姿を見せた。遅くなっても外泊をしなかったが、イプシはその頃になると真夜中の帰宅が多かった。彼の珍しい時間帯の帰りに僕らは顔を見合わせた。
 イプシは、若者を連れて戻った。僕らより少し年上の綺麗な若者だった。丘陵を越えた浜辺の湿地帯で出会った話を聞いたパイは、一瞬だけ眉を顰め露骨に嫌な顔をした。
 アルファと紹介された青年は、遠い東の都会から訪れていた。身のこなしが優雅で言葉に訛りもなかった。僕は寛容さを備えているつもりだったが、距離を置いた接し方をしてしまった。悪意からでなく、おそらくは浜辺に古くから伝わる風評に拘泥していたからだろうか。兄妹が困惑する様子を敏感に感じ取ったのは、タウだった。少し後になって黄昏時の浜辺を彷徨う亡霊の話を聞いたタウは、真っ青になって天を仰ぎ呻くように断言した。
 ──イプシは……、判っていたはずだよ。だから、彼は……。
 夕食の後、卓を囲んで酒を酌み交わした。アルファは、言葉数こそ少なかったが、イプシの対話についていける論客だった。イプシから好戦的な部分を取り除けば同種のようにも思えた。だが、品格があり教養も積んでいるからだろう。思慮深く穏やかに物事を伝えられた。
 イプシは、夕日の中で波打ち際に一人立つアルファの後ろ姿が神々しく見えたと話した。
 「翼の生えた人間を見たのは、初めてだった。」
 「止めろよ。困っているじゃないか。」
 タウは、アルファを擁護した。自らの立場を弁え毅然とした立ち姿のアルファをタウは、最初から好感を持って受け入れていた。
 「勘違いするなよ。俺たちは、彼を称賛する立場だ。」
 イプシは、皮肉交じりにタウの協調性を非難した。
 「この大地に立つ誰もが罪を背負って生まれる。空の記憶を無くしているのも忘れて。」
 イプシの綱渡りをするような説教臭い話に僕は、閉口した。もしも、アルファの立場なら直ぐにでも無言で退席しただろう。
 後に二人っきりになった時、イプシを問い質した。何を期待していたのかと勧告し再考を促したものの、僕の言葉は迷って伝わったのだろう。
 ──彼の背負っているものを見たいと思うかい。
 あの時のイプシは、珍しく言葉を選んでいた。
 ──俺等では、とうてい無理な届かないものを見たとしても、何も浄化されない。君も俺も冷静にいようと、考えないのか。
 僕は、それ以上イプシを追求しなかったが、後々まで自分の言葉の至らなさに後悔した。

 どのような流れでアルファが祖母のピアノを弾いたのか誰も覚えていなかった。アルファの奏でる音色は、僕らの中に長く残った。パイが珍しく驚き音を窺い追っていた。
 「……悲しい音色ね。」
 パイが、素直な感想を口にしたからだろうか。僕を苛立たせた。妹の耳朶を軽く引っ張って耳元で絡んだ。
 「お前とは、別の世界の住人だ。憧れは勝手だが。」
 「愚かね……。」
 パイは、同情するように言い返した。
 「お兄ちゃんと一緒にしないで。私の憧れは、別のところにあるのよ。」
 僕は、真面に切り返されて妹に返す言葉も見つけられなかった。タウが険悪になりそうな兄妹の間に割って入った。
 「……パイちゃん、歌ってよ。」
 意表を突かれたパイを助けるようにイプシが恭しく続けた。
 「この曲を知っている貴女に、幸多からんことを。」
 驚いたことにパイは歌った。その後、夏が訪れる度に僕は、あの光景を想い出した。彼らが勧めなくてもパイは歌ったように思えた。そう考えると複雑な気持ちになった。どこまでも冷静で世界を味方にできるパイの資質に偽りがないのを見せられたからだろう。僕は、見苦しい嫉妬を見せていた。イプシが、そっと囁いた。
 「……賢明な君よ。我ら愚民を失望させないでくれ。」

 夜も更けて、イプシの提案でアルファを送ることになった。宿泊先は、海辺の町でも老舗の高級旅館だった。僕らは驚かないようにしたが、入り口の手前で別れを告げる僕らは戸惑っていた。
 「大したものを拾ったものだ。天使か悪魔か、それとも……、愚者か。」
 自嘲気味に喋るイプシは、目を輝かせていた。僕は、その場の盛り上がる興奮に少し減滅し苛立って冷ややかに言った。
 「たんに、お金持ちの御子息だろう。珍しくもない。」
 「……これから判るさ。」
 イプシが、声を潜めて話した。
 「知っているか。あの旅館で一泊するには、俺らが一週間バイトをしても足らないはずだ。」
 「紹介がないと泊まれないよ。」
 僕が短く付け足すと、イプシは興奮して自らに尋ね自分で答えを出した。
 「そんな場所に泊まれる若者は何者だ? ……そぅ、馬鹿者に違いない。」
 酒を飲みたくなったのは、僕だけでなかった。朝まで開いている港の対岸にある高台のダンスホール向かった。終電が去った路面電車の線路の上を大声で話しながら歩いた。対岸までは遠く酔いが醒め始めた僕らの足では、朝までかかるように思えた。意外にも、最初に立ち止まり橋の中程で振り返ったのがイプシだった。
 「……俺らは、どこに向かっているのだ。」
 あの夜のイプシは、酷く酔っていたのかもしれない。タウが言葉少なくついてきたのは、誰よりも思案を巡らせていたからだろうか。孤独な僕の眼差しは、闇夜の星座を探していた。
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