文字数 2,241文字

 夜明け前、芝を張った庭で木々の狭間に点る星を眺めていると、夜の帳を宥めるような静かな足取りでフィーが姿を現した。僕の直ぐ傍に並んだ。細波のような声で囁いた。
 「海が見えないでしょう。」
 「……潮騒が、聞こえています。」
 僕の言葉にフィーは、低い声で小さく笑った。
 「ゴメンね……。」
 僕が警戒するのをフィーは、聡く感じ取っていた。
 「海が苦手なのよ。海辺に暮らしていて可笑しいでしょう。……出逢いが好くなかったのかな。」
 「僕も、笑えません。」
 僕は、フィーが若い頃にこの土地に移り住んできているのを想い出して言葉を返した。
 「ここを離れた一人ですから。」
 「そぅ……。」
 フィーが何か話そうとして止めた。間を置いてから続けた。
 「自慢の息子さんなのにね。」
 「そう見えますか。母は、僕が苦手だと思いますよ。」
 「……君のお父様よ。息子を語る目が、そう言っていたわ。」
 フィーは、遠くを見る目で言った。
 「ずっと向こうでお仕事なのでしょう。」
 僕は、自分の言葉の迂闊さに苛立ちを隠し心を閉ざしてしまった。
 「でも……、不思議よね。わたしは、この海辺に戸惑う自分を守ろうとしているの。」
 フィーの言葉は、優しかった。あの後、対話は酔いの中に埋もれていた。僕は多くを聞き、注意深く少しだけ語っただろうか。
 夜明けの入り江に下りていくと、独り泳いだ。誰一人いない波間に浮かんで空が白み始めるのを眺めた。シータを呼び出そうかと、一瞬でも考えたのが情けなく深く海に沈んだ。
 濡れた髪のまま始発のバスで町に戻った。後になって、僕がその夏も海で失踪した噂を聞かされた。その流言の元がイプシであるのを知った時、僕は軽く失望した。
 『この海辺を訪れる旅人が、放つ言葉は危険なのだ。特に、好奇心旺盛なイプシのような旅人は。気付いていながら、それか……。』
 僕は、そう自分に言い聞かせ、胸の内で気持ちを納めた。

 翌々日になって、僕らの希望が失われていないのを感謝した。朝食の後、アルファが車で迎えに立ち寄った姿に僕らは、お互いの顔を見合わせて笑い車に乗り込んだ。
 車を走らせてから、何処に行こうかの話題になった。アルファは車を停めると、僕らを順番に笑顔で眺め任せてほしいと提案した。
 「いいだろう。地獄か天国か、いざ行かん。」
 イプシは、車から身を乗り出して叫んだ。
 アルファが車を乗りつけたのは、意外な場所だった。路面電車の終点に近い鬱蒼とした森の中に建つ館は、閑散としていた。僕は、館の敷地内に建つ一般に開放されている礼拝堂の存在を噂で知っていた。
 「礼拝所に連れてくるとは、気が利いている。」
 イプシは、楽しそうに僕の耳元で囁いた。
 「これだから。お金持ちは面白い。ところで、あの奥の館は何だ。」
 僕らが数日前に出掛けた酒場の持ち主の館だと説明した。
 「先々代が建てた館だと聞いたことがある。」
 「……過去形か、面白い。」
 そう納得するイプシは、僕の言葉を的確に読み解いていた。
 アルファは、礼拝堂には寄らず庭の奥の館に案内した。玄関に現れた老齢の執事は、恭しくアルファを迎え入れた。
 壮麗な応接室に通された僕らの前に現れたのは、若く美しい女主だった。僕らの誰もがその女主を年下に見ていた。実際は少し年上であるのを、後になって知った。
 それが、女主マルガリータとの出逢いだった。白銀の長い髪を靡かせ蒼白な相貌に黒曜石のように煌めく強い意志を秘めた涼し気な眼差しと、夏の海のような鮮やかな青いロングドレスの出で立ちが、僕らに畏怖に似た強い衝撃を与えた。
 アルファは、柔らかい笑みをつくり女主の手を取ると甲に恭しく口付けた。
 「お立ち寄り頂けましたか。嬉しゅう御座います。」
 女主の仰々しい言葉遣いは、年若い女性らしさがなく意外な感じを受けた。アルファは、紳士で物腰がどこまでも洗練されて丁寧だった。
 僕らを連れ立って訪れるのを予測していたように見える女主の対応だった。
 「お独りでいらして頂けるよりも、一興でしょう。歓迎します。」
 女主が年上のアルファに接する所作は、優雅で威厳に満ちていた。
 「お宿に逗留なさっているのは、伝え聞いておりました。古城は、お使いにならないのですか。」
 女主の問い掛けは、既に答えを知っているかのような響きがあった。アルファが、少しばかり思案気に伝えた。
 「そうですね……。今回は、たぶん。」
 「お独りなら、帰られたでしょうか。」
 「どうですか。」
 アルファは、優しく微笑んで見せた。女主人が少し間をおいてから言った。
 「……狡い御方ですこと。」
 「貴女の前では、隠せませんね。」
 「あら……、どういたしましょう。褒められましたか。」
 女主は、物静かに続けた。
 「それはそれとして。其方の方々に、ご挨拶させて頂きましょう。」
 アルファが、僕らを紹介した。女主の魅惑的な立ち振る舞いに魅入られたのだろうか。僕らは気圧されていた。謁見する臣下のように順番に近付き挨拶した。
 「御機嫌よう。……もしや。」
 イプシの言葉の訛りから出自を尋ねた。僕は、報道でしか知らなかった。興味もない遠い世界の事件の話だった。イプシは、いつになく神妙に受け応えていた。
 「大変なご苦労でした。御心、安らかに。」
 女主は、そう締めくくった。イプシは、最後まで姿勢を正し畏まっていた。僕の目には、母親が幼子を愛しむように映った。後にも先にもイプシが、そのような姿を見せたのは、あの時だけだった。 
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