文字数 2,184文字

 その日は、浜辺の丘陵を一周するだけにした。海風を胸に満たして単車の挙動を楽しみながら僕は、次の夏休みを想い描き幸せな気分になっていた。単車を操って一体になり丘を駆け巡る姿を見たなら、誰もが立ち止まり胸の前で手合わせ見送っただろうか。僕は、友達や学校や海辺のことも忘却していたのだ。それが一時しのぎの幸福であろうとも、少なくとも海辺に帰郷した理由を突き詰めなくてもいい安らぎを得ることが出来たのだ。
 『誰かから言葉にして指摘されたかったのだろうか。戻ってきたのは、お前の意志だと。』
 僕は、胸の中で冷静に自問した。
 雲行きが怪しくなり、急いで丘陵を降り市街地に戻った。単車を修理工場に預けた。店先でイータの一人娘のイオタに捉まった。僕を覚えていたイオタは、上着の裾を握りしめて円らな瞳で見上げた。自転車の後ろにイオタを乗せて近くの露店まで走った。真っ赤な杏を選んだイオタと駅前の噴水の淵に腰掛けた。通りゆく人の流れを眺めた。イオタは、杏を頬張り盗み見るように僕を見上げた。
 「眼鏡……。」
 イオタの突然の言葉に驚かされたが、僕は直ぐに意味を理解した。単車専用のゴーグルを首から外してイオタに掛けた。
 「夜みたい……。」
 イオタは、色の付いたゴーグル越しに見える景色を喜んだ。空を見上げて嬉しそうに強請った。
 「単車に乗りたい……。」
 もう少し大きくなれば乗せる約束をすると、イオタは小首を傾げて尋ねた。
 「イオタ、大きいよ……。」
 「そのゴーグル、持っていていいよ。」
 僕の言葉が嬉しかったイオタは、片方に握っていた杏を僕に手渡した。僕は、甘酸っぱい杏を味わいながら、母親似のイオタが大人になった姿を想像した。整備工場を継いでいるだろうか、と考えながら僕は、遠い町で暮らす自分の姿を想い描いていた。

 夕立の中を家に戻ると、タウは本棚から何冊か取り出して読んでいた。本棚に並んだ背表紙を冷笑しながら一瞥しただけのイプシと違ってタウは、最初から手に取って書物の種類を吟味した。タウは、多種多様な蔵書を褒めた。僕は、両親が集めた書物であるのを説明してから、家族の中で妹が最も読んでいた話をするとタウは感心して興味を示した。
 「それなら、僕らがここに居座って困るだろうな。」
 「高校に入ってからは、図書館を利用している。それに、ここにある必要な本は頭に入っていると自慢する嫌な妹だよ。」
 僕は、手短にパイの読書の癖を説明した。タウがバイと最初から話があったのは、本好き同士だったからだろう。海辺の町で滞在中に暇な時間を本棚の前で過ごすタウの姿にイプシが、嘆息したのは別の意味を含ませていた。
 「まったく‥‥。タウの奴は、本の使い方を知らないと思ったが。つくづく筋金入りの大バカだな。」
 イプシの意見は、夏を過ぎてからも僕の頭に居座り続けたのだった。
 タウは本を納めると、僕に明日の予定を尋ねた。僕の返事を待ちかねて、タウは海に泳ぎに出掛ける提案を持ち出した。
 「来る途中、遠くに砂浜が見えたけど。」
 海辺の町に到着した早朝、タウが車窓から目にしたのは、古城が建つ浜辺だった。僕は、河口の先の半島の向こうに見え隠れする浜辺を思い浮かべた。
 「溺れたいなら、行ってみるかい。」
 僕は、少し気持ちが滅入るのを隠して陽気に提案した。
 「あの浜辺は急に深くなっているし、潮が沖に向かって流れている。地元の人は、近付かない。」
 「きれいな海なのに。それなら、ここの人達は、どこで泳ぐの。」
 「プールかな。賢明な人は、そうするよ。」
 僕が冗談を言っていると思ったタウは、古城の海岸に行くと言い出した。
 「案内しろよ。僕が溺れる姿を見せるから。」
 「本気か‥‥、面倒は御免だ。」
 僕は、素っ気なく引き留めた。南の岬の向こうに幾つか海水浴に適した入り江があるのを教えた。
 「路面バスが出ている。小一時間のバス旅を勧めるよ。もう少し生きるのも悪くないさ。」
 僕の真意を理解したタウは、自分の迂闊さに顔を青ざめた。
 「尋ねたのが僕で助かったな。妹なら、躊躇わずにお前を連れて行っただろう。」
 僕の薬が効いたのか、その後タウは遊泳の話題をしなくなった。

 夕食は、パイが用意した。学校帰りに食材を買い揃えていた。料理をする卒のなさは、母親の陰を見るようで当惑した。自分で気付かない素振りをするが、パイは母親を意識していたのだろう。僕と違ってパイの将来に構築されている計画の中には、母親が必要な存在に思えるのだった。それを否定もしないパイの生き様が、疎ましく考えてしまうことに僕は溜息をつかずにいられなかった。
 夕食の準備が整った頃に、イプシが帰ってきた。
 「初めての町は、先ず、足で散策する。」
 海辺を訪れた最初の日、何時もの理屈を持論を持ち出し出掛けたイプシは、市街地の外れまで足を延ばしていた。丘陵の麓に残る古い遺跡に興味をみせたイプシは、夕食の卓に自説を拡げた。パイは呆れて早々に食事を済ませた。それでも席を立たずに僕らの実りのない討論を聞いていた。僕らの話を聞きながら人物観察する様子が窺えて僕は、食卓の下で妹の足を蹴った。
 少し後になって妹は、僕とイプシが似ていると話した。
 「同じ種だけど、あの人の方が大人ね。でも、あれでは、孤独なままだし。寂しがり屋のくせに……、わたしはゴメンだけど。」
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