第三部 新たなる始まり 二、

文字数 4,173文字

 夕食が済むと居間に移り暖炉を囲んだ。ジィーノが暮らす町での出来事が話題になった。過ごした日々を尋ねられるままに語るるのは容易だった。問う言葉に多少の好奇心を含ませているとしても他意がなく気遣ってのことが理解できるから、未熟な若い頃のように優しさを煩わしくとらえなかった。
 『人にとって 時間を置くことは必要だろう。……それでも、たかだか十年を過ごしただけで個の持つ能力が進化するなら。』
 ジィーノは、自らを確かめるように胸の内で思うのだった。
 『この世界は、歳月の歩みに恋焦がれる人の想いに圧し潰されるだろう。』
 そう思案しながらも、時間の必要性を痛感し受け入れているのも事実だった。
 「結婚はしないのですか。」
 シルビアは、尋ねた。
 「早すぎる歳ではないですよ。誰かいい人がいないのですか。」
 ジィーノの苦笑にシルビアは、椅子から身を乗り出さんばかりになった。
 「どうしてです。……貴男にこれから必要なのは、一緒に歩める伴侶でしょう。」
 シルビアが、溜息混じりに続けた。
 「自分でも判っていながら、そうしない人は、見ていても辛いものですよ。」
 「フフフフッ……。たぶんジィーノは、超がつく面食いなのよ。
 陽気に笑いながらMのその場を和ます機転は嬉しかったが、彼女の瞳の奥底に潜む憐憫な冷たい光りをジィーノは見て取った。
 『死人に引き摺られるのは美徳かしら。ノスタルジーに囚われる残念な人。』
 Mの目は、そう語っていた。
 「馬鹿を仰い。」
 シルビアが、Mを叱った。
 「お前の悪い癖ですよ。いつだって茶化してしまう。子供の頃なら許されても、ジィーノは分別を弁える歳なのですからね。」
 「世の中、そんなに上手くいけば面白くないわよ。人なんて、気付いていながら悪い札を引いてしまうものでしょう。」
 「わたしが元気なら。分捕まえて折檻してやるものを。」
 シルビアが睨んで言った。
 「この鬼っ子が。」
 「その仰り方は、はしたなくてよ。」
 Mは、お道化ながら諫めた。
 「ジィーノを追い込んで帰してしまいたいのかしら。彼は、逃避行を自認する第一人者ですからね。」
 二人の被せ合う会話を懐かしくジィーノは聞き続けた。あの頃と変わらず二人は遠慮せずに非難を重ねながらもお互い相手を許すのだ。血の繋がりがなくても信頼できるのは、根源的な部分で理解しているからだろう。老齢の女性と若い娘とが慣れ合う姿は安心できた。
 「まったく……、口の達者なこと。この子を伴侶にしたいと、言い出さないだけ有難いけれど。」
 シルビアは、溜息混じりに呟くと話題を移した。
 「そういえば、何年か前にレサリーヌから結婚の便りがありましたよ。」
 ジィーノは、結婚式での話題を語り、安心させるつもりで断言した。
 「レサリーヌは、幸せになりますよ。」
 「思い込みの強い女性に見えたけど。」
 Mが回想するように軽く瞑目して尋ねた。ジィーノは、即座に否定した。
 「彼女は、愚かでない。」
 「打算的に見えなかったわね。」
 Mが真っ直ぐに見詰め確かめた。ジィーノは、笑って話した。
 「そのような抜け目のない女なら、アイツの子供を産んでいたさ。」
 「それなら、純粋な真面目さが好い方に働いたとか。」
 Mが軽く頷き納得した。ジィーノは、同意した。
 「アイツよりも大人だったと、云うわけさ。」
 今でもレサリーヌは理性を弁える最善の選択をしたと、称賛できた。心無い流言を鵜呑みにされ誹謗されることも多かったが、彼女の行動はロジェルを引き留められなかった失意から自暴自棄になったのでないのだけは確かだった。ロジェルが失踪する間際に二人の間の出来事は容易に推察できた。レサリーヌが女の武器を頼みとしなかったのは、聡明さのあらわれだっただろう。ロジェルの性格を愛するが故の勇気ある潔い決心に思えた。
 Mは、見極めるかのような視線を投げかけながら確かめた。
 「ジィーノが、一肌脱いだのかしら。」
 「僕は何時だって、傍観者にすぎないよ。」
 「フッフフフフ……、言ってくれちゃって。」
 Mが楽しそうに言った。
 「他人の生き様を見て悟り克服できると、思うのは錯覚に過ぎないでしょう。」
 「今も僕は、傲慢にみえるのかな……。」
 ジィーノは、そう言って苦笑を見せたものの、Mの指摘が正しいのを認めていた。
 Mは、ひとしきり明るい声で笑ってから尋ねた。
 「……それで、旦那様になられた方ってどのような御方なの。」
 「大人だよ。僕らよりも遥かに。未来を受け入れる寛容さを備えている。」
 ジィーノは、説明した。
 「三十歳ぐらい年上だけどね。」
 「その人の手足から血がながれていた、なんて冗談は言わないでよ。」
 「そうだな、人が流す血は見慣れているよ。高名な医師だからね。」
 「そっか……。二人の出会いは医師と患者だったとか。」
 Mが、独り納得した。
 「運命的な出会いじゃないの。素敵な物語が出来そうね。」
 「僕らにとっては、他人事だからね。」
 ジィーノは、そう言って苦笑した。
 何時の間にかシルビアは、椅子の中で寝息を立てていた。幸せそうな寝顔がジィーノを安心させた。Мは、老婆を抱きかかえて寝室に運んだ。
 
 暫くしてMが居間に戻った。
 「寝床を作ってきたから、ご自由にね。」
 そう言ってからMは、飾り棚から酒瓶を取り出した。
 「付き合うでしょう。」
 ジィーノは、直接会ってからと心に決めていたMの仕事の感想を伝えた。
 「良い批評をしているね。幾つか読ませてもらった。」
 「勿論、頑張っているよ。酔う前に聞かせてもらえて感謝です。」
 軽く笑みを浮かべて受けるとMは、透明の酒を酒杯に満たした。二人は、見つめ合い酒杯を掲げた。ジィーノは、静かに言った。
 「再会と、君の才知とを祝して。」
 「貴男の勇気に、乾杯。」
 Mが、軽く目礼を返し答えた。ジィーノは、最初の一杯を味わい、自家製の果実酒の変わらない味を称賛した。
 「もう一度、この酒を飲めると思わなかった。それに……。」
 ジィーノは、紅色の酒杯を室内灯にかざして感慨深く続けた。
 「この酒杯を使えるのも考えなかった。これは、君に始末を託したものだから、壊されていても文句は言えない。」
 「わたしは、預かっていたつもりよ。」
 Mは、軽く笑いながら言った。
 「人の想い出を始末する趣味はないわ。」
 「君は、優しいよ。恐るべきことに、優しさの使い方を知っている。」
 「煽てないでよ。自惚れちゃうじゃない。」
 「本心だよ。……ところで、あの硝子吹きの老人は元気なんだろうね。」
 ジィーノは、紅色の酒杯を制作した硝子職人の現況を尋ねた。老人が今でも細々と頑固に主義を貫き仕事を続けているのをMは話した。
 「わたしが占うと、あの人はこの浜辺で二番目に長生きするわ。」
 Mは、楽しそうに語った。
 「海に落ちる夕日よりも深い色の硝子を吹くまでは死ねないが、口癖だものね。」
 Mの話しぶりから老人の仕事場に通っているのが分かりジィーノは、少しばかり羨望する自分に気付き酒杯に視線を落とした。ジィーノは、紅色の酒杯と引き換えにMの大切な硝子の風鈴を壊してしまったことで負い目のような感情を拭いきれずにいた。Mの性格からすれば自らの風鈴を壊す行動に移すのは分かっていた。あの時、少しの逡巡も見せずMが手を下す思い切りのよさにジィーノは呆然とするばかりだった。
 「あの事があってから、気に入られちゃったでしょう。この私がね。」
 「僕は、無視されたよ。」
 ジィーノは、嘆息して言った。
 「あれでは、ただの愚か者だった。」
 「馬鹿おっしゃいな。ジィーノは、あれで正しかった。自分の役割を弁えていたでしょう。」
 Mが快活に言い切った。
 「私が少しばかり気を回しすぎたのでしょうか。ジィーノは今、口にする言葉ほども深刻に考えていないと観るけど。」
 「相変わらずよく観察している。後悔はしていないつもりだ。」 
 ジィーノは、正直に話した。
 「ただ、あの後に自分で酒杯を壊せなかったことは弁解の余地もない。」
 「それでいいのでしょう。」
 Mが優しく言った。
 「壊してしまう人なら庇ったりしなかった。」
 「君には、借りをつくるばかりだ。」
 ジィーノは、Mが自らの手で風鈴を壊した瞬間、老人が目を見開いて唖然とする姿を思い返した。Mの見せた決心の潔さは、硝子職人としての自尊心を持つ者にとって意外であったのだろう。老人がMの気質の良さに惚れたのなら当然にジィーノは思えた。
 『僕としても、理屈以前にMのその部分を認めていたのだろう。』
 ジィーノは、自分の気持ちを確かめるように胸の内で思った。
 『あの頃、Mが傍にいてくれなければ凡てを否定していたかもしれなかった。マルガリータの生き様に遭遇した人には有得える可能域だった……。』
 「拘ることは仕方がないと、教え気付かせてくれたのも君が最初だった。」
 ジィーノは、静かに打ち明けた。
 「あれが、新たな始まりの一つだった。感謝しかないよ。」
 「私は、死者の影を引き摺る聖女なんか認めないから。それを伝えるためだけに立ち寄ったの。」
 そう言って小首を傾げるMを見てジィーノは、立場の危うい曖昧さに気付いた。Mが低い声で笑った。乗り越えた思いでいたが、記憶の奥底に蟠る不自然な動揺が伝わったのだろう。それでも、ジィーノにそれ以上は踏み込んでこなかった。Mが悪戯っぽく片眼をつむった。相手の思案を弄ばないMの健全な資質に改めて感謝した。他人の体験を甘受する感性を持ち慮る理性を備えながらも頼みとせずに、相手を言動で諭し決意を促し傍観する勇気と忍耐とを併せ持つMがどこまでも冷静で寛容であり威厳を備えている聡明さを羨望し認めていたのだ。
 「僕の覚悟を話したつもりだよ。」
 「そうなのか、そうでしょうね……。」
 そう呟いてからMは、二敗目の酒杯を捧げ言った。
 「それでは、見せてもらいましょうか。貴男の覚悟とやらを。期待していいのね。」
 その夜、二人は遅くまで飲み交わした。仕事の話に始まり、遠い国の情勢にまで及んだ。世界で起きる出来事を我が身に降りかかる災厄のように同情していた。
 夜半も過ぎ自室に戻ろうとするジィーノにMは言った。
 「車のキィは付けているから、ご自由に使って下さいな。」
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