第三部 新たなる始まり 一、

文字数 3,551文字

 マルガリータの死去より十年が経つ。
 第三部、歌姫ルーミナイに捧ぐ。

 昼下がりの終着駅は閑散としていた。列車が出た後の昇降場に人影は見当たらなかった。改札口に差し込む晩冬の弱い光は、南の地といえども春の到来が未だに遠いことを物語っていた。ジィーノは、駅舎の構内で逡巡する立場を悟った。仕事帰りに足を延ばした気持ちに偽りがなく、浜辺を再訪する意思は冷静であり歳月が過ぎるのを無為に見送らなかったと信じていた。それでも心の奥底で蟠る吹っ切れない感情を引き摺っていたのだろう。ジィーノは、感慨深く呟いた。
 「十年になるのか……。」
 学生の頃に辿り着いた海辺での日々を回顧しながら目に入る景色を比べ秘かに思った。
 『心のどこかに移り変わっているのを期待していたのか。』
 ジィーノは、小さい旅行鞄を持ち直して駅前の商店街に足を向けた。アーケード通りを買い物客に混じりながら店先の商品を眺め歩いた。花屋の前に並ぶ黄色い花が目に留まり立ち止った。可憐な花弁が無数に集まった姿は、思い出深く穏やかな気持ちにさせた。若い店員から勧められるままにその黄色い花を買った。花束を手にして旅姿と似つかわしくないのに気付いた。ジィーノが物憂げに見えたのだろうか店員は笑顔で小首を傾げた。花の種類を尋ねられた店員が、少し驚いたような表情で答えた。
 「早咲きの野辺花です。この辺りでは、春を告げる幸せの使いと喜ばれています。」
 浜辺の丘陵に自生するようすを思い起こしながらジィーノが、そのことを話すと店員は明るく微笑んだ。
 「この近くの浜辺でも採れますが、もう少し先になると思います。今年は、いつまでも寒いですから。」
 路面電車を使わずにジィーノは、時間をかけて歩いた。見覚えのある建物や店を覗いたり公園に立ち寄り休息しながら想い出が重なる場所で秘かな感慨に慕った。初めて訪れた学生の頃は、いずれ去らねばならない旅行者の立場を期待もなく冷静なままに受け入れていたのだ。
 やがて古い町並みは、夕日に赤く染まり暮れていった。黄昏の雑踏を離れて古くからの屋敷が並ぶ丘陵の麓に着く時分には、残光も夜の帳に沈んでいだ。街灯が零れる薄闇の中を迷うことなく、蔦が張る煉瓦塀で囲われた屋敷に辿り着いた。正門の前で鉄柵越しに庭を窺った。車道の先に木立で半ば隠れる玄関の灯りが見えた。静謐な屋敷の変わらない様子を前にして住人のシルビアの年老いた姿を思い浮かべた。
 季節の変わり目に手紙が届いた。海辺の出来事を連ねるシルビアの文面からは、気遣う優しさが伝わった。両手で包み愛しむ内容に救われながらも、日々の営みを優先するばかりに頭でしか理解できていなかったからだろう。焦燥のうちに思い至った全てが正しかどうかは判らないが、現実の大切さを教えられ頭が下がる思いだった。

 玄関の呼び鈴を鳴らした。少ししてインターホン越しに人の気配が窺える物音が聞こえた。ジィーノは、一呼吸おいて名乗った。シルビアの変わらない声音が返ってきた。
 「錠前は掛けていません。お入りなさい。」
 薪が柔らかく燃える暖炉の前にシルビアは独り座っていた。老女は、両手を広げて皴だらけの顔をほころばせた。髪が真っ白になり酷く年老いて見えた。十年という歳月は分かっていたつもりだったが、届く手紙から記憶に残るままの姿を想い描いていたからだろう。ジィーノは、言葉もなくシルビアの一回りも細くなった背中を抱いた。
 「よく戻られましたね。元気そうで何よりです。」
 シルビアが優しく言った。ジィーノは、懐かしい匂いを胸に満たして静かに頷いた。
 「……さぁ、顔をよく見せて下さいな。」
 ジィーノは、片膝をついて老女の目の高さに身を屈めた。出会った時分は、相手の将来を見定めるかのようなシルビアの眼差しに冷徹さを覚えたからだろう。どのように写るのか考えるのが面倒で距離を置いたが、今こうして間近で灰色に透ける瞳の奥底を覗き込むと、視線は畏怖するものでなく正直な人だけが備える誠実な温かさが見て取れた。
 『必死だったから、若さ故に貴女の優しさを取り違え、迷惑に感じていたのですね……。』
 ジィーノは、自らを省みながら心の中で受け入れた。二十歳の多感な時期は、目前の現実と理想との差異に苛立ち素直でいられずに日々を純粋なまま向き合うのに必死であったからだろうか。十年の歳月を経てあの時期に再会し言葉を交わせたのは、何物にも代えがたかった。後にシルビアと同じ老齢に近付につれて、多くの体験を冷静に懐古できることからしても正しい選択であったのだ。
 シルビアは、暫く見詰めた後で優しく言った。
 「……いい男になりましたね。」
 「シルビア……。」
 ジィーノは、微笑みを返し気持ちを込めて老女の名を呼び続けた。
 「僕は昔から、いい男であったと自負していましたよ。」
 「その生意気な言い草は、間違いなくジィーノですね。」
 シルビアが嬉しそうに頷いた。皴だらけの指で頬を撫でられるままにしながら何歳になったのか尋ねられたジィーノは、シルビアの積み重ねられてた歳月に比べれば脆弱に感じて一瞬だけ口籠った。
 「そぅ……、まだ三十歳を過ぎたばかりです。」
 言葉が迷って伝わったのだろう。シルビアは、指先きでジィーノの頬を諭すかのように軽く叩き微笑んだ。
 「駄目ですよ。わたしには、もう三十歳を過ぎたと、自慢してくれなければ。」
 シルビアが、そう言ってから尋ねた。
 「ゆっくりしていけるのでしょう。年寄りに色々と話しを聞かせてくれなければなりませんからね。」
 ジィーノは、突然の訪問の非礼を詫び数日の滞在を伝えた。シルビアは、足腰が弱くなり杖があっても満足に歩けない話をした。
 「もう直ぐ帰るから用意させますね。今では、全てがあの子任せになのですよ。」
 ジィーノは、同居人のM(マー)を想い返した。シルビアに出しそびれた花束を渡す結果になるのに気付き複雑な感情に駆られた。
 車が玄関の前を通り車庫に向かう音がした。複雑な淡い想いを抱き微かに緊張しながらジィーノは思った。シルビアとの再会のように素直にいかないだろうと。
 『一人の女性として 意識してしまうのはおかしいと、言えばおかしいが……。しかたがないのか。』
 廊下を移動する音が伝わり、居間にMが現れた。浅黄色のドレス姿の彼女は、驚き取っ手を握ったまま立ち止った。あの頃と変わらず漆黒の髪を長く伸ばしていた。十代半ばの少女の面影はなく、落着き大人の雰囲気が具わっていた。Mは綺麗に微笑みながら近付いた。握手すべきか頬に口づけすべきかジィーノが迷っている間にMは、腕の中に飛び込んた。ヒールの高い靴を履いているからジィーノよりも背が高くなっていた。
 「……ジィーノ。」
 Mは、感極まり名前を呼んだ。長い抱擁の後、ジィーノの首から両腕を離してMは、褐色の肌に映える明るい緑色の瞳を潤ませしみじみと見詰めた。
 「変わらないのね。貴男は、昔のまま。」
 「僕は、変わったつもりだよ。」
 ジィーノは、少し硬い微笑みを返した。Mが小首を傾げて悪戯っぽい笑顔を作った。
 「貴男の良いところは、変わっていないのでしょう。」
 「褒められたかな。」
 優しく言ってジィーノは、花束を手渡した。
 「君も綺麗になった。」
 Mは花の中に顔を埋めて恥じらい微笑むと、もう一度ジィーノの首に抱きつき耳元で囁いた。
 「……許していいのかな。」
 二人の傍で目を細めてやり取りを眺めているシルビアが言葉を向けた。
 「懐かしい対面中ですが、挨拶がすんだなら夕食まえに着替えさせてあげないといけないかね。……昔のようにお前の部屋でもいいかい。」
 「私は、問題ないけど。ジィーノはどうかな。」
 Mは、含み笑いながら尋ねた。
 「今では、世間体を煩う大切な立場なのでしょう。」
 「気遣ってくれるのは嬉しいが、それで困る立場でもないよ。でも今回は、別室をお願いする。」
 ジィーノは、自分の言葉を釈明するように付け加えた。
 「独り寝に慣れていてね。誤解しないでくれ。」
 言い訳じみた慌てようが面白く感じたのか、Mは陽気に笑った。ジィーノも自らの釈然としない説明に苦笑を返した。
 「二階の北の奥の部屋を使って。寝具は後で作りに行くから。」
 そう言ってからMは、笑みを浮かべて片目をつぶって見せた。

 二階の部屋は、昔のままだった。隅々まで掃除が行届き綺麗に保たれていた。十年前もジィーノは、港町の見渡せる部屋を宛がわれたがMの部屋で過ごした。意識することもなく行動を不自然に感じず兄妹ように接したのだ。Mが愛用する旧時代の大きな寝具の上で夜もすがら多くを語り合った。あの日々が懐かしく感じられるのは、今に繋がる大切な思い出だからだろう。
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