文字数 2,376文字

 最上階を住居に改築したのが母だった。アパートを相続した母は、家族の意見も聞かずに引っ越しを決めた。それまで住んでいた葡萄畑が広がる田舎の家に未練があった就学前の僕は、塞ぎ込んでしまった。見かねた父は、休みの期間に田舎で滞在する提案をしてくれた。子供に迎合する夫の姿を言葉少なく非難する母に、父は優しく肩を竦めた。最初の数年は、父に連れられて田舎に戻った。少し大きくなると乗り合いバスを使い一人で出掛けた。
 休みの期間に田舎で過ごすのが、唯一の慰めとなった。大地の匂いや木々の色を身近に感じると僕は、その向こうに広がる空の青さを心行くまで堪能して満ち足りた気持ちになるのだった。今でもその記憶が、成長の自立に繋がっていると信じていた。

 三階の窓から港が望める景色をイプシは、興味深く観察した。嵐の大変さを僕が話すと、イプシは深く溜息をついて見せた。
 「お前も分かっていない。自然と対峙できる素晴らしさを放棄したいのか。都会育ちの脆弱なタウを見ろ。それだけでも罪に値する。」
 「現実は過酷だよ。【自然は、時と場所を選ばず、我ら愚民に試練を与える】のじゃなかったのか。」
 僕が冷笑混じりに確かめると、イプシは身を寄せて耳元で逆に尋ね返した。
 「【人が場所を選ぼうとしない】からさ。違ったか。」
 その言葉に僕は、否定をしなかった。
 イプシが個人的に最も喜んだのは、夏の間に寝起きする屋根裏部屋だった。
 「ここが、お前の根っこの場所か。」
 珍しく燥ぐイプシは、埃っぽくて薄暗い部屋の隅々を眺め感心した。そして、ここなら毎年でも訪れたい、と言った。
 「タウも、このような場所で海を見て思索する必要がある。」
 イプシは、語彙を強めてタウに勧めた。
 「さすれば、女の真の美しい姿を知ることが出来るだろう。」
 「他人に諭されなくても、他で勉強するよ。」
 タウは、寝不足で不機嫌に言った。
 「君ほども好みは強くないからな。」
 書庫にしていた屋根裏にマットを敷き三人分の寝床を確保した。玄関に近い居間の隠し階段から出入りできる構造は、夏の不規則な生活に都合がよかった。屋根裏部屋を拠点にするのを知ったパイは、呆れ顔で三人の年上に向かって女友達を連れ込まないように釘を刺したのだった。その夏は心配なかったが、僕ら学生の時間をかまわない騒々しさは、パイに異性の興味以上の不信感を抱かせたのだろう。後々になっても、最初の夏を冷笑混じりに僕らの行動を否定して見せた。

 夜通しの車移動で疲れていたが、僕らの気持ちは昂っていた。軽く朝食を取った後、タウだけが仮眠に屋根裏へ引き篭もった。イプシは、最初の一日を有効に使い一人出掛けて夜まで帰らなかった。
 僕は、タウを残して整備工場に向かった。海辺の町を出るときに単車を点検に預けていた。駅裏の整備工場に行く途中、駅を横切った。朝の混雑も済み構内は閑散としていた。海辺の町に引っ越してきた頃は、毎日のように駅前の噴水の淵に腰掛けて路面バスを眺めた。少し大きくなって路線バスに独りで乗れるようになると、最初に向かった先は、生まれ故郷の田舎だった。一人で訪れる感慨は、その後も長く続いた。バスに乗って出掛ける度に少しづつ成長しているような気持になったからだろうか。新たな発見を求めて見知らぬ土地を日帰りで訪れたのだった。免状を所得した後は、父親から譲り受けた単車で海辺を巡り隣町や丘の向こうの村にまでも出掛けた。単車の自由さを知ってからは、バスの大切な想い出を自分の中にしまい込んだ。
 単車は、整備工場の片隅にシートを掛けられて置かれていた。工場主の親爺は、いつものように何処かに出掛け姿がなかった。幼い女児を連れて出戻った一人娘のイータが、見習い工員を使って店を切り盛りしていた。僕の顔を久々に見たイータは、修理の手を休めて親爺譲りの軽い憎まれ口をついた。
 「……おゃおゃ、忘れていなかったようね。この娘、寂しくて死にそうになっているよ。」
 「自由に使ってくださいと、言っておいたはずですよ。」
 僕は、エンジンを掛けながら笑顔で言い返した。
 「……調子がいいです。有難う。少し使います。」
 久しぶりに海岸の丘陵を越えた。風が強く塩の匂いを胸に満たして走った。湿地帯の広がる浜辺が見渡せる高台で単車を停めた。座席に腰掛けたまま海を眺めた。波が白く波立ち風が強く吹きあがってきた。
 中学生の頃にこの場所を見つけた僕は、波打ち際の古城を訪れたい衝動に駆らて足を踏み入れた。浜辺の伝説や逸話を聞いていたが、少しの迷いも恐れもなかった。若気の至りだったのだろう。しかし、あの日、古城に辿り着くことが出来なかったのだ。湿地帯の浜辺は、緩やかな起伏が連なり方向を迷わせた。夕刻が近くになり薄闇の中で僕は、初めて行動の無謀さに気付いた 僕は、逃げるようにして町に戻った。畏怖の念に追い立てられるような惨めな姿だった。
 その夜、僕は夜具の中で眠れない時間を過ごした。悔しさからよりも愚かな行動を正当化する理由を見つけ出そうと焦った。
 それからは、遠く丘陵から眺めることがあっても、二度と古城を目指そうと考えなかった。古城を訪れた人の噂を耳にした時、その言葉の持つ事実の深さに猜疑し嫉妬したのだろうか。胸の中で吐き捨てた。
 『‥‥誰が、行けるものか。』
 古城が建つ海岸は、季節が移っても昔のままだった。海辺の町を出る前に来てから数か月しかたっていなかったが、変わらない風景を目にして改めて考え込んだ。そのとき僕は、愚かにも信じてしまいそうになった。幾度季節が廻り、人が移り変わろうともこの浜辺は、変わらない景色を保ち続けるのだろうと。
 『僕が想うように感じた人が、今までもいただろうし、これより以後も現れるだろう。』
 そう思うと、少しばかり気持ちが楽になった。
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