2006年9月28日

文字数 2,143文字

2006年9月28日
 東京駅内の変電所停電により、京葉線が復旧していないことは知っていたが、東京駅に到着する頃には何とかなっているだろうと思っていたものの、その予測は外れる。仕方がないので、友人と東京駅から大手町駅まで歩き、そこから東西線で浦安に行く。

 人ごみに押されながら浦安の駅前に出ると、テレビ局や新聞社の記者が取材をしたり、カメラを群集に向けていたりしている。上空の取材ヘリの音がやかましい。『地獄の黙示録』のマーティン・シーンになった気がして、ロバート・デュヴァルを探したくなる。

 バスは2時間待ちだと人から聞かされたので、交番で道を尋ね、徒歩で、舞浜駅へ向かう。この日は9月だというのに、最高気温28℃の予報通りで、太陽が恨めしい。乾燥しているので、日陰を探しながら、進む。50分ほど歩き、今朝立てた到着予定時刻の12時を1時間ほどすぎている。ふと見ると、青い半袖シャツから出た腕が赤く日焼けしている。
 生ビールを一杯飲み、一息つく。どちらにしようかと迷っていたが、少しのんびりしたくなり、東京ディズニーシーに決める。到着した頃にはもう2時だ。

 「アクアトピア」で水浸しになる。靴の中にまで水が入ってしまう。立て看板の「水に濡れる」は正しくない。これは「水を浴びる」だ。

 ジェットコースターに乗るのは厳しくなっている。落ちる時がいけない。子供向けの「フランダーのフライングフィッシュコースター」で十分だ。

 「インディ・ジョーンズ」に満足した後、駅が混雑すると予想し、早めに帰路につく。京葉線が復旧していたものの、ダイヤは正常から遠く、通常は15分程の所有時間が48分以上もかかって、9時近くに東京駅に到着する。KIOSKで売られている夕刊紙の「桑田スペインへ」の見出しが目に飛びこみ、「『桑田』ってサッカー選手いたっけ?」と一瞬悩む。

 乗客は電車がほんのわずかでも動いている方が、止まっている時よりもほっとしている。いつかは目的地に辿り着けると思えるからだ。

 夢や理想というのもそういうものだろう。ディズニー社のテーマ・パーク事業はウォルト・ディズニーの夢あるいはユートピアの現実化と言える。

 断片的な思想家は、概して、将来のヴィジョンを示すことが得意ではない。ホッファーも例外ではない。彼は、ユートピアの建設者は知識人であるという信念の下に、それに慎重である。とは言うものの、ホッファーは現体制にまったく問題がないとは考えていない。

 デビュー当時のホッファーがそうであるように、断片的思想家は、その解体性のため、辛辣さやシニカルさが目立つことが少なくない。ブログにも、時折、そうした傾向が見られる。けれども、次第に、ホッファーは、アンドレ・ブルトンが切断の芸術であるダダイズムからその浮遊を自由に接合するシュルレアリズムへと発展した通り、細切れをつなぎ合わせ始める。しかし、それは絶対的なものでも、他人に押しつけるものでもない。一つの「構想された真実」である。

 ホッファーは、『現代という時代の気質』において、「通常、現在の体制に変えるものを考えようとするとき、選択の対象は、単独にしろふたつ以上の結合にしろ、教会としての社会、軍隊としての社会、工場としての社会、牢獄としての社会、学校としての社会のいずれかになる」とし、その中で「学校としての社会」を選ばなければならないと自らのヴィジョンを次のように述べている。

 まず、北部カリフォルニアの一片と南部オレゴンの一片からなり、カリフォルニア大学によって運用される試験州からはじめることにしよう。それを失業者の州と呼び、そこに入ってきたものは誰でも自動的に学生になれることにする。州は多数の小さい学校区に分割され、各区はその天然、人間資源の実現と開発も義務を負わされる。生活必需品の生産はすべてオートメ化される、というのは生活の主要目的は人々が学び成熟することにあるからだ。学校区を小規模にするといったのは、人間の能力の開発には異なった興味、技能、趣味をもつ人々がお互いに知りあい、毎日のようにつきあい、競いあい、対抗しあい、刺戟しあうような社会単位が必要だと確信しているからである。一つの体制から他の体制へ、一つの区から他の区への移行が完全に自由にする結果、人々の選別が継続的におこなわれ、やがて各体制、各区はその最も熱心な支持者によって運営されるようになろう。

 「一国内に二つの社会体系が共存することはわれわれの自由の感覚を強化する」。「なぜなら、自由は、経済、文化、政治の分野における二者択一の可能性にもとづいているのだから。専制がおこなわれていないばあいでさえ、みじめな貧困、政治的無気力、文化的均一性があるところで自由は無意味になるからである」。二者択一こそが自由だという主張はいささか短絡的かもしれない。けれども、多様に見える状況であっても、実際には、二者択一か否かという究極の二者択一を含め、人間の思考は二者択一に則っている。多様さは多くの二者択一の組み合わせによって可能になる。自由は二者択一の感覚の中で磨かれていく。二者択一は教会や軍隊、工場、牢獄ではありえない。「学校としての社会」が選ばれて当然である。
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