2006年9月29日

文字数 1,728文字

2006年9月29日
 朝起きると、足が痛い。完全な筋肉痛だ。いびきも珍しくかいていたようで、その音で6時に目が覚める。

 安倍晋三首相は今国会を「教育国会」と名付けようとしている。彼は、教育基本法の変更を望み、サッチャリズムの教育改革を賞賛している。しかし、近代日本の最大の教育問題は政治的課題が教育へとすりかえられてきたことである。教育対教学論争や教育勅語形成を見るだけでも、それは一目瞭然だ。思いつきと思いこみで政治をしてはいけない。「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」(『情熱的な精神状態』)。

 学力の向上が求められているが、それはかつてのような量ではなく、質を意味する。けれども、一般に、質を重視すると、平等が損なわれると信じられている。

 ところが、この学力向上の方法は、佐藤学の『教育の方法』(放送大学教育振興会)によると、多くの研究で共通した結論が導き出されている。それは目標達成型の一斉授業ではなく、テーマ研究型の「協同学習(collaborative learning)」が学力の質的向上と平等を両立させることである。現代はプロジェクトで問題に取り組む時代であるから、そこでのコミュニケーションを通じて公共性も同時に養われる。公共性はコミュニケーションによって形成されるのに、それを「心の問題」として指導することは関係性への視点を欠いた観念論にすぎない。

 フィンランド人リーナス・トーバルスがオープン・ソースのリナックスを公にしたのは、協同作業を企業内部のプロジェクトに限定するのではなく、地球規模に拡大するためである。そこでは消費者であると同時に、開発者であり、広報者である。

 ブログの思想は、そう考えるならば、グローバル規模の協同学習にほかならない。ブロガーは表現・批評・広報を同時に兼ね、電子文芸共和国の公衆であり、百科全書派である。

 学力別編成や個別指導が学力向上にまったく有効ではない。また、競争も効果的ではない。それらはいずれも量の教育の遺物にすぎない。「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ」(『ホッファー自伝』)。OECDのPISA調査は競争ではなく、協同の学習を用いると、平等と質が両立できると告げている。「弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD・H・ロレンスのような人たちは重要な点を見過ごしている」(『ホッファー自伝』)。協同学習のフィンランドが平均点や優秀な学生の比率、学力格差、学校間格差などいずれの項目でも最高の値を示している。エリート教育を当然視してきたドイツでは、そのトップでさえも、非エリート教育のフィンランドに歯が立たなかった結果にショックを受けている。「若者が教えるのに忙しく、自ら学ぶ時間をもっていないということ、これこそ現代の病癖である」(『人間の条件について』)。

 PISA調査のランクの上位は、たんに2学年1クラスとするだけでなく、同じ内容を二度勉強するスタイルの複式学級を採用している。今日の教育は問題を解くことできるではなく、その意味をわかることを目指している。おそらく文部科学省の官僚はこれを知っている。けれども、信念で凝り固まった政治家は受け入れようとしない。「教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身につけさせることにある。学んだ人間ではなく、学びつづける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは、祖父母も父母も、子供たちもみな学生である。激烈な変化の時代において未来の後継者となりうるのは、学びつづける人間である。学ぶことをやめた人間には、過去の世界に生きる術しか残されていない」(『人間の条件について』)。ホッファーの「学校としての社会」は学校社会ではなく、学習社会を意味しているのであり、それは到来しつつある。
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